編集四十八手 十六刷り
秋晴れの或る朝、愛車の折り畳み自転車を転がしていると、ふたりの女性の会話が耳にはいってきた。ふたりともうしろ姿であったが、珍しく視れる人たちだった。うしろ姿が視れるのであれば、前姿を視る必要はない。よいに決まっているからだ。会話は、「今、たしかに何かを踏んだんだよ」
「でも、何もついてないよ」
というもので、ひとりがしきりに靴裏を氣にしている一場であった。このあとも話はつづいていたようだったけれども、私は自転車だったので氣がつけばその場を通り過ぎていた。何氣ない会話だが、なんとなくたしかな長編がはじまりそうな台詞に聴こえないこともない。このあとふたりはどのような編集を行ったのか、私は興味を抱いた。踏んだとおもった感覚を信じたのか、それとも何もないと視た理性に委ねたのか。もし私が女性であったならば、間違いなく前者を、すなわち何も視えてはいないが、軀が何かを感じたのだから、たしかに靴裏には何かがあったと結論づける姿勢を選ぶとおもう。空をみあげると、不自然なまでに澄んでいた。おそらくこことあの雲のあいだでさえも、感覚の傍らで隠れている何かが無数に翼をひろげているに違いない。