金と銀の備忘録 | 顛と"うのブログ

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闇を恐れたり嫌ったりする必要はありません。
闇も私達の一部です。2019年の11月25日で
これまでの世界史が終わりした。2020年から
世界はどんどん変わってゆきます

 

明治以前、欧州では、ナポレオンの脅威に
対抗する各国は、ロシアの呼びかけで「
神聖同盟」を結成し、王族は、結束を
強めます。
 
金を中心に据え、中央銀行が通貨の出し
入れを調整することで、景気を操り、戦争
でリセット
する近代的な国家運営を確立しました。
 
 
そのころ、日本と中国(明・清)とは、
金銀平価を調整し、資金をグルグルと
回して、富を生み出すようなことを
やっており、大航海時代でアジアに
やってきた、ロスチャイルド
の目にとまりました。
 
ロスチャは、「何か、我々と似たような
ことやってるなあ」と思い、参加しな
いか打診します。
 
英国は金本位制を始めようとしていた
ので、参加するに当り、持っている金を
差し出すようにいわれましたが、どう
みても日中が保有する金の方が圧倒的に
多いため、まっぴらごめんと、日中は
断りました。
 
それで仕掛けられたのが、阿片戦争です。
負けた清は、領土を100年間かじられま
した。
 
日本は明治維新です。開国するまでに
14年間もかかっていますが、金を全部
差し出すか、日中で相談していたのです。
坂本龍馬の話など、本当にどうでも良
い枝葉末節なことでした。
 
 
 
 
私のお勉強・備忘録としてメモをつけます
 
<金が安かった日本とマルコ・ポーロ>
 
人口当たりの産出量が,唐や宋よりも高水
準にあり,鎌倉時代に一切経の購入に多額
の金が使用されたように,中国からの輸
入に金を用いるのが有利であつた。金の
多くが中国に輸出され,元代に入つてから
, 日本が大変な産金国であるとの噂が
立ち,マルコ・ポーロが黄金のジパングの
話をヨーロッパに伝え, これがコロンブス
の大西洋航海の動機となつた。
 
東洋では古来金銀比価は6前後であつた。
ところが中国では元代の13世紀の初め,
金がいちじるしく高くなり,比価が12まで
上昇した.しかしその後再び14世紀末には
56まで戻り,これが16世初まで続いて
いる.この動きは,蒙古帝国の影響と思う。
 
マルコ・ポ口の時代,金銀比価は,国際的
な比価が形成された。ヨーロッパでは
13世紀初,銀貨主体から金貨併用の時代
に入り,実勢比価12の中で,公定を10とし,
価値のある金の退蔵が進み金不足が発生した。
 
マルコ・ポーロの求めたのは,東洋の金
であり,それが中国の金銀比価を大きく
変動させた。ところで,中国・元代に高騰
した金銀比価も,日本は,相変わらず56
で推移していた。すなわち, 日本におけ
る圧倒的な金安が,銅高とあいまって
,宋銭の大量輸入を生んだ
 
このような東洋における金安に変化を
もたらしたのは,戦国時代から江戸時代
の初期まで続く金銀大増産である.特に
16世紀初の「灰吹法」の採用は,それま
でほとんど銀の採れなかつた日本に大
変革をもたらし,金銀価,特に銀価が大幅
に下落する。そのため金銀比価も10
なり, コーロッパの水準に大きく近づいた
 
.一方その頃,中国では金銀比価がまだ
78であり, こに比価の逆転が発生し,
 日本からの銀の輸出と金の輸入が始まっ
。安土桃山期には,銀よりもむしろ金の
大増産がおこなわれていたにもかかわら
,金の輸入がおこなわれたのは,中国で
は銀を本位通貨として扱う動きにあり
,銀高が続いていたためである.
 
ーロッパでもドイツで銀の生産が大
幅増16世紀末になると,中南米で銀
の大々増産が始まつた.状況は完全に
変わり, コーロッパでは金銀比価が15
16になった。この状況が日本に影響
してくるのが,17世紀の初めから中程に
かけて。こんどは,日本は金安になった。
そして,膨大な金がヨーロッパに流出した