浮世絵に描かれた田植え風景

 

■稲作に暦は不可欠である。

 弥生時代には日本に導入されたとされる稲作(水稲)は、当時の人々の生存を支える最も重要な営みとなり、稲作可能な気候をもつ地域に広まっていったであろう。ムラを挙げて行われるその営みを季節に合わせて適切に遂行していくために稲作用の暦が必要とされたと考える。

 

 稲作における各種作業をおおざっぱに挙げてみると、田起こし、畦塗り、代掻き等から始まる田んぼの準備、(苗作り)、田植え、稲刈り、脱穀、取り入れなどであろうか。田植えに関しては当初は直播だったのが、後に苗作りをしてそれから苗を田に植え替えるというやり方へと変化していったのはいつごろからであろうか。

 このことについては、藤井寺市ホームページが参考になるので引用したい。次のとおりである。

 

 藤井寺市ホームページ、田植えか直まきか(No.66)、更新日:2013年12月18日、

 

「弥生時代に始まった水田での稲作りでは、今のように田植えを行っていたのでしょうか。より原始的な種の直まきだったのでしょうか」夏休みに孫の顔を見に来たという、岡山市にお住まいの女性からの質問です。
弥生時代の実際の水田が明らかにされたのは、有名な静岡県登呂遺跡でした。戦後間なしの昭和22年から25年にかけて行われた発掘調査の貴重な発見だったのです。
その後、日本各地の発掘調査によって、200ヶ所以上で水田の跡が確認されています。その成果によれば、初期の水田は非常に小さく区画されたものが多いということが分かってきたのです。1区画が小さなものでは2~3平方メートル、せいぜい50平方メートル程度だったのです。おそらく、こうした小区画の水田は、造成の省力化と、水漏れなどの危険防止を考えた弥生人の知恵が生み出したのでしょう。
さて、田の造成が終われば、水を張り、いよいよ稲を植えることになります。この作業が、田植えか種の直まきかという問題です。結論からいえば、水田稲作では初期のころから、田植えが行われていた可能性が強いと考えています。
田植えが行われた痕跡は、岡山市の原尾島遺跡で明らかにされました。この遺跡は、百間川の改修工事に先立って実施された発掘調査で、その河床から見つかったのです。ここでは稲の株跡が元の水田面に無数に残されていたのです。その数は、1平方メートル当たり100以上にもおよび、現代の数倍にも達していることが知られたのです。砂の詰まった株跡をよく見ると、その配列は、いく人かが並んで田植えを行った様子をほうふつとさせます。
農学者も田植え説を応援しています。その意見に耳を傾けてみましょう。東南アジアのまだ機械化されていない稲作でも、やはり伝統的に田植えが行われています。田ごしらえのできた水田に、稲の種を直まきすると、稲とその他の雑草が同時に成育のスタートを切ることになります。その結果、稲は成長の早い雑草に負けてしまうことが多いのです。したがって、稲の収穫を確保するためには、苗代(なわしろ)で15センチ程度まで穂を出させて、水田に植えつけることで、雑草との競争にハンディキャップをつけてやる必要があるということなのです。
東南アジアの地域は、日本の水田稲作の有力なルーツの一つでもあります。したがって、その伝統的な農作業は、弥生時代の農業を考えるとき、大いに参考になるのです。

『広報ふじいでら』第316号 1995年9月号より

 

 各種作業には村落共同体の大勢の人を動員しなければならなかっただろう。各種の作業はいずれも、ムラを挙げての一大イベントである。そうなると、一年間の全体スケジュール、各作業スケジュール(各作業の開始時期・期間・必要とされる人員など)の計画を立てて、共同体の成員に前もって告知する必要が出てくる。

 稲作の年間スケジュール立案と稲作従事者などへの伝達が、稲作総責任者の重要な仕事であり、村長がこの役割を担っていたのであろう。村長の下に小集団をまとめる班長がいて、村長→班長→各戸へと伝えられていったと想像する。

 例えば村長から「明日稲刈りをするので50人出してくれ」といきなり言われても急には対応できないだろう。そんなやり方では人は集まらない。まず必要な準備(作業服や稲刈り用の鎌の準備、お昼の食事の用意)ができない。すでに明日はほかの用事が入っている人もいるかもしれない。多くの人を動員する仕事においては、暦にもとづき各種作業スケジュールを設定したうえで、関係者に必要な準備をしてもらえるよう、前もって早めに各種作業スケジュールを告げ知らせる必要があるのである。この目的のためにどうしても暦が必要となる。村全体で使用する共通の暦が必要になるのである。各人が好き勝手に一人暮らしをする場合には暦は必要ない。

 また稲作は季節と密接に結びついた営みなので、季節を反映した農事用の暦が必要とされたと考える。

 

■「芒種(ぼうしゅ)」について

 冬至は古代において1年の始まりを意味する。天文観測装置で観測し、冬至を決定し終えたら、観測結果に合わせ、暦を修正するのである。使用する農事用暦は季節を反映した二十四節気の暦をベースに作られていただろう。二十四節気は紀元前の中国において春夏秋冬の季節を反映した暦のようなものとして既に考案されていた。詳細は下記のウィキペディアを参照のこと。

 

 季節に密接に結びついた稲作作業にとっては、種まきの時期を知ることが何よりも重要である。二十四節気の一つに「芒種」という稲の種まき(田植え)を示す時期がある。現在の6月5日か6日の頃である。この日を目指して、田起こし、畦塗り、代掻き等から始まる田んぼの準備、田植えまでの各種作業のスケジュールが組まれ稲作の準備が進められるわけである。

 スケジュールを組む場合、肝腎の「芒種」という種まき(田植え)時期を示す暦がないと、一体いつ田植えをすればよいのか、分からなくなる。自然の景色の移り変わりや寒暖の変化などで暦を決めるいわゆる自然暦にたよる方法では正確な田植えの時期を前もって知ることは困難であろう。田植えの時期については、この「芒種」の期間内に作業を終了すればよかったのであろうが、田植えの時期を大きく間違えると稲の生育が悪くなり収穫に大きな影響が出る。そうなると共同体全体の存続の問題ともなりかねない。田植えの時期を絶対に間違えないようにするため、二十四節気をベースとした農事用暦が必要とされるとともに、暦が太陽の運行を正確に反映したものとなるよう、定期的な太陽観測に基づいて正確な冬至を確定し、これに農事用暦の冬至を合わせた。暦のほうが進んだりしているようであれば、観測結果に基づいて暦のほうのずれを修正したと考える。

 

 天文観測の結果に基づいて二十四節気をベースとした基本となる暦をまず天文観測博士が作成し、この暦の配付を受けた共同体の稲作管理者が、これに稲作の各作業スケジュールを書き込んでいって農事用暦を完成し、村落共同体共通の暦として使ったものと考える。筆写され村長から班長へ配付されたかもしれない。(5につづく)

 

二十四節気 - Wikipedia

 

稲作 - Wikipedia