ハマスがイスラエルに対しテロを敢行した10月7日は、プーチンの誕生日です。
これは単なる偶然の一致ではないでしょう。おそらくイランからプーチンに対するメッセージが込められていると考えるべきではないでしょうか。

あのテロにより世界の世論は一変してしまいました。
いつの間にか悪党プーチンの話題は消え、いまではイスラエルがパレスチナ人に対して大虐殺をやっている、けしからん、米国は二重基準だ、というような論調にすり替わってしまいました。
国連のグテーレス事務総長はハマスのテロは悪いが原因をつくったのはイスラエルだ、というようなことを発言し、イスラエルから猛烈な批判を受けました。

ところでいまのところ、ハマスのテロの結果、最も得をした政治家がプーチン大統領ではないでしょうか。ハマスとハマスを操るイランはプーチンを助けたようなものです。

ロシア・ウクライナ戦争において、既にイランは、ロシアに軍事ドローンを提供するだけでなく、ロシア国内にドローン製造工場を建設し、ロシアを積極的に支援しています。いまやロシアとイランの両国は軍事同盟関係にあるといえるでしょう。

ロシアのショイグ国防大臣は2023年9月にイランを訪問し、イランのバゲリ参謀総長と会談しています。
盟友同士の会談の席で、ふとプーチン大統領の誕生日プレゼントのことが話題になったのかもしれませんね。

ショイグ「そういえば、たしか昨年はベラルーシのルカシェンコ大統領はトラクターを贈っていただきました。またタジキスタンの大統領からはメロンとスイカの大きな山が届きましたよ。」
バゲリ「私どもの国はとてもそのような大きな贈り物はできません。ハメネイはささやかではありますが、ずっと前から、貴国の大統領閣下に喜んでいただけるような贈り物、いや捧げ物を準備しております。貴国と我が国の同盟の証として。プーチン大統領閣下にお伝えください。」

 

 

 

 

「これは、イスラエルにとっての911だ」

今回のハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃で、結果的に一番得をした人物はプーチンではないでしょうか。

 

今やロシアとイランは同盟関係にあります。

ハマス―イランーロシアで繋がっています。

今回のテロは、おそらくイランがプーチン大統領閣下に贈った、このうえないお祝いのプレゼントだったのではないでしょうか。

 

71歳の誕生日の。

 

皆さん、テロが起きた日とプーチンの誕生日を、確認してみてください。

 

偶然の一致、そんなわけないでしょう。

 

今後イランはプーチンに対し、より大きな見返りを求めてくるのではないでしょうか。

 

 

 

 『帋灯 柿本人麻呂』(柿花仄著)の精神を受け継ぎ、後の時代へ継承する意味も込めて、紀貫之が書き残した『古今和歌集仮名序』から柿本人麻呂に関する箇所を抜粋し、皆さんにもご紹介したいと考えました。

 下記のとおりです。

 

 いにしへよりかくつたはれるうちにも、ならのおほむ時よりぞひろまりにける。かのおほむよや、うたのこゝろをしろしめしたりけむ。かの御時に、おほきみ(み)つのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。これはきみも人もみをあはせたりといふなるべし。あきのゆふべたつたがはにながるゝもみぢをば、みかどの御めににしきとみたまひ、春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。又山のへのあか人といふ人ありけり〔と〕。うたにあやしうたへなりけり。人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける

 

(注1)

 赤字で下線を引いた部分が持統天皇と柿本人麻呂の密通を暗示しているところ。

(注2)

 引用部分赤字の最後の2行の箇所が、柿本人麻呂と山部赤人は別々の人物ではなく、同体二名の同じ人物を暗示しているところ。

 ちなみに、人麻呂は持統との密通がバレて、額に2つの赤色の○印の入れ墨を入れられたうえ上総国へ流刑となる。以後赤人と呼ばれる。

 

 以上、注1及び注2とも『帋灯 柿本人麻呂』(柿花仄著、東京経済、2000年)の中で取り上げられている『大日本哥道極秘伝書』に書かれています。

 詳細を知りたい方は、図書館で『帋灯 柿本人麻呂』を借りるなり、ネットで古本を購入するなりしてください。

 続編となる『帋灯 猿丸と道鏡』(柿花仄著、東京経済、2003年)もとても興味深いです。とりわけ「孝謙天皇と道鏡」の章には衝撃を受けました。

 

 ところで、気になったのは、柿花氏は1932年生まれなので、今年(2023年)で90歳を超す年齢かと思われます。失礼ながらご存命なのかどうか知りませんが、著書の元ネタの『大日本哥道極秘伝書』は、散逸の心配もあるかと思われます。恐れながら、個人で所有するよりも大学の史料編纂所とか公的な資料館で保管してもらったほうがいいのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

単行本でも、文庫版になっても、そうなのだが、この本には、何か謎が隠し込まれているのではないか、と直感し、その解明に1年以上費やしてきましたが、残念無念、私の力ではとうていその謎を解くことができないと判断したので、謎の元が何なのかを皆さんにお示ししますので、どうか皆さんには、その謎解明に挑戦していただくとともに、謎が解けた場合は、答えをインターネットにアップしていただけないかと考えた次第です。

 

謎解きにあたり、図書館に行って本を借りたり、書店に行って新たに本を購入する必要はないかと考えています(手がかりがひょっとしたら本の中に載っている可能性も考えられないではありませんが)
 

本ブログ冒頭に掲示した写真を見ていただくだけでよいのです。
何か変なところがあることに気がつきませんでしたか?

 

もう、もったいぶった言い方は止めにします。
本のタイトルに注目してください。

単行本では『騎士団長殺し』の「殺」の文字だけ少し斜めを向いているのがお分かりになるかと思います。
文庫版では「騎士団長」までが横書きですが、「殺し」は「長」の下に縦書きにされています。
これは変だなとは思いませんか?
どうしてこのような表記になったのでしょうか。

 

私はこう推測しました。

タイトルの読み方は「きしだんちょうごろし」ではなく、「騎士団長」と「殺し」の間に一呼吸置き、「きしだんちょう ころし」(「ご」ではなく「こ」)と読むのだということを著者の村上春樹氏は暗示しているのではないかと。
 

その上でひらがなの「きしだんちょうころし」のままか、あるいは「KISHIDANCHOKOROSHI」とローマ字表記に直して、そのうえで、文字を並べ替えて、何か別の意味をもった言葉を浮かびあがらせようとしているのではないか、と考えました。
 

これは村上春樹氏が仕掛けた一種のアナグラム(言葉遊び)ではないかと考えたわけです。日本人のみを対象にしたお遊びです。
「雨田具彦」、「AMADATOMOHIKO」と組み合わせるなどして、なんとかこのアナグラムを解こうと頑張ったのですが、私には無理でした。
もしこれが本当にアナグラムだった場合、これを解けた人は、是非広く一般に公表してほしいのです。

 

(アナグラムの例)

KING LEAR(リア王)  → REAL KING(あるがままの王)


もっともそのようなアナグラムなどそもそも存在しない、というのが著者の真意かもしれませんが、そうなるととてもひどいいじわるを仕掛けたものだということになりますよね、村上春樹氏は。


さてさて、今年のノーベル文学賞の発表は、明日10月5日20:00以降らしいですが、村上春樹氏は受賞なるでしょうか?
私は受賞にならないと予想しています。
何故か。あの事件があるからです。

 

2018年のノーベル文学賞の代わりとなる文学賞にノミネートされた村上氏は「執筆に専念したいから」との理由でノミネートされること自体を辞退したのです。
村上氏からすれば、「こんなケチのついた賞なんか要るものか」、「これから先ノーベル賞の代わりの賞の受賞者と言われ続けることになる」との気持ちもあったのかも知れませんね。

ただ、あのとき、苦境にあったノーベル賞選考委員会としては、村上氏に恥をかかされたような格好になります。村上氏のふるまいを決して忘れることはないでしょう。おそらく「生意気な東洋人の物書きの猿、こいつには決して賞をやるもんか」というのが、西洋の人種で構成された選考委員会の、いまも変わらぬ思いでしょう。


村上春樹氏も馬鹿じゃないので、「もうノーベル賞なんか興味がないよ」と、あの瞬間にノーベル賞と決別したのではないでしょうか。さすが、村上春樹氏です。


ノーベル賞の本質は、スウェーデンという歴史の浅い国が、国際社会の中で国家としての格(地位)を上げるために案出した装置なのです。公家の家格ならぬ国格を上げるためにスウェーデンではほかにもいろいろと国際賞を創設しています。
過去には恥ずべきジョスリンベルバーネル事件を起こしても訂正もなし。「東洋人にはまだ早すぎる」などのことをのたまわっていたのです。
主たる功績が日本人だけの場合は、西洋人の中に関連する研究者がいれば抱き合わせ受賞させ、しかも、名簿の順位について日本人を後に回すようなことをしているのです。
いまだに東洋人は格下の人間として扱われていることをお忘れないように。
そもそもが何故世界中の学者や研究者そして一般人が、スウェーデンの作った権威にひれ伏す必要があるのですか。
いまだにこんなことを続けているとは。

あらためて滑稽極まりないですね。

 

 

 

 

 ちなみに、冬至から芒種(田植えの時期)に至るまでの日数を二十四節気を使って求めると12月22日を新年の開始とすると、冬至から芒種の手前の小満まで11節気あるので、各節気の日数を15日とすると、この間の経過日数は15×11=165日となる。今日使用している太陽歴で12月22日から芒種とされる6月5日または6月6日までの経過日数を計算すると、10日(12月)+31日(1月)+28日(2月)+31日(3月)+30日(4月)+31日(5月)+5日又は6日(6月)=166日又は167日となり、二十四節気を使った経過日数165日とほとんど差がない。このことからも、天文観測装置を使って冬至の時点を特定できれば、あとは二十四節気という暦を使って田植えの正確な時期を計算で割り出すことができるということが分かるであろう。

 

(注)冬至から数えた二十四節気

冬至・小寒・大寒・立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪

 

■夏至の観測

 なお、夏至の観測は装置の一番上にある「双耳帯」に「横梁」を設置して、冬至の場合と同様の計測方法を用いて、夏至を決定したものと考える。

 矢野銅鐸については、一番上の「双耳帯」に「横梁」を取り付ける。筆者の計算では「横梁」はステージからおよそ25センチの高さのところに設置することになる。

 6月の南中高度は78.0から79.4°の1.4°の角度の幅しかなく、「横梁」の影がステージ上に落とす影は6月の1か月間でおよそ0.65センチの幅しか動かない。0.65センチの幅の中に夏至を見つけることは困難を極めたことであろう。天文観測博士の腕の見せどころであるが、そこで観測期間については、南中高度が次第に上がっていく時期と下がっていく時期を、冬至観測のときよりも長い期間とって観測するとともに勾配術をうまく使えば、かなり正確な夏至の日も特定できたのではないかとも考えられる。

 

 なお、暦計算室によると、以下の表のとおり、徳島県は、一番高いときの南中高度は79.4°で、影(光点)がわずかに動いてステージ上の最も南に寄った位置にくるのが19日から23日までの5日間続く。

 

徳島県の2022年6月の太陽の南中高度、ステージ上の影の長さなど

6月の

各日

太陽の南中高度

(単位:度)

ステージ上の影の長さ

(単位:センチ)

前日からの影の長さの伸び

(単位:センチ)

備   考

78.0

5.313

 

 

78.1

5.269

-0.044

 

78.2

5.222

-0.047

 

78.4

5.131

-0.091

 

78.5

5.086

-0.045

尺貫法では

1.485厘

78.6

5.041

-0.045

 

78.7

4.995

-0.046

 

78.8

4.950

-0.045

 

78.9

4.905

-0.045

 

10

78.9

同上

 

 

11

79.0

4.860

-0.045

 

12

79.1

4.814

-0.046

 

13

79.1

同上

 

 

14

79.2

4.769

-0.045

 

15

79.2

同上

 

 

16

79.3

4.724

-0.045

 

17

79.3

同上

 

 

18

79.3

同上

 

 

19

79.4

4.679

-0.045

夏至

20

79.4

同上

 

夏至

21

79.4

同上

 

夏至

22

79.4

同上

 

夏至

23

79.4

同上

 

夏至

24

79.3

4.724

+0.045

 

25

79.3

同上

 

 

26

79.3

同上

 

 

27

79.3

同上

 

 

28

79.2

4.769

+0.045

 

29

79.2

同上

 

 

30

79.1

4.814

+0.045

 

79.0

4.860

+0.046

 

79.0

4.860

 

 

78.9

4.905

+0.045

 

78.8

4.950

+0.045

 

78.7

4.995

+0.045

 

78.6

5.041

+0.046

 

78.5

5.086

+0.046

 

78.4

5.131

+0.045

 

78.3

5.177

+0.046

 

10

78.2

5.222

+0.045

 

11

78.1

5.269

+0.045

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■「双耳帯」の付いていない「銅鐸」

 大型の「銅鐸」の中には、「双耳帯」の付いていないものもある。もともと「双耳帯」が付いてなかったのか、あるいは使用しているうちに欠け落ちてしまったのかもしれない。ただ「双耳帯」がなくても、観測は可能であろう。木製若しくは竹製の「横梁」を加工して「鈕」に噛ませるように組み込んだうえに当時の糊を使って接着すれば「横梁」を「鈕」に固定でき、しかも簡単にははずれないようにできるだろう。 

 問題は、「横梁」を「鈕」のどの位置に固定すればよいかであろう。これについては、冬至観測の場合で考えると、天文観測博士が「横梁」のピンホール内を通過してステージ上に映しだされる光点の位置を確認しながら、「横梁」を固定する位置を決定する。まず光点がステージ中央の孔の北側に来るように「横梁」を設置する必要がある。「横梁」はステージからできるだけ高い位置に設置したほうが、光点の計測幅を長くとれる。しかしその場合、影の光点が北側に寄りすぎてしまい、冬至に向かい観測を続けていくと、光点が徐々に北側へと移動していき、肝腎の冬至のときに影の光点がステージからはみ出す位置に来てしまい観測できないということも考えられるので、あまり高すぎる位置に「横梁」は設置できない。「横梁」を固定する位置を「鈕」のどの辺りに取り付けるかは、天文観測博士の腕の見せ所であったろう。

 

■なぜ「銅鐸」はうち捨てられ、忘れ去られたのか。

 実際に観測に使用された「銅鐸」は、天文観測所の中に保管された。天文観測所の仕事は天文観測と暦の管理である。両者は不可分である。

 日本列島がまだ複数の小さな国々に分かれていた時代においては、それぞれの国ごとに稲作が行われていたのであろう。稲作に必要不可欠な暦の管理とそのために必要となる天文観測もそれぞれの国ごとに行われていた。小さな国々に分かれていた時代からより大きな国へと共同体が統一化されていくことに伴い、天文観測及び暦の管理も統一化されていったと考える。

 

 天文観測と暦の管理は、国の統治者のみが有する権能であり、これを人々が勝手に行うことは禁止されていたであろう。一つの国の支配地域においては、天文観測と暦の管理は一元管理されていたが、統一国家形成のプロセスが進むにつれて、複数存在した天文観測所は、国家管理のものを除き、不要とされ強制的に閉鎖され、使用されていた観測用機材などはまとめてうち捨てられていったものと考える。

 

 ウィキペディアの埋納状況の説明の中に、「政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説」が紹介されている。唯一的を射当てたかと思われるこの説が具体的に何を意味しているかについては、上記のとおりの解説でお分かりになるだろう。

 

 発見された「銅鐸」の分布は、国の統一化が進んでいない初期の時代において、稲作が行われていた地域の分布を示しているということができるだろう。とくに「双耳帯」の付いた大きな「銅鐸」が発見されたところは天文観測所のあった場所ということができるのではないか。

 

 さて、時代が下り、日本が統一国家となり、大和朝廷が成立した頃には、天文観測と暦の管理は国家の権能の一つとして朝廷が独占しており、のちには陰陽寮と呼ばれることになる役所の重要な仕事となった。また、そのころには、太陽光の南中高度を観測する装置についても、「銅鐸」よりも便利で計測の精度の高い新たな装置が導入され、陰陽寮においてのみ使用されるようになったと考える。その装置こそは、おそらく圭表儀のようなものではなかったかと想像する。

 

 陰陽寮で作成された暦は、目的に応じて二種類ほど作成され、日常生活用の太陰太陽暦は貴族らに配布され、農事用の二十四節気に基づく暦は、稲作従事者(村長)に配布されたと想像される。また太陰太陽暦(宣明歴)と二十四節気をセットにした具注歴ものちに作られるようになった。

 

■おわりに

 アカデミズムの強大な勢力の前では、本論考など所詮蟷螂の斧にすぎないが、「銅鐸」が「天文観測装置」であること、なかんずく冬至観測において重要な役割を果たしたことを述べるため、装置の設置や、南中時の太陽光の計測の方法などについて、筆者自らが古代の天文観測博士になったつもりで、思いっきり想像力を働かせながら具体的かつ詳細に述べたつもりである。

 

 今後に望まれることは、矢野銅鐸や大岩山銅鐸(総高134.7センチ)の完全なレプリカを使って、装置の設置から太陽光の観測までを完全に再現することである。少なくともステージから上の部分を製作して、木製か竹製の「横梁」もいくつかの種類のものを試作し、11月から12月の2か月間、実際に南中時の太陽高度を観測する実験をしてみるのである。観測結果から冬至の日を計測できれば、「銅鐸」が天文観測装置であったことを実証したことになるのではないかと考える。

 奈良国立文化財研究所あたりなら、こうした実証実験は可能であろう。是非取り組んでいただきたいと希望するものである。

 

 厚みをごまかしたベル銅鐸のレプリカをつくって、ちんちんならす時間と費用があるなら、天文観測装置ではないかという可能性について、どのように使ったのかを実証するために国の予算を使ったほうが、考古学の今後の発展のために有意義であると考える。

 

 「銅鐸」が鳴らすものでないことは、よく観察するとその形状からだけでも明らかである。ぼんやりした頭で眺めているからベルのように見えるだけだ。ベル説は虚妄以外のなにものでもない。一見すると釣鐘に似ていたことから、長年にわたりベルではないかとの方向で研究がなされてきたこと、及び、名称に「鐸」という文字が使われたことなどから、研究者の頭の中に、「ベル」が固定観念として染みついており、それが自由に物を考えることを妨げてきたのである。

 「舌」なるものが見つかったからとしても、松帆銅鐸の形状をよく観察するとよい。なぜ「鈕」なるものはあんなに薄いのか。「鈕」の外辺から「鈕」の内孔までかなり幅があるが、ひもを結んでつり下げるなら、「鈕」はドウナツ型のもっと丸くて太い形状のもののほうがつり下げやすいだろう。なぜそういう形になっていないのか。

 「鈕」の外縁も内孔も先端は尖ったような形状である。結んで掛けたひもが使っているうちにすぐにすり切れてしまうだろう。また「鈕」とステージの接合部も弱い。使っているうちに「鈕」から切り離され、ステージから下の胴体部分が脱落してしまうだろう。ひもを掛けてつり下げるのなら、尖らせるのではなく、丸くしなければならないし、太くしなければならないだろう。要するに、ひもを掛けてつり下げるのが目的なら、それに相応しい形状になっていなければならないところがそうなっていないのである。おかしいとは思わないのだろうか。これが第一の疑問である。

 

 しかも「銅鐸」は、小・中・大とも形状は基本的に同一なのである。入れ子状態で発見されているものもあることを考えると、製作年代は、小・中・大とも同時期であった可能性も考えられるだろう。

 

 ステージには2つの穴、胴体の上部に開いた4つの穴はいったいどのような役割を果たしているのか。音響的にこのほうが響きがよいのか。それを確かめる実験は既に行われているのだろうか。

 底の部分にも4つの孔が観察できる。これは、ここに何かを挟んで下に置いたことを想像させるものである。つり下げるなら必要ないはずである。

 もっとも、これらの穴は、「銅鐸」製作時に必要な型持の孔とされているが、この点はなるほど一理あると思われるところである。が、製作後にできる孔の用途も考慮して型持の孔の位置は決められたということも考えなければならないだろう。

南北か東西を向いたヒレのような部分は鳴らすために必要なのか、これも音響学的にどうなのか。

 

 わざわざ装置の断面を実際のものより分厚くしたレプリカを製作して、ちんちん鳴らしているのを何度も映像で拝見したが、これは一種の宣伝であろうか。学会挙げてそんなチンドン屋みたいなことに専念するより、上記の第一の疑問にまず答えてほしいものである。

 

 アカデミズムの世界にいない一人の人物の天才的洞察により発見された真理にあえて背を向け、ベル説を一種のイデオロギーとして一般国民に何とか広めようとしているのだろうが、学者も素人も関係ない真理探究が目的である学問の世界において、政治イデオロギーのごとく、真偽などはどうでもよい、とにかく何が何でも多数の支持をとってベル説を維持していこうと宣伝する企みは、百害あって一利なし、何の意味も価値もないことをここに申し上げておきたい。

 

 ベル説に関わる多くの研究成果が、一部を除き単なる幻想にすぎないものであったと分かる日が必ずやってくるだろう。稲作では最後の工程において実を収穫するため脱穀にかけるが、幻想に幻想を重ねうずたかくこずみあげられ太りあがった「銅鐸」の幻像は、いずれ打穀場のもみ殻のように、風に吹き払われ、跡形もなくなるときがくるだろう。天動説が結局地動説にとってかわったように。必ずそうなる日がやってくる。そう断言して、本論考をひとまず終了したい。

図5

 

■実際の冬至の観測について

 図5のような方法によるとミリ単位以下の計測が可能であり、こうやって、毎日ごくわずかだが変化していく南中時の太陽高度の軌跡をステージ上で追っていくことができるのである。

 冬至に次第に近づいていくにつれ、太陽の南中高度は低くなり、「横梁」の影の中の光点の位置はステージの北の方角へ少しずつ移動していき、冬至に近づけば近づくほど、光点と次の日の光点の間隔は狭まっていき、最後は北の方向に動かなくなる日にちが一週間程度続く。

 

 「矢野銅鐸」が発見された徳島県の場合で具体的に考えてみた。

 『国立天文台・暦計算室・各地のこよみ』によると、徳島県の2022年12月の南中高度は34.2°から32.5°までの1.7°の範囲内で動く。

 矢野銅鐸のステージから「横梁」までの高さはおよそ13センチである。これは筆者が写真から推定した高さである。三角関数の計算によりステージ上の光点は、約1センチ3ミリの計測幅の範囲内で動く。

 

 徳島県の12月の各日の、太陽の南中高度、ステージ上の影の長さ、前日からの影の長さの伸びを下表にまとめてみた。なお、「ステージ上の影の長さ」及び「前日からの影の長さの伸び」は筆者が計算したものである。

 冬至期間の入り口である12月19日は、南中高度32.5°、影の長さは20.410センチである。

 0.1°の単位までの影の長さの変化を計測できたとした場合、19日から24日までの6日間が南中高度32.5°で一番低く、計測できた光点の位置に変化はないということになる。

 0.2°の範囲ぐらいまでの影の長さが計測の限界だったとした場合は32.6°も誤差の範囲に含めてその間の日数も含めると17日から27日までの10日間南中高度が一番低くなることになる。

 南中高度0.1°の変化に伴う影の伸びの変化±0.078センチは、1ミリ未満の数値であるが、天文観測博士であれば、この変化の目視による計測は可能であったろう。南中高度0.2°の変化の場合は影の伸びは±0.156センチで、1.5ミリを超しており、この変化の計測はまったく問題なくできたであろう。

 

徳島県の2022年12月の太陽の南中高度、ステージ上の影の長さなど

12月の

各日

太陽の南中高度

(単位:度)

ステージ上の影の長さ

(単位:センチ)

前日からの影の長さの伸び

(単位:センチ)

備    考

34.2

19.123

 

 

34.0

19.279

+0.156

 

33.9

19.344

+0.065

 

33.7

19.487

+0.143

 

33.6

19.565

+0.078

 尺貫法では

 2.574厘

33.5

19.643

+0.078

 

33.4

19.721

+0.078

 

33.3

19.786

+0.065

 

33.2

19.864

+0.078

 

10

33.1

19.942

+0.078

 

11

33.0

20.020

+0.078

 

12

32.9

20.098

+0.078

 

13

32.8

20.176

+0.078

 

14

32.8

同上

 

 

15

32.7

20.254

+0.078

 

16

32.7

同上

 

 

17

32.6

20.332

+0.078

 

18

32.6

同上

 

 

19

32.5

20.410

+0.078

冬至

20

32.5

同上

 

冬至

21

32.5

同上

 

冬至

22

32.5

同上

 

冬至

23

32.5

同上

 

冬至

24

32.5

同上

 

冬至

25

32.6

20.332

-0.078

 

26

32.6

同上

 

 

27

32.6

同上

 

 

28

32.7

20.254

-0.078

 

29

32.7

同上

 

 

30

32.8

20.176

-0.078

 

31

32.9

20.098

-0.078

 

(注)ステージ上の影の長さ:「横梁」の取り付け位置から垂直にステージ上に

下ろした地点から「横梁」の影(光点)までの長さ

 

 冬至を越すと、光点の軌跡は反転逆向きとなり、南方向に動いていく。つまり太陽の南中高度がこれから高くなっていく。

 

 なお、松帆銅鐸は総高20~30センチが基本であるが、例えば総高30センチのものは、ステージ幅は10センチ、ステージから鈕の頂点までの高さ7センチ、「横梁」の取り付け位置はステージから4センチの高さと推定して計算すると、兵庫県の12月の南中高度は、33.6°から31.9°の1.7°の範囲で動くが、ステージ上に映しだされる影の光点の動きの幅は筆者の計算では0.4センチしかない。冬至観測計として実際の観測に耐えうるものか疑問である。ベテランの天文観測博士といえども、計測は困難だったのではないか。私は、松帆銅鐸は観測用ではなく、観測をイメージできる教材であったと考える。模擬訓練用として使用し、冬至の決定までも行ったのであろう。あくまでも博士の実際の観測を見ながらの実験としてである。教科書のなかった時代である。生徒らは博士の観測の様子を見よう見まねでまねるよりほか知識や技術、技能、コツの習得の方法はなかったであろう。

 

■冬至の日の測定について

 冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日とされているが、上記徳島県の2022年12月の計測結果のとおり、南中高度が一番低くなる日が複数日観測されることから、幾通りかの冬至の決定方式が考えられる。

 まず、そもそも冬至とはある特定の一日を指すのか、複数の日にちにわたる期間なのか、あるいは境界なのか。境界というのは、一年の終わりの時点であると同時に一年の始まりの時点であるということである。ほかには、南中高度が一番低くなる期間の初日、あるいは最終日を冬至日と決定したというようなことも考えられる。この方法では暦と季節との間にわずかではあるがズレが生じてしまうことになるだろう。

 

 古代における冬至の定義の問題は、古代における観測の精度や観測の実態とも絡んでくるのであり、どのような方式をとったのかは想像するよりほかない。

 仮に観測期間中の全ての日において、南中高度の観測ができたとした場合は、観測された南中高度の最も低い(影の最も長い)複数の日にちの丁度中間の日を冬至の日とするという方式をとったのではないかと一応想定できるだろう。

 上記の徳島県の2022年の観測結果からは南中高度の一番低い日は12月19日から24日までの6日間である。そのうちの真ん中の日は21日と翌22日の2日間存在する。このように2日間存在する場合は、21日のほうを一年の終わりという意味での冬至とし、翌22日を1年の始まりとしての冬至というふうに冬至を2日間に分ける方法を採ったことも考えられる。南中高度の一番低い日が奇数の日数だった場合は、その真ん中の一日を一年の終わりである同時に新しい年の始まりの日と決定したということも考えられるだろう。

 

 原則的な考え方は今申しあげたとおりかもしれない。

 しかしながら観測の実態というのは、曇りや雨の日もあったりして、毎日南中高度の観測(影の長さの測定)ができたということはありえないだろう。むしろちゃんと観測ができた日のほうが少ないということも想定しなければならない。その場合、観測の結果は、南中高度を観測できた日もあれば、観測できなかった日もあるという具合いで、いわば虫食いの状態なのであり、そのような観測結果からでも正確な冬至を探りあてるためにどのような方法が採られたのであろうか。

 

■「勾配術」を応用した冬至の決定

 国立天文台暦計算室暦Wikiでも紹介されている「勾配術」が用いられたのではないかと想像する。

 説明すると、冬至に向かい影が長くなりつつある期間と冬至を通り越して影が短くなりつつある期間との観測結果を突き合わせ、影の長さが一致する日を探り出すのである。虫食いの観測結果であったとしても、どこか最低でも1カ所ぐらいは一致するところを見つけることができたのではなかろうかと考える。

 

 上記の徳島県の例では冬至に向かっている期間中の13日と冬至を過ぎて影が短くなっている期間中の30日の日が20.176センチで同じである(影の中の光点の位置が同じということ)。このような一致を見つけることにより、13日から30日までの延べ日数は18日であり、その中間の日は、21日と22日であることが計算できる。同様に12日と31日、15日と28日についても、それぞれ影の長さは同じであり、またその中間の日は、21日と22日となることが分かる。15日・16日と28日・29日についても、影の長さは同じであり、この場合は15日から29日までの日数、又は16日から28日までの日数の中間の日は22日となり、この日が一年の終わりであり新しい年の始めの日と決定することができる。

 冬至の日の決定においては、虫食い状態の観測結果からでも、この勾配術を使えば正確な冬至の日を割り出すことができるということが分かるであろう。


 

■太陽の南中高度(以下2022年数値)の変化観測による冬至の測定

 国立天文台の暦計算室によると、吉野ヶ里遺跡のある佐賀県は、12月の南中高度は1日が35.0°、一番低いのが20日から23日までの4日間の33.3°で、24日に33.4°へと上がり、ちなみに31日は33.7°である。この12月の1か月間における南中高度の変化は1.7°である。

 

 銅鐸の発見件数の多い兵庫県、島根県、徳島県、滋賀県、和歌山県も12月の南中高度の変化はいずれも1.7°の範囲内である。1か月間でわずか1.7°の範囲内における南中高度の変化の様子(軌跡)を観測しながら最も南中高度の低い冬至の日を探りあてることが天文観測博士の仕事であり、失敗の許されない重大な任務であった。

 

 「銅剣」の形をした針を銅鐸の中心部分に突き刺して太陽光の角度を測るという、はやし浩氏の説明するやり方で正確な冬至の日を知ることはどのようにして可能であろうか、疑問である。1.7°の範囲内の太陽光の角度自体の変化の様子を直接目視で計測することは不可能であろう。それが可能というのであれば、その方法の説明がほしいところである。

 太陽光の角度の変化の様子は、太陽光が落とす影の長さ(影の位置)の変化の様子に置き換えることによって、はじめて視認可能となるのではなかろうか。

 

■では、実際どうやって冬至を観測したのか。

 太陽南中高度の計測においては、圭表儀とまったく同じ原理と方法が用いられていると考える。圭表儀とは、垂直に伸びた縦棒部分「表」と目盛りの付いた水平部分「圭」で構成され、太陽南中時の影の長さを計測する装置である。詳細については、下記の国立天文台暦計算室暦WiKiのページにある圭表儀の説明を参照のこと。

 

 発見された大型の「銅鐸」には「双耳帯」と呼ばれる耳の飾りが付いたものがある。ちなみに「銅鐸」の分類では近畿式と三遠式に分けられるが、「双耳帯」が付いているのが近畿式であり、三遠式よりも形は大きい。

 例えば徳島県で発見された「双耳帯」のついた「矢野銅鐸」(総高98センチ)は、ほぼ完全な形で発見された数少ない「銅鐸」の一つであり、実際の観測用に使用されたものと考える。この「双耳帯」の付いた姿が「銅鐸」本来の機能を果たすための姿であったと考える。

 そこで、筆者のほうで矢野銅鐸のステージから上の部分を、ほぼ原寸大で紙で製作してみた(図1)。

図1

 

 和歌山県道成寺近くで発掘された鐘巻銅鐸(総高113センチ)のように、「双耳帯」の各耳に「橋」が渡されて、3つの各耳に穴が空けてあるものも見つかっている。あるいはこちらのほうが欠けた部分のないより完全な形の計測器だったのかもしれない。

 

 「双耳帯」は単なる飾りではない。

 装置の「鈕」と呼ばれる半円形の部分に大きく突き出たように存在する「双耳帯」に、図2のとおり、細長くて、薄くした小さい板、すなわち圭表儀における「横梁」に相当するものを取り付けるのである。そのため耳と耳との間にわずかな隙間が開けられている。「双耳帯」は「横梁」の取り付け位置を指し示している。冬至の観測をしやすくするためである。

図2

 

 耳の谷間に、「横梁」を取り付けたあと、観測期間中に「横梁」が脱落することの ないよう耳と耳の間に橋をかけて「横梁」を固定する(図3)。

図3

 

 「横梁」と「橋」の素材は木製か竹製であったと考える。

 ステージに落ちる「横梁」の影の位置が日ごとに移動していく様子を計測していくことで冬至を観測しようとしたと考える(図4)。

図4

 

 これが計測の基本である。計測の結果の記録の仕方であるが、ステージに落ちた「横梁」の影の中心部あたりを目視で確認し、墨の点を入れたのであろうか。目視する場合は必ず装置の真横に体の位置をずらし、影の中心を目視で確認できるようにして測るのである。このやり方のほうが、横梁の影の端をとらえて、そこに線を引くあるいは点を打つというようなやり方をとるより計測の精度は高いのではないか。いかに光度が強いときであっても、後者の方法では影の端はどうしてもぼやけるので正確な境界を目視でとらえることは難しいからである。

 さらに計測の精度を上げるために、圭表儀が観測補助装置である「景符」を考案したのと同じように、様々な加工を施した「横梁」を創作したことも想像される。例えば「横梁」に、①1ミリ程度の針のような穴を空けておく、または②細い隙間(スリット)を入れておくなどしたのではないか。古代の人がどのような工夫をしたかは想像するよりほかないが、①の場合で説明すると、装置のステージ上には、「横梁」の影の中にやや明るい光の点(楕円形)が写し出される。楕円形の幅は3ミリ程度である。

 「横梁」の影の中の光の点の中心部は真横に回って目視で正確に押さえることができる。記録の仕方は3ミリ程度の幅のある楕円の光の真ん中に、先端を尖がらせた竹製のペンに墨を付けて、楕円の中心に色を付けるのである。(図5)

 その場合ステージの銅板の上に直接墨を付けたのか、あるいはステージの形に整形した木製の平たい板をステージに前もって貼り付けておき、その上に計測結果を記入していくようにしたことも考えられる。(つづく)

図5

 

暦Wiki/圭表儀 - 国立天文台暦計算室 (nao.ac.jp)

 

 

 

天武天皇

 

■天武天皇とはいったい何者か?


 大海人皇子って、のちの天武天皇じゃないの?
 

 天智天皇の子の大友皇子と次期皇位を巡って争い、国内を二分する内乱となったのが壬申の乱である。大友皇子の首をとって内乱を征し、飛鳥の地に新しい王朝を打ち立てた偉大な天皇、それが天武天皇に抱く一般のイメージであろうか。

 彼は中大兄皇子の同父(舒明天皇)同母(宝皇女)の弟大海人皇子である。この大海人皇子が天武天皇である。このことは日本書紀にちゃんと書いてある。これが公式見解であり、大方の見方であろう。何を今更というところであろう。


 しかし一方で、天武の正体とは何かを追求した、いくつかの本がある。この人物について、いろんな説が唱えられている。中には外国人ではなかったかというのもある。
 どうも納得がいかない。分かったような分からないような感じが続いていた。しかし興味が尽きない。だからどうしても本当のことが知りたい。

 実は天武天皇の正体はすでに判明していたのだ。私はある本に出会ってほぼ納得がいった。
 正体は、舒明天皇に嫁ぐまえ用命天皇の孫高向王に嫁いだ宝皇女が高向王との間に生んだ漢皇子その人である。
 天智の異父兄にあたる。このことは、ちゃんと書紀に書いてある。
 だが、その正体が後の天武天皇であるとはどこにも書かれていない。
 漢皇子の活躍記事は一切ない。夭折したのではないかという意見の学者もいるほどである。

 私が、間違いなしと結論を下した根拠はどこにあるか。
 典拠の一つは大和岩雄氏の『日本書紀成立考ー天武・天智異父兄弟考―』(大和書房、2010)である。この本において、漢皇子が後の天武であることが詳細に論じられている。皆さんにも是非この大著を手に取って目を通していただきたい。この本において様々な角度から漢皇子が後の天武天皇であることが述べられている。それらの道筋を著者と一緒になって追えば誰もが納得することだろう。


 大和氏は、漢皇子が後の天武天皇と同一人物であると結論づけた理由として、次のとおり、天智と天武の兄弟関係を疑う十の理由(同著p.621~624))を挙げている。読者の皆さんも一緒になって、ご確認いただきたい。
  
第1の理由
 天武天皇の年齢が不明であること。

第2の理由
 天武が天智の兄となる天皇一代記という中世文献があること。

第3の理由
 斉明紀に漢皇子という中大兄の異父兄が記されていること。
(筆者注)大和氏の著書では、皇極紀に記されているとあったが、単純ミスと思われるので筆者のほうで訂正した。

第4の理由
 天智紀でウノササラをウノとササラに分解していうのと同様に、これと対応させるとアヤオオアマ又はオオアマアヤとなること。

第5の理由
 天武天皇が行った「真人」賜姓である。天武の父親が舒明天皇なら、舒明天皇関係の王族が「真人」になるべきなのに用明天皇の孫の高向王関係の王族が「真人」になっている事実である。
(筆者注)天武が定めた真人十三氏には用明天皇系の当麻氏とともに舒明系の息長氏も含まれている。大和氏のこの箇所の表現は息長氏が「真人」に含まれていないかのように受け取られかねないので注を付した。
 大和氏の主張されるとおり、もし天武が舒明系である天智の同母弟であるなら、用命天皇系の当麻氏は「真人」に選ばれることはないであろう。

第6の理由
 用明天皇の皇子で高向王の父と考えられる当麻皇子の孫で「当麻真人」となった当麻真人国見は、天武朝で新しく創設された親衛隊の左兵衛・右兵衛の長官となり持統朝で「東宮大傳」になっている。当麻真人の知徳は、天武天皇の葬儀において「日嗣」(ひつぎ)のしのび人になっているが、舒明天皇の時には、血縁者の息長公山田が日嗣のしのびを行っている事実から見ると、当麻真人が「日嗣」のしのびをしたのは、天武天皇の血縁者だったからだろう。書紀は高向王の祖父は用明天皇と書くが、父の名前を記さないのは、父である用明天皇の皇子の名を記せば、大海人と漢の二皇子に分解したことが分かってしまうからであろう。

第7の理由
 中大兄は「中」は異母兄の古人大兄皇子がいたから二男・二女の意味の「中」を大兄に冠したと解釈するのが通説である。だが、この通説は間違っており、母の違う兄弟・姉妹の場合は「中」と言わない。同母兄弟の兄は「漢皇子」である。中大兄の中は同母兄弟の二男を示す。同母異父兄が存在したため、「中」という同母弟の表示が天智の皇子名の通称「中大兄」となった。

第8の理由
 大海人皇子弟が中大兄皇子兄の娘を4人も妃にしている。同父同母なら異常だが、異父なら異常でない。

第9の理由
 天智記での異常な大海人皇子の「弟」の強調である。天武を徹底して天智の弟と強調している。この「弟」の強調は逆に「兄」を「弟」にしたことを暗示している。

第10の理由
 大海人皇子の活躍は壬申紀と天武紀分の2巻をとって書かれているが、天智紀以前の記事では天智紀の弟の強調記事以外ほとんどなく、活動が消えている。というより消されている。この落差が問題である。

(つづく)

浮世絵に描かれた田植え風景

 

■稲作に暦は不可欠である。

 弥生時代には日本に導入されたとされる稲作(水稲)は、当時の人々の生存を支える最も重要な営みとなり、稲作可能な気候をもつ地域に広まっていったであろう。ムラを挙げて行われるその営みを季節に合わせて適切に遂行していくために稲作用の暦が必要とされたと考える。

 

 稲作における各種作業をおおざっぱに挙げてみると、田起こし、畦塗り、代掻き等から始まる田んぼの準備、(苗作り)、田植え、稲刈り、脱穀、取り入れなどであろうか。田植えに関しては当初は直播だったのが、後に苗作りをしてそれから苗を田に植え替えるというやり方へと変化していったのはいつごろからであろうか。

 このことについては、藤井寺市ホームページが参考になるので引用したい。次のとおりである。

 

 藤井寺市ホームページ、田植えか直まきか(No.66)、更新日:2013年12月18日、

 

「弥生時代に始まった水田での稲作りでは、今のように田植えを行っていたのでしょうか。より原始的な種の直まきだったのでしょうか」夏休みに孫の顔を見に来たという、岡山市にお住まいの女性からの質問です。
弥生時代の実際の水田が明らかにされたのは、有名な静岡県登呂遺跡でした。戦後間なしの昭和22年から25年にかけて行われた発掘調査の貴重な発見だったのです。
その後、日本各地の発掘調査によって、200ヶ所以上で水田の跡が確認されています。その成果によれば、初期の水田は非常に小さく区画されたものが多いということが分かってきたのです。1区画が小さなものでは2~3平方メートル、せいぜい50平方メートル程度だったのです。おそらく、こうした小区画の水田は、造成の省力化と、水漏れなどの危険防止を考えた弥生人の知恵が生み出したのでしょう。
さて、田の造成が終われば、水を張り、いよいよ稲を植えることになります。この作業が、田植えか種の直まきかという問題です。結論からいえば、水田稲作では初期のころから、田植えが行われていた可能性が強いと考えています。
田植えが行われた痕跡は、岡山市の原尾島遺跡で明らかにされました。この遺跡は、百間川の改修工事に先立って実施された発掘調査で、その河床から見つかったのです。ここでは稲の株跡が元の水田面に無数に残されていたのです。その数は、1平方メートル当たり100以上にもおよび、現代の数倍にも達していることが知られたのです。砂の詰まった株跡をよく見ると、その配列は、いく人かが並んで田植えを行った様子をほうふつとさせます。
農学者も田植え説を応援しています。その意見に耳を傾けてみましょう。東南アジアのまだ機械化されていない稲作でも、やはり伝統的に田植えが行われています。田ごしらえのできた水田に、稲の種を直まきすると、稲とその他の雑草が同時に成育のスタートを切ることになります。その結果、稲は成長の早い雑草に負けてしまうことが多いのです。したがって、稲の収穫を確保するためには、苗代(なわしろ)で15センチ程度まで穂を出させて、水田に植えつけることで、雑草との競争にハンディキャップをつけてやる必要があるということなのです。
東南アジアの地域は、日本の水田稲作の有力なルーツの一つでもあります。したがって、その伝統的な農作業は、弥生時代の農業を考えるとき、大いに参考になるのです。

『広報ふじいでら』第316号 1995年9月号より

 

 各種作業には村落共同体の大勢の人を動員しなければならなかっただろう。各種の作業はいずれも、ムラを挙げての一大イベントである。そうなると、一年間の全体スケジュール、各作業スケジュール(各作業の開始時期・期間・必要とされる人員など)の計画を立てて、共同体の成員に前もって告知する必要が出てくる。

 稲作の年間スケジュール立案と稲作従事者などへの伝達が、稲作総責任者の重要な仕事であり、村長がこの役割を担っていたのであろう。村長の下に小集団をまとめる班長がいて、村長→班長→各戸へと伝えられていったと想像する。

 例えば村長から「明日稲刈りをするので50人出してくれ」といきなり言われても急には対応できないだろう。そんなやり方では人は集まらない。まず必要な準備(作業服や稲刈り用の鎌の準備、お昼の食事の用意)ができない。すでに明日はほかの用事が入っている人もいるかもしれない。多くの人を動員する仕事においては、暦にもとづき各種作業スケジュールを設定したうえで、関係者に必要な準備をしてもらえるよう、前もって早めに各種作業スケジュールを告げ知らせる必要があるのである。この目的のためにどうしても暦が必要となる。村全体で使用する共通の暦が必要になるのである。各人が好き勝手に一人暮らしをする場合には暦は必要ない。

 また稲作は季節と密接に結びついた営みなので、季節を反映した農事用の暦が必要とされたと考える。

 

■「芒種(ぼうしゅ)」について

 冬至は古代において1年の始まりを意味する。天文観測装置で観測し、冬至を決定し終えたら、観測結果に合わせ、暦を修正するのである。使用する農事用暦は季節を反映した二十四節気の暦をベースに作られていただろう。二十四節気は紀元前の中国において春夏秋冬の季節を反映した暦のようなものとして既に考案されていた。詳細は下記のウィキペディアを参照のこと。

 

 季節に密接に結びついた稲作作業にとっては、種まきの時期を知ることが何よりも重要である。二十四節気の一つに「芒種」という稲の種まき(田植え)を示す時期がある。現在の6月5日か6日の頃である。この日を目指して、田起こし、畦塗り、代掻き等から始まる田んぼの準備、田植えまでの各種作業のスケジュールが組まれ稲作の準備が進められるわけである。

 スケジュールを組む場合、肝腎の「芒種」という種まき(田植え)時期を示す暦がないと、一体いつ田植えをすればよいのか、分からなくなる。自然の景色の移り変わりや寒暖の変化などで暦を決めるいわゆる自然暦にたよる方法では正確な田植えの時期を前もって知ることは困難であろう。田植えの時期については、この「芒種」の期間内に作業を終了すればよかったのであろうが、田植えの時期を大きく間違えると稲の生育が悪くなり収穫に大きな影響が出る。そうなると共同体全体の存続の問題ともなりかねない。田植えの時期を絶対に間違えないようにするため、二十四節気をベースとした農事用暦が必要とされるとともに、暦が太陽の運行を正確に反映したものとなるよう、定期的な太陽観測に基づいて正確な冬至を確定し、これに農事用暦の冬至を合わせた。暦のほうが進んだりしているようであれば、観測結果に基づいて暦のほうのずれを修正したと考える。

 

 天文観測の結果に基づいて二十四節気をベースとした基本となる暦をまず天文観測博士が作成し、この暦の配付を受けた共同体の稲作管理者が、これに稲作の各作業スケジュールを書き込んでいって農事用暦を完成し、村落共同体共通の暦として使ったものと考える。筆写され村長から班長へ配付されたかもしれない。(つづく)

 

二十四節気 - Wikipedia

 

稲作 - Wikipedia

 

荒神谷遺跡(358本の銅剣?)

 

■天文観測所の仕事

 装置の重要な用途は、冒頭で述べたとおり、主に冬至を観測することであったと考える。南中時の太陽光の高度の変化する様子を、太陽光が落とす影の長さ(位置)の変化する様子に置き換えて計測し、そのことにより、冬至の日を決定するのである。

観測の期間は、およそ1か月間程度は要したであろうか。長くても2か月は要しないであろうと想像される。

 装置は、雨よけ、風よけのため、四方と天井を板塀で囲まれた天文観測所の建物の中に設置された。使うときに建物の天井が開くような仕掛けになっていたと考える。現在の天文台と同じように、観測装置は非常に大切に取り扱われたはずである。

 

 天文観測所の主な仕事は、まず装置を使った観測によって冬至の日を決定することである。そして冬至の日(またはその翌日)を一年の最初の日として、この日から毎日毎日日にちを数えていくことである。経過した日数を絶対に間違えることのないようにすることが観測所の重要な任務である。この大元の基準となる暦の管理を行っていたのが天文観測所であったということができる。

 

 この経過日数の管理の仕方について、どのような方法をとったか。

 一例であるが、あの「銅剣」と呼ばれているもの1つを1日と見立てて、一年の始まりである冬至の日に1つ、次の日になればまた1つ、その次の日が来ればまた1つ、という具合に順番にきちんと並べて暦管理室に設置していくのである。一人でできる業務のように思われるが、おそらく「銅剣」設置にあたっては天文観測所の職員が複数人(3人以上)で一緒になって設置を行ったのではないかと想像する。

 なぜか。一人での対応だと設置するのを忘れるとか、病気をして業務に従事できないというおそれがあること。また設置後ほんのしばらく時間が経過するうちに今日は果たして設置したかなと記憶があいまいとなり同じ日に再度設置してしまうというようなおそれがあるためである。また「銅剣」設置完了後、所長にその旨報告することになっていたのではないかと想像する。

 設置した「銅剣」の数を数えれば、冬至からの経過日数を後から正確にたどることができ、間違えることはない。

 

 大元の暦の管理をこのようなやり方で行っていたのではないかと推測される遺跡が、出雲の荒神谷遺跡である。

 発見された4列に整然と並べられた358本の「銅剣」の358という数字に注意を払う必要がある。全ての「銅剣」が揃っているかどうかは分からないが、この数字は限りなく今日の暦の日数に近いということができるだろう。当時の天文観測技術で計測できた1年の日数を表しているのではないかと考えられる。荒神谷遺跡はもともと天文観測所であり、天文観測とそれと不可分である暦の管理を行っていたところであると大体想像がつくのではないか。

 

 この観測所も国家の統一化の過程で閉鎖を余儀なくされた。それが20世紀になって、遺跡として発掘されたということであろう。

 

 大型の天文観測用の装置は、使用されないときは、箱に入れられて地中に保管され、観測が必要になってきた頃に、地中から取り出して使用されたようである。 

季節が巡って、肌寒くなり日が暮れるのが早くなってきたら、装置を取り出して遅くとも冬至がやってくる1か月ぐらい前には設置を完了したであろう。(つづく)

 

  荒神谷遺跡 - Wikipedia