己の幸福くらい | 雪のような灰

雪のような灰

過去は決して死なない。それは過ぎ去ってすらいない。—ウィリアム・フォークナー

ふと思ったのだけど、どうして幸福の尺度は人によってこんなにも様々なのだろう。
ここまで価値観とか主観性に左右される生き物は人間だけで、同じ場所で眠っていても違う夢を見るように、他の生物は大抵同じ考えを共有して、というより、遺伝子にインプットされて行動に反映さえされるのに、人間だけはなぜだかそれが特別だと言わんばかりに「個性」という言葉さえ褒め言葉にして、また今日も異なった幸せを共有すべくSNSなんかを更新している。
生き残っていくために、同じ幸福を感じ持つほうが効果的なんじゃないのか。
たとえば、麻薬中毒者に薬をやめなさいと苦言を呈したところで、本人にとってそれが一番の幸福ならまったく無駄だし、どんなに苦しい恋愛でもそれを快感に思う人だっている。リストカットしているときだけが唯一生きている中で息をしていられる瞬間だという人だっている。世の中にはいろんな人がいて、世間一般的な幸せを幸せに思わない人だってざらにいる。
せめて我々の行動に直結している幸福という概念くらいは共通であるべきな気がした。人間がこれからもこの星で生き残っていく気が少しでもあるなら。それとも、知性を持った時点で、あるいは生き残ることを放棄したのかな。



と、ここまで書いてきて思ったんだけど、
幸福と快楽ってまったく別の概念ですね。









今日はO嬢の「奴隷状態における幸福」読んでから眠ろう…
O“嬢”っていうくらいだからmademoiselleってつくのかなって勝手に思ってたらつかなかった。しかもエリジオンするから、
「いすとわーる どー」
なんだね。