中世往復書簡Ⅲ「エロイーズとアベラール」にみる愛の形 | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

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わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
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たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

赤薔薇これは12世紀のフランスに実在した一組の男女の物語である赤薔薇

 

 

前回第4書簡の最後で

「どうぞ私を強い女と思わないでください

私は勝利の冠など求めたくはございません」

そうアベラールに本心を明かさずにはいられなかったエロイーズ。

その気持ちが(私の中のエロイーズは)痛いほどわかってしまうのだ。

 

 

 さて愛の書簡集と呼ばれる最後の部分第五書簡のアベラールの返事について記すことにする。

 

コチラが未読の方は先にどうぞ!!

右差し中世往復書簡「エロイーズとアベラール」にみる愛の形(第1回) 

右差し 中世往復書簡「エロイーズとアベラール」にみる愛の形(第2回)

 

 

聖母マリアに祈りを捧げるアベラール

(パリ国立図書館 )

 

 

 まず今一度頭に刻み付けておきたいことがある。それはアベラールは哲学の中でも論理学的弁証学を得意とし、議論を武器に各地を渡り歩いた強者であるということだ。(※弁証学とはキリスト教神学の一分野でそれを弁証することを学ぶ学問のこと)

 当たり前だが弁が立つのはもちろん、理路整然とエロイーズの訴えに答える様子にはなるほどと頷かされてしまう。特に彼女が賞賛を斥けようとする行為について、良いことだと認めつつも慎重に注意を与えることを惜しまない態度はさすがである。

 彼の身に受けた彼女の嘆きの素となる損傷も、結局は自分たちをより良き方向へ導くためのものとして神の恩寵が彼女の叔父の手により生ぜしめたものだったと諭す(そうは言っても悲劇を被った直後の彼はやはり復讐心や怒りの感情で燃えていたようだ)。しかし何年かの修道士としての修行のうちに自らの悲劇を昇華できるようになってそういう思いへと到達することが出来たのだろう。

 

アベラールの研究者のジルソンはこう言っている。

本「神が彼に打撃を与えられたのは

もっぱら彼を肉体の刺から解放し、

精神の仕事に自由に従事させるためであった」

 

 

 アベラールは言う。

お願い主はその御名エロヒム(旧約聖書の神)にちなんであなたをエロイーズと名づけ給うた時に、その名前にもとづく聖なる暗示によって、あなたを特に自分のものと予定された(※注 修道女となりキリストの花嫁となることによって、キリストはあなたのものとなるということを意味している)

お願いあなたは天以上であり、地以上である。天地の創造者御自らがあなたの代価になられたのであるから。 

 

それはこのように訴えるエロイーズをなだめ修道士として教え諭すためのものだろう。  

「私が聖衣をまとったのはあなたの御命令によるのであって

神への愛からしたのではございません」

 

 

 さらにこのようなアベラールの毅然とした感情に流されることのない修道士然とした言葉の裏側にある事情も再び確認しておきたい。

 アベラールの不幸の物語である自伝の第一書簡は遁世の地ブルターニュの修道院から出されたものだが、それ以後の書簡は迫害にあい死の恐怖に怯えながら各地を転々とした状況下で出されたものである。そのような年月の中で彼にとって神への愛は絶対的なものとなり、一介の修道士から修道院長という聖職者の位にまで昇り詰めた人間となっていた。だから今再び彼のこれらの言葉に向かう時、これはアベラールの神に対する敬虔と信仰の深さを示す言葉そのものであることが理解できるのだ。

 

 そうでなかったら彼のたとえば次のような言葉に対して、何ていうことを言うのかと耳を疑う他なかったかもしれない。

お願い人その友のために己れの生命を捨つる,之より大なる愛はなし」(ヨハネ伝十五の三)と言われた彼はあなたの真の友である。あなたを本当に愛したのは彼であって私ではない。我々二人を罪に巻き込んだ私の愛は情欲であって愛と呼ばれるべきではない (※注 傍線は私が引いたもの)

 第二書簡でエロイーズ本人が「あなたが私に結んだのは友情ではなく色情であり、愛ではなく激しい情欲です」と、同じ言葉を吐いた気持ちは理解できるにしても、アベラール本人の口からそれを言い出すなんて残酷過ぎるし彼女があまりにも憐れではないかと思いもしただろう。

 

 そこには確かな現実があった。

彼はもう以前の彼ではない。

世俗の哲学者から神の哲学者へと転身をとげたのだ。

 

 いややはりそれではあまりにきれい事過ぎないか。アベラールの告白は半分当たっていなくもない。はっきり言おう。彼は自伝の中で告白しているのだ。少なくとも最初のうちは愛というよりは抑えきれぬ自身の欲望の対象として彼女を見ていたと。

 エロイーズのほうでもそれに気付いたからこそ<あなたが私に結んだのは~激しい情欲>と言ったのだ。もっともそれは修道院へ入って何年もの月日が経ってからのことである。無理もない、とびきりの才女と言えども当時はうら若き17歳の乙女に過ぎなかったのだから。

 敬愛し皆の憧れの的だった年上の(39歳)彼に引っ張られるままになっていたというのが真相のようだ。

 

  その後二人の間が深みに嵌っていったときに

互いの関係性は恋愛と言えるものへ変化していったのだ。

 

 

「書簡集」写本の最初のページ 

(パリ国立図書館)

 

 

 

 一つ付け加えれば、お互いに愛に関して無知、つまり免疫が全くなかったと前にも書いたが、アベラールという男はそれまで勉学一筋で来たからこそ今の地位を獲得できたといってもよい。従って女性との縁は薄かったし商売女たちとの関係は嫌悪していたようなので遊び人ではない。叔父の元で勉学に勤しんでいたエロイーズにしても同様、そういう2人だから火がついたら燃え上がったのも当然のことだったのかもしれない。

 繰り返すがそのような過去も今の彼にはただの昇華された思い出にすぎないわけであるし、先ほどの言葉も神に対する敬虔と信仰の深さから出たものと思えば、こういった意味に解釈することが可能かもしれない。

 

―あなたを本当に愛したのは彼(キリスト)であって私(アベラール)ではない―

 

 

 それは現在は修道女、いわゆる神の花嫁となった彼女のことを愛する自分の姿をキリストに重ねたものではないだろうか。

 

十字架キ リ ス ト の よ う に 愛 す る こ と

 

 

 肉体のしがらみを持つ人間としてのアベラールはもはや存在しないのだし、彼の中で「愛」といもののステージが一段上がったものになったことを証明する言葉なのである。

 

 この第五書簡冒頭の相手への呼びかけにすでにそれは表れているように私は感じた。

下差し

鉛筆キリストの花嫁へ――キリストの僕より

 

 それはまた次の言葉へと受け継がれてゆくものだ。

 「自分たちに降りかかった出来事はもはや運命として受け入れることしか出来ないのなら

それを悲しまずに二人にとってより良き方向へと変えていくしかない。

愛した相手と共に同じ方向へ向かって歩いていくことが出来るなら

これこそいちばん幸福なことではないか」

 

 彼女にもそう思ってもらいたいという願いがこの言葉の芯に強く込められている気がする。

 またそれだけでなく注目したいのは、アベラールが自分のことを「キリストの僕」と言っていることだ。

 

「僕」という一文字に込められた思い…

 

 実はアベラールからエロイーズに向けて書かれた書簡全ての内で、冒頭と末尾における彼女への呼びかけの言葉を見てみると、大概は次のようなものである。

 鉛筆「かつてこの世において愛し、今はキリストにおいて一層愛する私の姉妹(または一層愛する者、一層愛するエロイーズなど)よ」

 或いは少し長くなるがその後にこう付け加えている箇所もある。

鉛筆 「当時肉において妻であって今は霊において姉妹であり且つ聖なる誓願において同志である者よ」

 

 

このと言っているのは後にも先にも<愛の書簡>最後になるこの第五書簡の冒頭のみになる。

この一文字に彼のエロイーズへの夫婦としての愛情や親しみが溢れ出てはいないだろうか。

 

 

 原文のラテン語はどのようになっていてそれが仏語から日本語へとどう翻訳されたかはわからない。私の思い入れのせいも多分にあるだろう。それでもこの一文字に私は彼の穏やかなる夫婦(男と女)としての愛情を感じ胸が熱くなった。

 

 

 赤薔薇      赤薔薇     赤薔薇

 

 

  だが、エロイーズ本人はどう思っただろうか。

 果たして彼女の耳にこれらのアベラールの言葉たちはどれほど届いたのか。

 「私が聞きたいのは何度も言うように

アベラール、あなたのそんな言葉ではないのです」

そんな彼女の声が聞こえてくるようだ。

 

エロイーズの筆跡と思われるもの(一部が修復済み)

(パリ国立図書館)

 

 

 彼女の代わりに言わせて貰うことにしよう。

 「よくわかりました。アベラール。

 でもあなたのこの言葉だけは

彼女にはどうしても受け入れがたいものなんじゃないかと。

 あなたがエロイーズに向けてこう言ったこと」

 

お願い私はあなたの心の苦い感情が、神の御慈悲のかくも明らかな計画を思うことによって、もうすでに消え去ったこととばかり信じていた(そう思うのは男の勝手だけど)。あなたの身と心をさいなむこうした感情は、あなたにとって危険であればあるだけ、私にとっても不幸であり、苦痛である。

あなたはすべてについて私の気に入るように努めていると言っているのであるから、少くとも私を苦しめないために、いや、私に大いに気に入るために、どうかそうした感情を捨て去ってもらいたい。― ※注(  )内は私の感想

 

 アベラールよ、どうかよく聞いて下さい。

 それが簡単にはできないからこそ

エロイーズが苦しんでいるんじゃないですか。

 何度も言うようだけど、彼女が聖衣をまとったのは

神への愛からではなく、アベラール、

あなたが命令したからなのだということを忘れないで下さい。

 いいですか?!

彼女は一度たりとも神が喜ぶためにしたことは

何もないと言っているのですよ。

修道院長になった今でもね。

 確かにあなたが身体に被った悲劇には同情します。

だけどそのお陰であなたは

ずっと苦しみ解放されたいと心の奥では願っていた、

哲学者や聖職者にとって最大の邪魔になる

情欲というものから解放されたのではないでしょうか。

だがただ一人その苦しみから取り残された

エロイーズはどうなるんでしょう!?

 

 「聖書の言葉を引いて私を励ましたり、

戦いへ駆ったりなさらないで下さい。

私は勝利の冠などを求めたくはございません」

というエロイーズの言葉が再び聞こえてくるようだ。

 

 

―以上、第5書簡より―

 

 

※参考文献  

本エロイーズとアベラール ものではなく言葉を/マリアテレーザ・フマガッリ=ベロニオ=ブロッキエーリ

                               白崎容子/石岡ひろみ/伊藤博明 訳 (法政大学出版局)

本アアベラールとエロイーズ/エチエンヌ・ジルソン

              中村弓子 訳 (みすず書房)

 

 

ベル最後では思わず彼女に成り代わり代弁をしてしまったが

実際のエロイーズは何と答えたのだろうか。

そして二人のその後は―。

 

その続きは次回最終回にて!!

(メモコメントもお待ちしています)

 

 

 

よろしくお願いします

下矢印

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