『高堂巓古 Officia Blog』 -93ページ目

弱き四十八手 その十二

photo 3.JPGphoto 3.JPG 無責任にシュルレアリスムについて書くことを引き受けたのは、わたしのようなどこの馬の骨ともわからぬ者に原稿を頼んでくれる編集者はめったにいないので、たいていのことは引き受けることにしているからである。ただ、シュレレアリスムについて何もしらないのでは、いかにずうずうしいわたしでも何を書いていいかわからないので、大急ぎで前記のブルトンの『シュルレアリスムの宣言集』ほか、二三の文献にあたってみたが、わかったようなわからないようなあいまいな氣持ちになったまま日が過ぎ、しめきりが近づいて、いまさら書けませんと断るのも義理がわるいし、何とか勝手なことを書いてごまかすことにする。

 とシュルレアリスムについて書きはじめたのは、心理学者の岸田秀であるけれども、なんとも好感を抱かせてくださる姿勢ではないだろうか。このエッセイの題名はたしか『現実と超現実』であったとおもう。岸田が云うところの現実とは、まさに夢幻のことで、岸田自身は共同幻想という実にたしかな言の葉を用いている。つまりは、


photo 2.JPGphoto 2.JPG皆で同じ夢を視ているに過ぎない


 という態度になる。では、その共同幻想から脱却しようとしたとき、現実を超えるということでシュルレアリスムなる姿勢が生まれてくるのは自然の流れと云ってよかった。しかし、これに対しても、岸田はやや懐疑的である。すなわち、別の超現実を創造したところでそれもすぐに新たな共同幻想へとかたくなっていくというのだ。私にもシュルレアリスムはわからないが、明治維新以前の日本に同じ香りを感じなくもない。全世界史史上、


最も愚かで惨めであったあの維新


を経て、すっかり日本は不毛な現実主義に陥り、共同幻想の壁を鉄筋コンクリートでかためるに至る。例えば、美術学校なるところでは、偉大なる北斎の絵に朱をいれて、いかに遠近法がわかっていないかを教え、自国の文化の未熟さを説いたし、ファッション業界では、スーツのモダンさを徹底的に植えつけ、上半身と下半身の断面をずらした。すなわち、人生観と等しき身体観なるものを毀したのである。しかしながら、現実が共同幻想に過ぎないと完璧なまでに理解していたのは、我が国(もはや日本という名が無意味に残されているだけで、中身は完璧なまでに家畜化された異国であるけれども)であったのだ。北斎の感覚身体は、眼前の遠近法に惑わされることなく、真理に近い超現実を視ていたし、利休の感覚身体は、炉にたしかな小宇宙をとらえていた。現実はずらさなければ、現実とならない。肝要なのは、その方法なのだ。シュールにいくのか、粋にいくのか。いずれもずらし間違えれば、また共同幻想行きのバスに乗り換えをしているに過ぎない。