『高堂巓古 Officia Blog』 -42ページ目

教育四十八手 その十九

 もはや日本の教育は家畜を育てているに過ぎないというようなことはかねてから申しあげてきたとおりで、大概は健やかさや豊かさという幻想を餌に消費活動を反復的にさせているにとどまっている。無論、そうでない教育者も少なからずおいでると云いたいところではあるのだけれども、やはりこちらも自己満足が多い。統計的に幕末あたりに憧れている熱き教育者は等しく勉強不足で、偽りである(笑)。このような愚痴をいっていてもはじまらないから、今宵は人の脱家畜化についてすこしお話ししたい。家畜というのは、ご存知の通り、そこにいるだけで衣食住が機械的にできるわけなので、或る意味、


棲み心地が抜群


 なのは改めて確認するまでもない。この抜群さゆえに、脱家畜を試みたところで大部分は故郷の家畜小屋にもどってきてしまう。ホメオスタシスではないが、人は高熱より平熱がお好みなのだ。それではどうしたらよいかというと、これはもう棲み心地のよさを変えてゆくしかないであろう。

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 潜在意識のオーケストラが変わってゆけばゆくほど、生まれた瞬間に閉じこめられる牢獄生活、あるいは人としての家畜小屋暮らしに違和感を憶えるようになる。つまりは、かつて棲み心地がよかった時空が厭になるのだ。この手助けこそが本来の教育であるべきなのだが、今の教育は小屋に押しこめておこうと必死になってしまっている。家畜という言葉がつよすぎるのであれば、洗脳と云ってもよい。洗脳しやすい周波数に安定して棲むことによって、頭のよい教育された者として扱われ、誰が食そうとしているのかすら識らずに、人は自分の肉のうまみをあげてゆく。


おろそしいまでの無教育ぶり。


 まずは一般的な成功に安住する居心地のよさを破棄するのがよろしいのではないか。不自然な安定に執着すれば、ますます心というものは堕してゆき、昔あったような棲み心地を探すことしかできなくなってしまう。そうではなくて、小屋や牢獄のそとにある微かな夢心地(無論、最初は違和感を憶えるけれども)を大切に育ててやるとよい。棲み家が変われば、視界が変わる。すなわち眼につくものも一変し、ひとつメタレベルのシンクロニシティがはじまるのである。