10、テスト投稿・・・第四部② 日の神信仰の系譜 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

紫門解説

前回に続いて古事記と旧約聖書との類似点を探る話なのですが

天照大神の岩戸隠れだけは似た話が旧約聖書にありません

 

ところがエジプト神話には似た話があった・・・

ということは古代日本にイスラエルのバイブルが伝わっていたとしたら

その中にはエジプト神話も含まれていたという可能性があるわけです

 

それは現在の旧約聖書とは違ったもので

エジプト神話も含めた聖書であり

イクナートンからヨセフ、モーセ、エフライム、ヨシュアへと続く本物の聖書であり

ユダヤ人が書き換えた聖書とは全く違う可能性があるということです

 

そしてその原本聖書はシルクロードで釈迦と老子に影響を与えながら

東の果てへ・・・

そしてイエスの時代に大乗仏教にも影響を与えながら

永遠の生命の書「非時ノ香ノ木ノ実」として

または景教として日本に渡来していた可能性が・・・

 

今回のお話は本当にスリリングです😁

 

 

 

 

 

第二章 日の神信仰の系譜

 

なぜ鏡をおがむのか

 

「たしかに、いわゆる旧約聖書の中に、岩戸開きの原型は見あたらない、しかし問題の幻の奥義書というのが、実際あるとしたなら、おそらくその内容というのは、単なる聖書の註釈だけではなくて、そもそもの成り立ちの解明から、究極に意図する奥義までを一貫して包摂しているものにちがいない。

したがって、当然、発端は、イクナトンの昔へとさかのぼることになる・・・そこで、あらためて、イクナトンが崇拝した太陽神に、関係ある神話を調べる必要は当然おこる。

そのとき第一に思いつくのは、エジブトのハトルという女神が、頭に太陽を表わす円板をのせている姿だ。

エジプトの神話では、神々同士の親子夫婦の関係の説明が支離滅裂だから、彼女は太陽を生み出した偉大な宇宙神かと思うと、太陽神レエの娘だといわれたり、鷹の姿をした愛の女神だったり、天の牝牛だったりする。

そういう雑多な神話の中に、こんなのがあるんだ・・・あるとき、何かでひどく腹をたてた〈太陽神レエの娘のハトル〉が、父神のもとを離れて、獰猛なライオンの姿になって砂漢をあばれまわっていた。太陽神レエは地上の人類を統率するためには是非とも娘ハトルの協力がほしい。そこで部下の神々を派遺して、彼女をなだめようとしたが、ハトルは帰るといわない。そこで知恵の神トートが、『もしハトルが、理想国エジブトの建設計画に参加してくれるなら、壮麗な神殿を建てて、好物の酒を毎日欠かさず供えるしにぎやかな音楽も踊りも奉納する』と約束する。トートのたくみな弁舌にのせられたハトルは、ついに、怒り狂うライオンの姿から美しい愛の女神に戻って、華やかなパレードに囲まれながら新しい神殿に向かうことになる。それ以来、毎年、知恵の神トートの月の正月には、『ハトルの女神がつれ戻された記念』の祝典が、エジプト各地で盛大に祝われるならいになった・・・いろいろ雑多にあるハトルの女神の神話の中で、これが一ばん知られているんだ」

 

「太陽の女神が、酒宴や踊りに誘惑されて連れ戻された、となると、いやでも天照大神の岩戸開きすさのおのみことを連想しないわけにはいかないな・・・それに〈荒らぶる神〉の須佐之男命が高天原にのぼってきたときに、天照大神は男装して立ちむかったというイメージも、ライオンに変貌した、というのと通じるともいえる・・・」

 

「ことに、思金神(おもいかねのかみ)の役割ね、天安河原(あめのやすのかわら)に八百萬の神々が集まって、天照大神を岩戸からつれ出す相談をしたときに、芸能をつかうというアイデアを出して成功した思金神は、知恵の神トートの変形とも想像できるだろう?・・・そればかりじゃないんだ。このハトルの女神の祭りではとくに女の祭司が、シストラムという、赤ん坊をあやすときのガラガラのような楽器を振りながら舞う儀式がつきものになっているのだが、それが、また、日本の神楽で、巫女がふる鈴によく似てるんだ」

 

「しかしきみ、太陽神信仰に専心したイクナトンは、太陽神以外の神は一切排除しようとしたんだろう? それなら、ハトルの女神をまつるということも認めなかったんじゃないのか?」

 

「まったくそうなんだ。それまでは、大神殿の内陣にはありとあらゆる神々の偶像が飾ってあって、全部がおがまれていたのに、イクナトンはその習慣をことごとく禁止した。そして、屋根なしの青空神殿というか、野外の聖域で、太陽を象徴する一枚の円板だけを礼拝の対象にした。・・・だが、その円板たるや、元来、ハトルの女神のシンボルで、彼女の頭飾りだったものだ」

 

 

「宮中の儀式で女子の大礼服のとき、おすべらかしの髪に〈ひらびたい〉っていうの、つけますね、額の上に。あれも、いかにも太陽と太陽の光、という感じじゃありませんか?」

 

 

「磨きあけた金属の円板が太陽のシンボルだというのは、そもそも天照大神の神勅と無縁ではなさそうだ。『この鏡を見ること、われを見るごとくせよ』・・・それに、日本の神社にしても、普通の家庭の神棚にしても、御神体は、ほとんどが鏡だろう、つまり〈金属の円板〉というわけだ。・・・・・・伊勢神宮をはじめとして、どの神社も、今でこそ鏡を屋内に祀っているけれども、昔はそとだった。祭礼のときは、屋外の聖域に運び出されてひもろぎ(神のよりしろとなる木)にかけて礼拝した。・・・文武天皇のころまでは、そうだったらしい・・・」

 

 

「あの、・・・ですけれど日本は、・・・それこそ〈神代のむかし〉から、太陽神崇拝の国だったのではないのですか? 私たち、子供のころからずっとそう教えられていたと思いますけど」

 

「その神代の昔というのは、いつごろのこととして考えてる?・・・中国の歴史書をみると、『日本』という国名が正式に出てくるのは〈旧唐書〉(10世紀前半ごろ書かれた)以後で、それまでは、中国側では日本を倭国というし、日本ではヤマトと名乗っていたらしいね。ところが、ある時期を境にして、なぜか急に『日本』ということを意識しはじめる・・・」

 

「ある時期って?」

 

「記録の上にはっきり現われてくるのはあの『日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや』だろうな・・・推古天皇15年(607)に、随に送った国書。・・・随の煬帝は腹をたてたらしいが、もしこれをエジブト流に解釈すれば、〈天子〉はすべて〈太陽神レエの子〉だ。そして〈日出処〉はヶプリ(創造)、〈日没処〉はアトン(完成)を意味するのだから、少しも礼を失することにはならない」

 

「事実、煬帝は怒った記録があるんだろう? とすると煬帝が知らない知識を、聖徳太子が持っていて、力負けした、ということになるな? 当時の中国と日本の状況として、そんなこと考えられるか?」

 

「太子が例の奥義書を読んでいた、としたら?」

 

「うむ・・・・・・それなら、その太陽神が、外来のものだったとして、聖徳太子以前の、いつごろ入ってきたことになる?」

 

「魏志倭人伝の記事ね、それに、古墳からの鏡の出かたからして、すくなくとも三世紀以後の日本人が、鏡に対して、異常な愛着を持っていたことは事実らしい・・・・しかもその鏡には、凸面鏡があるというのは明らかに化粧のための道具ではない、礼拝の対象として、霊的なものだったんだ。

ところで『魏の天子が、邪馬台国の女王卑弥呼に銅鏡百枚贈った』というのは景初三年(239)のことだといわれている・・・日本書紀の編者は卑弥呼を神功皇后と考えていたらしいが、最近の歴史家の中には、卑弥呼の時代は、いわゆる神代の、天照大神のころにあたる、という人もいる」

 

「そうなれぱ、やっばり神代時代から太陽信仰があったことになる。すくなくとも田道間守(たじまもり)よりはまえからあったということだろう?」

 

「そこでなのだが、・・・大正時代に内藤湖南という学者がいたろう? 支那学の大家。彼はね、『卑弥呼の使として魏の国へ渡った人物は、田道間守ではなかったか?』とも言っているんだ。ただし今日の歴史家の多くは垂仁天皇は四世紀の後半あたりと推定しているようだから、当然、古事記に登場する田道間守は、卑弥呼時代より、かなり後れていると考えなけれぱならない・・・だが、その問題は、いま、しばらくおいて、田道間守が常世の国をめざして非時の香の木の実をさがしに出かけた理由を、さっき言ったように円野比売(まどのひめ)が垂仁天皇を呪って死んだことにあると仮定した場合、古事記にはそれとまったく同じといっていい話が、もう一つ、天孫降臨直後の、石長比売の物語として出てくるという問題なんだが・・・ここでかりに、内藤湖南説を参考にして、田道間守は円野比売事件の垂仁天皇のときでなくて、卑弥呼の時代、つまり天照大神時代、瓊瓊杵尊と国じゅうの国民を呪った石長比売事件のときだった、と考えてみると・・・」

 

「なるほど、卑弥呼だけでなくて、田道間守まで神代の人間にしてしまうのか・・・内藤湖南は田道間守を卑弥呼までひき上げた。桃棲じいさんはさらにその卑弥呼を天照大神だとしてみるというんだな?・・・一方、その〈神代〉とは倭人伝の〈銅鏡百枚〉の記録によって、三世紀前半まで下がってくる・・・『ヤマト』が、『日の本』とか『日本』にかわった理由も、それで説明がつくわけか」

 

「そこで、もう少しエジブトと日本の神話の類似点をあげてみると、古事記に、伊邪那岐命(いざなぎみこと)の左の目から天照大神が生まれた・・・つまり太陽だね、そして右の目から月読命(つきよみのみこと)、月が生まれた、とあるけれども、エジプトでは、太陽の女神ハトルの夫、〈鷹の姿をした空の神ホルス〉の目は、太陽と月なのだ。さらに見逃せないのは、別の伝説では、鷹そのものが、太陽の使になっている。それで鷹は、〈太陽神レエの子であるファラオ〉が、戦場で窮地に追いこまれたとき、かならず救いにやってくるというんだ。・・・神武天皇の金の鶏(とび)の話と、どう? 長髄彦(ながすねひこ)を相手に苦戦したとき、天皇の弓の先にとまってサンゼンと光ったから、敵はみんな目がくらんで逃けたという物語と・・・」

 

「そういくつもたたみかけられると、田道間守がエジプトの太陽神をもってきた、という仮説も無視できなくなってくるが、・・・彼が、その信仰に出会った場所の設定は、どこに置くんだ?」

 

 

 

不死鳥フェニックス

 

「なにしろ空間的距離から言っても、当時エジプトは、はるか彼方のことだし時間からみても、イクナトンと田道間守は1600年以上の開きがあるとみなければならないわけだから、その間には相当数の中継者がなければならない。・・・ヨシュアをはじめとするエフライム族や、サマリアびとの手を経てイエスに伝わり、さらにイエスからトマスに受け継がれた奥義のルートは、おおよそ想像することができるものの、それからあとが簡単にはいかない。・・・もしも田道間守が行った先がインドだったとすれば、彼が手に入れたのは多分、アレクサンドリア経由でトマスが持ってきた、大乗仏教の原典になったものだろう。・・・しかし田道間守が、あるいは中国のどこかでその奥義と出会ったのだとしたら、それは、シルクロード経由で、シリア系の絹貿易商が、中国に持って行った、景敦の経典の一部だったかもしれない」

 

「しかしどのルートだったにしても、エジブトの太陽信仰の起源にまでさかのぼるという以上、その間の千六百年、絶えないでうけつがれてきた伝承の、痕跡がなけりゃならないな」

 

「その手がかりは意外なところに、ころがっているんだ。・・・たとえば、イクナトンの死後、ヨセフはテーべの神官たちの迫害をさけて、シナイ半島の荒野に脱出したと推定できるわけだが、旧約にも書いてある通り、彼は、オンの祭司の娘と結婚しているね。・・・このオンというところは、現在ではカイロの町の一部になっているけれども、かつてはエジプトの最も古い都の一つで、あらゆる神々の揺藍の地とよばれていたし、そのうえ、太陽神信仰の中心地だった。このオンという地名は元来、古代エジプト語では『記念碑の都』日光を象徴するオベリスクの都・・・という意味で、アレクサンダー大王がエジプトを征服してから以後は、ギリシヤ語でヘリオポリス(太陽の都)とよばれるようになった。

・・・さてこのヘリオポリスに関係する伝説というのは、またまた数えきれないくらいあるのだが、一ばん有名なのが、不死鳥フェニックスだろう。フェニックスはギリシャ語で、色あざやかという意味だね。この鳥の寿命は、500年とか1500年とかいろいろの説があるけれども、とにかく臨終の時がくると、自分の体を焼いて灰にする。そしてその灰の中から、若い鳥の姿になってよみがえる。それから、かつての自分の骨を、ヘリオポリスの太陽の神の祭壇に納めるために飛んで行くというんだ。もっともこの神話は、本来はナイル河の氾濫を予告する星として信仰されていたシリウスが、はじめて地平線に姿を現わす日が、毎年すこしずつずれて、もとの日に戻るのが、1461年目であることに由来するらしいのだが、いつの間にか、その天文学的な意味は忘れられてしまって、500年から1500年ごとに再生をくり返す不死鳥、つまり、永遠の命のシンボルということになった。そして、その後、紆余曲折を経た末に、キリスト敦の重要な教義の一つである〈復活〉という信仰が生まれることになる」

 

「そうか、復活というのは、イエスが蘇ったためにはじめて宗教上の問題になったわけじゃないんだな。すくなくとも近東地方の人間にとっては、古代エジブト以来の願望だったわけか・・・・・・」

 

「聖書研究家の多くは古代のユダヤには復活の思想はなかった、というが、それはエフライム族の伝承を無視して、ユダ王国側の文書である旧約聖書だけにこだわるからで、そもそも古代エジブトの太陽神崇拝と、復活や永遠の生命の信仰は、大昔から付きものだったのだから、それが連綿と伝わって、後世キリスト教の中に根をおろすまでの経緯は、近東地方の国々の神話や旧約聖書(ヨブ記29-18但し「砂」=「不死鳥」と解釈して)、それに初代キリスト教会の文献(クレメンスの手紙25・26)などから、いくらでも拾い出せるのだが、しかしそのエフライム族経由の〈復活の思想〉が、さらに例のトマスを通じてインドの大乗仏教にまで影響していることを、明らかに示唆するのは法華経の、薬王菩薩本事品だ。

 

・・・この中で、自分自身の体を焼いて仏を供養した菩薩が絶賛されているために、『焼身白殺が、なぜそんなにありがたいことなのか?』と真意をつかみかねて、昔がら法華経の解説者が苦心惨憺しているんだが・・・

しかしこの薬王菩薩本事品の、

薩💗・・・万人が憧れる麗しい菩薩・・・は、ありとあらゆる香木を積みあけてから自分で火をつけて、1200年の間、身を焼きつづけて灰になると、ふたたびもとの姿に復活した』という、謎めいた物語が、実は、エジプトの不死鳥フェニックスの復活物語のつくりかえで、その裏には永遠の命を得るための瞑想法の奥義がかくされているのだ・・・と解読すれば、焼身供養のテーマに、なんの疑惑も存在しなくなる」

 

「・・・そうだとすると、田道間守はインドまで行ったことになるか?・・・」

 

「田道間守が、もし三世紀前半の人だったとすれば、大乗仏教の思想をはじめて体系だてたといわれる謎の人物、ナーガールジュナ(龍樹)の晩年の時代にあたるのだから、二人がインドで直接顔を合わせた可能性も、なきにしもあらずだね、しかし一方、田道間守は、中国に行って景教の信者に出会った、という可能性もある」

 

「行先がインドか中国かのちがいで、持ってきた奥義の内容はちがってくるだろうか・・・」

 

「ほとんど大同小異だと思うよ・・・とは言っても、景教徒の奥義書には、エジブトのイクナトン以来の系譜が、とくにはっきり書いてあったはずだ。なぜならば、彼らが白分たちの宗派を中国語で、は景教と呼んだ。・・・この字を分解すれば〈日の京(みやこ)の教〉つまり太陽の都の教え、ということになるだろう? 言いかえればヘリオポリスの教えじゃないか。フェニックスの教えそのもの、ということにもなるはずだ」

 

「しかしだね・・・フェニックスの復活が法華経の中に入り込んでいる、という説はなんとかのみこめるにしても、景教がヘリオポリスの教えだという謎解きはどうもうますぎる感じがするよ、」

 

「じゃあ、例の、長安の都に建てられた〈大秦景教流行中国碑〉・・・この、上に彫ってある十字架をみたまえこの形は俗にマルタ・クロスとよばれているが、これの起源は傑刑の十字架ではなくて、本来、太陽の輝きの図案化であることは確かだ。しかも、その下に、蓮華と雲が描いてあるだろう。このデザインは、この石碑だけに彫ってあるのではなくて、中国周辺で発見されている景教徒の墓石には、ほとんどみな、マルタ・クロスがついていて、その下に、はっきり蓮華が描かれている石碑も、いくつか、あるんだ」

 

「太陽の十字とエジプトの蓮華か・・・盲点だったな、」

 

 

「エジプトの神話では、太陽は最初、蓮の花から生まれたことになっているんだよ。多分、蓮は日の出といっしょに花が開くからだろうが、要するに蓮華の上の日輪は、日の出の太陽=ケプリ=創造=『ありとあらゆるものを存在せしめるもの』という意味になる、しかもそればかりじゃなしに、大乗仏教の時代になると、急に仏や菩薩の彫刻や壁画が、例外なく蓮華の上に坐っている姿になるし経文にも『蓮華台に坐し・・・』という言葉がしきりに出るのも、同じ根拠からに相違ない」

 

「それにしても、どこで、どうクロスするんだ? エジプトの太陽信仰とキリスト教は」

 

「イエスの誕生日が、十二月二五目ときまったのは、四世紀なかばごろからで、元来は、冬至を境に、日が長くなりはじめることを祝う太陽神の祭りだったのだ。だが、キリスト教と太陽神の結びつきは、それだけじゃない。イエスは十字架で死んだのち、いわゆる復活祭・・・春分後にくる満月の直後の日曜目・・・に蘇ったことになっているが、太陽神が悪魔の手にかかって殺されて春分のころに蘇るという神話はエジプトばかりでなく、大昔から、世界じゅうどこでもあるんだ。ただし古代のエジプトやメソポタミヤ地方では、牛が、太陽の身代りとして犠牲に供えられる習慣があった。その理由は、今から五、六千年前の春分は太陽が、ちょうど牡牛座をバックにして空を渡っている季節に、あたっていたからなのだ」

 

「五、六千年前の春分と、今の春分とで、太陽の位置がちがうんですか?」

 

「その説明は、中村君にしてもらうほうが安心だな」

 

「桃棲じいさん流でなく、どうぞわかりやすくお願いいたします」


 

「突然、責任重大になるんだね、ここの家、星座表あったか? ああ、それでいい・・・

地球は太陽の周囲を一年かかって一周するね、

しかし地球からは、太陽の方が、一年かかって大空をひと回りするように見える・・ああそうか、大空をひと回りとは見えないな、この星座表をひと回りするんだね・・・

その太陽の通り道が、この黄道帯(ゾディアック)だ。この黄道と地球の赤道とが交わっている所がニカ所あるね、春分点と秋分点。

・・・つまり春分の日に太陽は、・・・もちろん昼間、星座はみえないけれども、ちょうどこの魚座の辺の位置にきているわけだ。これが、四月五月と、だんだん東へ移っていって夏至には双子座、秋分には乙女座、冬至には射手座となってきて、一年たった春分にはまたもとの魚座のところに帰ってくる。といっても、正確には、もとの位置じゃない・・・ほんの少し西へずれるんだ。これを天文学で歳差というんだが今夜はテーマがちがうから、このずれる理由は省略しておくよね、・・・とにかく72年間で、約一度ずれるから、72の360(度)倍して、約二万六千年たたなければ、もとの位置には、戻らないんだ」

 

 

 

 

「それで五、六千年前の春分のときの太陽の位置が、今とはかなりちがうというわけなんですね」

 

「この、魚座の中の現代の春分点の位置と、これよりはるか東の牡牛座のアルファ星のアルデバランの位置は、これだけ・・・経度で約70度、離れているだろう。だから、春分点が、そのあたりにあったのは、72を70倍した、約五千年昔のことだという計算になる・・・」

「でも、そのころの春分点が牡牛座にあったからといって、牛が、なぜ、太陽神の身代りの犠牲にされたんですか」

 

「それは桃棲じいさんの守備範囲だから、バトン渡すよ」

 

 

 

 

五千年前の春分点

 

 

「それはね、今から五、六千年昔のナイル河やチグリス、ユーフラテス河の流域に定住して農耕をはじめた人びとにとって、牛は最も大切な労働力だったから、毎年、新しく耕作を開始する春分のころに、きまって太陽が通過する星座を牡牛座とよぶようになったらしいんだ。しかし当時はまだ、歳差の事実に気がついていなかった。だから牡牛座は、永遠に太陽の新しい出発点となる聖なる星座だと信じられていた。そしてそこから逆に、牛そのものが、太陽神のシンボルになっていった・・・・・・」

 

「鷹やスカラベが太陽の神のお使いとして大切に扱われたのと同じ意味ですね?」

 

「それと同様に、古代の人は、毎年、春分のころになると、冬の間枯れたと思っていた植物が、急に芽を出してくる自然現象を、悪魔に殺された太陽神が再生する、という神話によって理解しようとした。そしてさらに『あらゆる生物はもし太陽神にあやかることができるならぱ、死んでもかならず生きかえる』という信念をもつようになった。それにしても、どうすれば、自分も太陽神のように復活することができるか? 太陽神と同じような死が、その条件だ・・・と彼らは考えたんだ」

 

「古代の神秘教(ミステリズム)の祭典では、入門者は、かならず一度殺されて、それから再びこの世に生まれなおしてくるという儀式が打われたらしいね」

 

「しかし入門者を本当に殺して生きかえらせるわけにいかないから、太陽神が殺された後、蘇るというドラマを演ずるより方法がない」

 

「そこで、太陽神のシンボルと思われていた牛が、殺されたわけか」

 

「窮余の一策というか、ごく自然にそうなったのか、人間というのは、じつにいろんなことを考えるものだ・・・それにしても、太陽神の呼び名が、民族、時代によって、いろいろちがうために、いわゆる神秘教とよぱれる宗教の種類は数えきれないのだが、教義は似たりよったりだ。つまり、発想の源が一つだったということだね」

 

「キリスト教のミサにしても、キリストが殺されて春分の直後に復活したというドラマを、そのたびに厳粛にくり返すわけだから、やっぱり太陽神の神秘教の系統に入ることになるな?」

 

「でも、イエスキリストは、神の子羊にたとえられているでしょう? 子牛ではなくて」

 

「その問題をいうのに、『イスラエル民族が、とくに羊を大事にしていたから』とか、そのほかにもいろいろ理由があけられているが、その中で『イエスが生まれる少し前までの、二千年あまりの間は、春分点が、例の牡牛座から離れて、その隣りの牡羊座の上にくる期間に入っていたから』という解釈が、一ぱん筋が通っている。つまり、イエスの時代、太陽神のシンボルはすでに牛から羊に代わっていたのだ。・・・だから、太陽神の身代りになって犠牲になる者を、〈神の子羊〉とよぶようになった・・・」

 

「しかしね、この星座表を、黄道帯の長さでざっと測っても、イエスが生まれたころの春分点はもう牡羊座を通り越して、そのまた隣りの魚座に入っていたはずだと思うがなあ・・・」

 

 

 

 

「そこなんだよ!それが重大問題なんだ。古代の近東地方の宗教の歴史を調べるとき、その宗教が、それぞれ、いつごろ発生したかを知る方法として、教義や儀式の中で、牛が尊重されているか? それとも羊か、魚か、あるいはなにも出てこないか? ということが、おおよその年代や、系統を推定する目安の一つになるのだ。その意味からすると、たしかに君のいうとおり、イエスの時代は、春分点は、はっきり魚座に移っていたころだ。だからこそ、マルコによる福音書(1-17)の中で、イエスは、ペテロたちに向かって、『あなたがたを、人間を漁る漁師にしてあけよう』といっているだろう・・・そのほかにも、福音書には、魚と関係のある話が、かぞえきれないほど出てくる。それは、たまたまペテロたちが漁師だったからだ、といってしまえばそれきりの話だが、初代キリスト教会で、好んで使われた『Iesos Xristos Theos Uios Soter{イエス・クリストス・テオス・ヒユイオス・ソーテル}(イエス、油塗られた者、神、子、救い主)』という、ギリシャ語のイエスをたたえる祈り、これの頭文字を拾うと、Ixthus {イクテユス}となってまさしく魚の意味になる。これを、単なる語呂あわせと言ってしまうよりは、初代キリスト教会の人たちが・・・と言っても、ごく限られた、指導者たちだけではあろうけれども・・・たしかに天文学上の春分点と魚座の関係をよく知っていて、イエスを太陽神と同一視していた、なによりの証拠と見ることはできないだろうか」

 

「しかしそれはむしろ、迷信的な星占いの影響じゃなかったのか? 天文学というより・・・」

 

「キリスト教の研究家の中にも、そういう考えかたの人が、かなりあるようなんだ。だがね、占星術がいう十二宮(黄道帯を12等分した位置)は、なぜか大昔から、春分は白羊宮にはじまって、そのつぎが金牛宮、それから双子宮という順序で、最後が双魚宮なのだ。これは春分点がまだ牡羊座にあったころの習慣が、そのまま現代までつづいているということだろう。星占いの人たちが、もう二千年も前に、春分点が牡羊座から魚座へ移っていることを、知らないはずはないのだが、なにかの理由で無視しているのか・・・ところが、初期キリスト教徒たちは、すでに春分点が魚座に来ていることを、はっきり意識していたとなると、彼らは、占星術を信ずるよりも、むしろ天文学に明るかったとしか、考えられないじゃないか」

 

「となると、イエス自身も、かなりの天文学の知識をもっていたかもしれないね」

 

「クリスチャンの中には、パウロはインテリで、イエスや十二使徒は学問には縁がない人たちだったという人が珍しくないが、聖書をよくよんで見給え、むしろイエスや直弟子たちのほうが、当時の保守的なユダヤ教のラビたちよりも、はるかに進んだ知識や教養をもっていたらしい面影が、随所にちらついている・・・」

 

「でも、そうならば、ヨハネの福音書で、〈神の小羊〉と言ったり、黙示録で〈ほふられた小羊〉と言っているのは、なぜでしょう? それはむしろ、星占いのほうに近いということになりませんか?」

 

「たしかに洗者ヨハネはイエスのことを〈神の小羊〉と呼んでいるし(ヨハネ福音書1-29、36)、ヨハネの黙示録では、〈小羊〉という言葉が、30回ちかく使われているね(5-6以下)・・・だが、そのことこそ、前にも言ったけれども、ヨハネの黙示録の原典は、イエスがまだ生まれていない前、つまり、春分点か牡羊座にあった時代に書かれた・・・洗者ヨハネはそれを読んでいたのではないか?・・・と想像される理由の一つなのだよ」

 

「でしたら、その牡羊座が出てくる黙示録が、エジブト伝来の〈幻の奥義書〉ですか?」

 

「いや、そうではない。いまわれわれが言うところのく原典黙示録〉は、牡羊座の時代に書かれたものにはちがいないが、だからといって、イクナトンやヨシュアの時代にまでさかのぼるほど古いものではない。なぜならば、ギリシャ人のヒッパルコスが歳差を発見したのは、紀元前二世紀だろう? このことは、羊が、はっきり太陽神のシンボルと思われるようになったのは、前二世紀ごろからだ、ということを裏づける。それ以前の約四千年間は、ずっと牛が、太陽神の象徴だったはずだ。したがって、いまわれわれが言うところの〈原典黙示録〉は紀元前二世紀以降にまとめられたことになるから、奥義書そのものではない。奥義書を手に入れるための道しるべにすぎないのだ」

 

「つまり、正真正銘の奥義書には牛が太陽のシンボルだった時代の、痕跡をとどめているはずだ・・・というんだな?」

 

「その視点に立って旧約をよみかえしてみると、『黄金の牛を祭ることはヤハウェの意志に反するもの』として激しく非難しているね(出エジプト記32-35、列王紀(上)12-25~35、歴代志(下)11-15、13-8など参照)、・・・これは明らかにユダ王国や例のアロンの子孫と称する大祭司ザドクの家に伝わる教義が、太陽神信仰の系譜に属していないことを物語っている・・・。だが、もし『わたしは有って有る者』と名乗っているYHWHが、『ありとあらゆるものを存在せしめる』エジブトの太陽神ケプリだったとすれぱ、いわゆるほんものの奥義書には、むしろ牛という言葉が出てこないはずがない。・・・その証拠には旧約聖書の中にも(創世記49-24、詩篇132-2、イザヤ書1-24など)・・・今日では『全能者』という言葉に置きかえられているけれども・・・本来はこれらの書ヤハウェの著者が、YHWHを牡牛と呼んでいたらしい痕跡が、ごく古い版には残っている・・・と主張する聖書学者がいるくらいだ」

 

「そうなると、かならずしも、『牛は邪教のシンボル』として片づけられなくなるな・・・」

 

「そこで、問題は牛がつきものであるミトラス教だ・・・」

 

「ミトラス教? あれはゾロァスター教の一派だろう・・・キリスト教の最大の敵といわれたやつじゃないのか?」