『キャラクター』
菅田将暉演じる漫画家が、目撃した殺人事件を題材に描き始めたところ、逆に漫画のとおりの殺人事件が起こってしまうというミステリー。
タイトルの「キャラクター」は、主人公が画力はあるが、キャラクターを描けない漫画家というところからくる。
しかし、この映画、キャラクターの描き方が不十分だ。
主人公の漫画家と殺人犯、それを追う刑事が2人。
殺人犯は、特殊なコミュニティで生まれ育ったことが原因で殺人犯になるが、その動機が弱い。
おもしろい殺人犯を設定してから、その動機を後付で加えた感が拭えない。
族上がりの人情派?の刑事役で小栗旬が活躍するが、途中であっけなく殉職する。
なぜ、このタイミングでわざわざ殺すに至ったのかがよくわからない。
漫画家の妻を高畑充希が演じているが、完全におまけキャラで、高畑充希にしてみたら、演じがいのないオファーだったのではないかと思ってしまう。
実は、キャラクターを描くのが下手という主人公の設定は、この映画の監督自身のことなのかもしれない。
あるいは、あえて下手に描くことで「キャラクター」というものを立てたかったのかもしれない。
謎が多い作品である。
『VIVANT』での緊張感
大手商社のちょっとダメ社員が、世界規模の問題に巻き込まれてしまうこのドラマ。
いきなりモンゴルロケ、しかも砂漠での撮影という、作る側の視点で見てしまうと吐きそうな展開。
それはそうと、初回90分で、主人公が誤送金事件を解決するためにバルカという架空の国へ行って、自爆事件に巻き込まれ、当事者としてバルカ警察から追われる立場になり、3回目までかけて、必死の国外脱出のシーンが続くのだが、ちょっと気になるところが。
大使館を抜け出し、それがバレて、手配されても数十分の差でなんとか隣国モンゴルに逃げ切れるという状況において、同行していた医師カオルが、大事にしている少女が病院から抜け出したことを知って、彼女の家に立ち寄るというシーン。
立ち寄ることによって、数十分のバッファを使い切り、しかも少女が体調が悪くなっていたことから、数日かけて看病することになる。
立ち寄ることを決断するとき、少女は病院を抜け出したことしかわかっておらず、命がけで国外へ脱出を図っているはずの状況が、立ち寄っても大丈夫な程度に成り下がり、緊張感がなくなってしまっている。
さらに、そのシークエンスの結果、ラクダで砂漠を越えていくしかないということになるが、途中でカオルがラクダから転落し、それが最大4時間前のことだということがわかるシーン。
あきらめるしかないと言う野崎に対し、主人公乃木は一人で救助に戻る。
そして、カオルを発見し、連れて帰るが、途中でラクダが動けなくなってしまい、おぶって歩く。
そして、あと数キロというところで力尽きるが、野崎が助けに来る。
このシークエンスは不要だ。
どうせこうなるということがわかっていて、さらに一刻も早く脱出しなければならないという緊張感を失わせている。
(この緊張感はその前のシーンですでに弱まっているが)
これが伏線となり、物語をよりおもしろくするのであればよいが、困難な状況を与えただけ、得られた結果は絆が強まっただけというのでは、せっかくの緊張感を失わせる価値はないと思う。
最近、こういう展開は多い。
どこかで誰かが、こうすればいいって教えているのだろうか?
アメリカ映画では、主人公が逃げるときに、なぜか美女を連れていて、転んで逃げ遅れるのを助けに戻る、みたいなのは大昔からやっている。
これは、きっとアメリカ人はこういうのが好きなのだと思う。
そして、ほんとうにそういう場面になったら、命がけで助けに戻る(のが良い)のだろう。
エイリアンの2か3でも、このようなシーンのおかげで、エイリアンの怖さが激減するシーンがある。
リドリー・スコットのエイリアンは、圧倒的、絶対的に怖い存在だったからあの映画がおもしろかったのだ。
映画「エクソシスト」
むかーし観て、怖くて、それ以来である。
あらためて観ると、とても新鮮だった。
イマドキの感覚で言うと、事件が起こるまでが長い。
単純に少女に取り付いた悪霊を、神父が戦って追い払う話、くらいの記憶しかなかった。
少女の首がグルっと回るのは、さすがに覚えている。
こういった恐怖の表現がイマドキなディジタル処理ではないところがまた新鮮だ。
まず、思うのは、役者の演技自体がもう怖い。
アナログ時代の映画を観ていてよく思うことだが、たとえば狼男に変身するときは、変身してしまいそうなところまでは演技なのだ。
驚いている人にカットバックして、戻ったらそこで初めて特殊メイク、といった流れである。
その点、リンダ・ブレアの演技はすばらしい。
ラストで元に戻った少女の顔を見て、あの悪魔の演技もこの子がやっていたのか、とあらためて思ってしまった。
いやいや、やはり演技は重要だ。