読書とは反芻することである | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

読書とは何かー。

 

一冊の本を最初から最後まで読んだとして

それが果たして本当に読んだということになるのだろうか。

そういうふうに読んだ本の数だけを問題にするかのように

右から左へと息をつく暇もなく貪る人を多く見かける。

またこの読書を映画と言い換えても同じことかもしれない。

 

同様なことは旅についても言える。

世界中の国を弾丸で何十、何百と駆け巡ることを誇る人々。

それが他よりも世界を知るということになるのだろうか。

 

またそれは友人にも当てはまるのではないか。

友人の数が多いことをこれ見よがしに口にする人々。

しかし、あなたの言う友人とは果たして本物なのか。

 

私の言わんとすることはもうお分かりだとは思うが

一言で言えば「数」ではないのだということ。

 

もっと具体的な例を挙げよう。

例えばバイキングで普通のケーキを十個味わう満足感と

超有名パティシエ特製の美味いケーキを一個だけ味わう満足感の

あなたはどちらを選ぶ人なのか。

 

と言っても私にはあなたがどちらを選ぼうと構わない。

もしも気になればあなた自身が心にそっと問いかければいいこと。

 

 

    

 

 

そういう自分もかつてあれもこれもと手を伸ばした時期がある。

いわゆる青春時代と言われるもの。

 

日本海外を問わずお気に入りの作家をみつければ

その全作品を読破することを夢見たり、

海外の推理小説に嵌ったりノンフィクションに夢中になったり

一時期は日本現代文学の作家のもの、いわゆる文芸誌などで

賞をとった作家のものには一応目を通したりもした。

 

それらがみな役に立ったかどうかは別にして

そのような時期は実はとても大事だと思っている。

 

本でも旅でも友人でも本当に大切なもの

自分にとってこれと言えるものを見つけるためには

視野を広めるために「冒険」する必要があるのだ。

それはある意味で経験=数を伴うものでもある。

 

しかし人生の持ち時間は限られているから

ある時期から「数」から「質」へのシフトが迫られる。

 

ところで読書の質とは何を言うのだろう。

一言で言うなら反芻することである。

 

つまりお気に入りを繰り返し味わい読むことに他ならない。

毎回、時を少し挟むことにより思わぬ発見があり

良いと思った箇所が微妙に変化したりすることもよくある。

角度を変えて読んでみるという方法もあるが

巧まざるとも自分の人生経験と共に物の見方も変化していくのを

読書を通して改めて気付かされることの効用。

それが読書というものの持つ醍醐味なのかもしれない。

 

個人的な出来事としておもしろかったことが一つ。

私のMY☆文学ベストテン(海外の小説)の中に入っている

ヘルマン・ヘッセの『デミアン』だが、

最近の読書会で取り上げたノヴァーリスを契機として

再びまたある本の中で対面することとなった。

巡り巡って中学生時代の幼馴染に出会えたような喜びと共に。

 

ということは、自分は全く成長していないか

それともやはりあの頃の思いを真空パックに詰めたまま

今でも持ち歩いているということなのか。

 

 

 

 

赤薔薇

 

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by vingt-sann

 

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