「となると、ヨハネの福音書に登場する例の〈疑いぶかいトマス〉が、『よく手で
「そこで、トマスからシリア教会に伝わったイエスの奥義は、そのあと中国の景教を経由して、七世紀の日本に伝来したかもしれない・・・わけだな」
「ところが、その景教なるしろものが、どうにも一筋縄ではいかない、厄介きわまる曲者ときているんだ・・・」
イエスの奥義
↓
ダウティング・トマス
↓
シリア教会
↓
シルクロード
↓
景教
↓
中国(大秦寺)
↓
日本(太秦寺)
第三章 大秦寺僧景浄
アブラクサスは365
「この大秦景教流行中国碑についての謎はいろいろ残っているわけだが、まず、この碑文を書いた景浄という人物・・・洗礼名がアダムで副司教で、同時に、中国管区の管区長だったらしい・・・ところまではおさえてみたわけだが、一体、彼がどこの国の人間なのかについては、いろいろの説があるのだけれども、碑文の終わりのほうにシリア語で、これを構文したのは、タホリスタンの首府バルクからきた聖職者ミリスの子イズブヂットである』ということが書いてある。景浄の名はアダムなのにイズブヂットであるというのは難点だが、洗礼名のほかに別名があってもおかしくはないから、これはパスするとしよう。・・・そこで、この碑文の第一行目の、『景浄述』という文字と符合する点から、あえて彼を、タホリスタン人、と仮定してみよう」
「タホリスタンというのも、やはり国の名前ですか?」
「いまのアフガニスタンの北都にあったオアシス国家だった。ヒンズークシ山脈のはずれにあって、シルクロードが、ここで中国とインドにわかれる重要地点だ。
アレクサンダー大王が死んでから、シルクロードの沿道にできたギリシャ系国家の中では東の端で、インドと中国にいちばん近い、バクトリアとも太夏とも、吐火羅(トカラ)ともよばれたところだ。そのころの中国人の中には、この辺一帯・・・インドの西北部までの、広い意味でのバクトリアを、大秦と思い込んでいた人もあったらしい。
たとえば有名な『ミリンダ王の問い』というバーリ語の経典の中国語訳(〈那先比丘経〉いなせんびくきょう)の中では、『ギリシャ系王国』という意味で〈大秦〉という文字が使われているんだ。
・・・一方、日本書紀には斎明天皇の三年(657)に都貨羅(吐火羅)の人間が、筑紫に漂着したことが書いてある。・・・とにかく、僧景浄の出身地が、タホリスタン(吐火羅)のバルク(薄羅)だとしたら、おそらく彼はただのシリア人ではなくて、中国人やインド人やペルシア人の血がまじった、複雑な文化の継承者だったろうと想像される」
「景浄すなわちアダムか、彼は自分で書けたんだな漢文の碑文を・・・。」
「どうもそうらしい・・・というのはね、この碑が建った翌年(782)に、北インド生まれの般若三蔵という坊さんが中国にやってきた。彼はまず手始めに『大乗理趣六波羅密多経』という経典をサンスクリット本から中国語に翻訳したいと思ったが、まだ中国語が自由にならなくているところへ、大秦寺の景浄という波斯僧(ペルシァ人の聖職者)を紹介されたので、胡本(ベルシァ語の本)の〈六波羅密多経〉をテキストにして、二人で中国語に訳した・・・ということが、ある中国人の坊さん(西明寺円照)が書いた本(貞元新釈教目録)に出てくるんだ」
「そのとおりならば、景浄はペルシア人ということになるね」
「ただしそのころの中国人は西域からきた外国人を、無差別に波斯人といっているから、かならずしもペルシア人とはかぎらないわけだが・・・しかしここで、より重大なことは、その当時の胡本、つまりペルシァ語の仏教の経典が存在していた事実がはっきりしたこと、それと、景浄が、ともかくも、それを中国語に翻訳できる人物だったということ・・・そのほかにも、敦煌で発見された景教の中国語経典のなかに、彼が書いたと伝えられるものが二つほど・・・一つは10行たらずの断片(宣言本経)だけれども、もう一つの〈志玄安楽経〉というのはほとんど完全に残っているんだ。
・・・しかしちょっと気になるのは景教碑にしても、志玄安楽経にしても、道教の影響が大きい感じが、誰の目にも否定できないこと・・・用語だけでなくて、思想そのものがね。・・・『ことによったら、中国人の道教の学者が、景浄のかわりに文章を書いたのではないか?』という説さえ、あるくらいなのだ。しかし逆から見れば、景浄の思想そのものに道教との共通点が多かった・・・と解釈できないこともない」
「大体、排他的なはずのキリスト教徒としては、めずらしいことじゃないのか?そういう、他宗教とのかかわりかたっていうのは・・・」
「問題はそれが、景浄個人の傾向だったのか、それとも中国の景教、つまり東方シリア敦会の本質とかかわることなのか、ということだが・・・とにかく景教の、碑文と経典を念入りに調べると、あとからあとから奇妙なことが現われてくるんだね・・・たとえば例の碑文と、それと10行たらずの断片しか残っていない宣元本経の中にも、『三百六十五種』という不可解な言葉が出てくるのだが、それを、この〈景教の研究〉の著者の佐伯氏は、『バジリデスが説いたアブラクサスのことだろう』と推測している」
「バジリデスのアブラクサスってなんだ?」
「バジリデスは、二世紀なかばごろに、エジプトのアレキサンドリァで活躍した人物でね、ペテロの通訳だったグロシアスから、特別の秘伝を伝えられた、とも、あるいは例の裏切りのユダが死んでからのちに、13番目の使徒としてえらぱれたマッテヤ(使徒行伝1-26参照)から、イエスの奥義そのものを伝授された、ともいわれている」
「とすると、きみが言うところの『原典黙示録の謎解きができた人間』だ、という可能性もあるか?」
「うん、あるいはね・・・とにかく一世紀の後半から二世紀のはじめごろにかけて、いたるところで、『イエスが直弟子に伝えた奥義とは、神を知る霊的神秘体験の問題であって、単純に救世主を信仰さえすれぱいいというものではない』と唱える者が、どんどん出はじめたんだ」
「それ、いわゆる〈グノーシス〉ってよばれてる連中じゃないのか?」
「グノーシスっていうギリシャ語は元来〈知識〉の意昧なんだね、だから、初期のキリスト教会では、最も重要なカリキュラムになっていたのを、いわゆる非主流派が、『自分たちのほうに、そのグノーシスの真髄がある』と強く言い出したから、正統派としてはやむをえず、グノーシスの代わりに、〈神学(テオロジー)〉の名称を使うことになった。その結果、やがてグノーシスは異端の代名詞のようになった・・・」
「当然、パジリデスも異端分子だな」
「彼は著書もかなり多かったし弟子もおおぜいいたらしいのだが、正統派が、それを根気よく絶滅して、著書も徹底的に抹殺した・・・今日ではバジリデスの教義を正確に掴むのは不可能になってしまった。しかしなぜか、彼が弟子に教えたという呪文だけが、世に残っている、それが、問題のアブラクサス・・・」
「呪文とはね・・・なんの目的の?」
「バジリデスの一派が根絶やしになったあとも、アブラクサスの呪文だけは、ヨーロッパの庶民の間で迷信的に使われて、そういう名前の神様が信仰されたり、病気なおしのおまもりになったり、あげくは、今日、手品師が、『アブラカタブラ!』って唱えるね、あれもアブラクサスが訛ったものだといわれている。
・・・しかし元来はバジリデスの奥義の暗号だっていうんだ」
「また暗号か」
「all the World is a Cipher (オール ザ ワールド イズ ア サイフア)だ」
「まったく、きみの手にかかると、『世の中すぺて秘密暗号文』になっちゃうんだな」
「ABRAKASAS ね、これをギリシャ文字で数字の置きかえをやると、>A=1、B=2、R=100、KS=60、S=200 だから、合計は365になる」
「なるほど、それが景敦碑の三百六十五種と符合するというのか」
「かならずしも研究家の定説になっているわけじゃないが、しかしいまはまだ、それ以上合理的な解釈は、発見されていないようだ」
「それで? その三六五が意味しているものは、何なんだ?」
「いわゆるグノーシス派の考えかたからするとね、この世のすべての存在のはじめ・・・それを神とよんだり父とよんだりするわけだが、・・・『われわれは、そこから生まれてきた分身であって、全存在は兄弟であるのに、それを忘れて、小さな自已にとらわれた欲望や対立に悩まされている。われわれは父なる神の故郷へ帰って、神と一体になる幸せを、とり戻さなければならない。それには、本来一つであるものが、分裂して争いあうことになってしまった現在までの筋道を、なぜ、なぜと、克明に辿りなおしてみなけれぱならない』・・・という考えは、すべてのグノーシス派に共通するけれども、その分裂の過程にどんなものが、どんな順序で・・・・となると、流派によって解釈がちがってくる。その中で、バジリデスは『原初の絶対的存在である神から、一段一段と遠ざかる層が厚くなって、ついには365番目の、最も知恵の乏しい世界にある現在の自已にまで離れてきてしまった』・・・という仮説を立てたらしい。といっても、彼自身の著書が残っていないのだから、当時の対立者たちの誹謗的な記録から割り出した、後世の推諭にすぎない。したがって、景浄の〈三百六十五種〉が、バジリデスのアブラクサスだったとしても、それが、はたして東方シリア教会の教義と、どう結びつくかの研究はこれから、まだまだ汗余曲折を経ていきそうだ」
「グノーシスって、どこか仏教的な感じもするな」
「じつはね、ヨーロッパの学者の中には、『バジリデスのアブラクサスの思想は仏教からヒントを得た、と考えられる』といっている人が、あるくらいなんだ。たとえば、お墓や塔婆の五輸ね、あれは地水火風空を現わしたもので、宇宙の原理を五つの属性で示しているのだが、サンスクリットで発音すると、アバラハキャ、中国風の書きかただと、阿縛羅去となるんだ」
「なるほど、アブラクサスに似てるか」
「そのほかにも、いろんな説があるのだが、いずれも臆測の域を出ていないんだ」
「それにしても、東方シリア教会の教義やイエスの奥義というのはどうやら仏教にまでかかわってきそうじゃないか」
バルラームとヨサファットの物語
「なにしろね、紀元一世紀の終わりごろからエジブトのアレクサンドリアにはすでにインド人の居留地があったといわれている。というのは、一世紀のなかば以降はアラピア海の季節風が、夏と冬では逆に吹くというのがわかったから、アレクサンドリアとインドの海上貿易が、飛躍的に伸びてきた。当然宗教、哲学の交流が、思想、人物ともにあったと推測する歴史学者もあるわけだ」
「あれだけの貿易が興隆した時代に、相互の影響は、当然あっただろうな」
「そのことと、いくぶん関係があるんだが、キリスト教の歴史のなかに、じつに意外な事件があるんだよ・・・むかしむかしインドのある国にキリスト教が大きらいな王様がいた。ところがヨサファットという名の王子が誕生した日に、星占い者が現われて、『この王子の名声は、この世でなく、天国で賞讃されるだろう』と予言した。王様は心配の余り、王子が王宮の外へは一歩も出られないようにして、歓楽のかぎりをつくさせたのだが、王子は偶然の機会に病人や死者を見てしまって、この世が、いかに苦難に満ちた、はかないものであるか、と煩悶する。そこへ、バルラームというキリスト教の隠者がたずねてきて、王子にイエスの教えを伝えて、洗礼をさずけてしまう。国王は、王子の心を変えさせるためにあらゆる手をつくすが、すべて矢敗して、結局、自身もキリスト教に帰依する。国王が死ぬと王子は一応あとをつぐが、すぐ退位して荒野に隠棲するバルラームをたずねて、あらためて弟子入りして、生涯そこで一緒にくらす。この二人が死んだ跡に建てられた寺院はこの国一ぱんの聖地として讃えられ、数かずの奇蹟が起こった、と、いまなお伝えられている・・・」
「釈迦の生涯に似てるな」
「この話ね、そもそもこのバルラームというのはサンスクリットで世尊(天の恵みを持つ、神聖な、尊敬すべき)の意味の Bhagavat (パガヴアツト) が訛ったものだし、ヨサファットは菩薩(さとりを求める者) Bodi-sattva (ボデイ-サットヴア)が訛ったものらしいんだよ」
「洗礼をさずけたキリスト教の隠者の名が世尊で、皇子の名が菩薩か・・・一体どこの国でできた話なんだ?」
「それが問題なんだよ。とにかく、この話は、十三世紀のなかばごろには、ヨーロッパのキリスト教の世界ではすでに疑う余地のない実話として、通用していたらしいんだ。その証拠には、その当時、イタリアのジェノヴァのヤコブス大司教が書いた『聖人伝集』に、この話がのっている。もっとも、この本にある〈聖人〉なるものの全員が、今日、正式に教会から認められているわけではないが、とにかくそれ以来、ローマンカトリックの世界では、この〈バルラームとヨサファットの両聖人〉の祝日は、11月27日ということになっているしグリークカトリックではヨサファットが単独に、8月26日に祝われる習慣が、ずっと長いことつづいていたのだ」
「いた? いまはないのか」
「それがね、十九世紀の後半に入ってから『これはまぎれもない、仏伝の焼き直しだ』という説をとなえる学者が現われて、大さわぎになった。そこで研究家たちが、『一体、どこから、こんな間違いが出てきたのか?』と、起源を探究しはじめた。その結果、ラテン語の〈聖人伝集〉のもとになった〈ギリシャ語のバルラームとヨサファットの物語〉は十一世紀ごろに、ギリシャのアトス山で書かれたもので、その前をたどると、九世紀以前にはアラビア語で書いてあった。そして、さらにその前は、ペルシア語、厳密にいうとパルチア王国やササン朝ペルシア帝国時代の古語をアラム(シリア)文字で書いたパフラヴィ語で書かれたものだったらしい・・・というところまでわかってきた・・・」
「ちょっと待ってくれ、きみさっき、『景浄の時代に、ペルシア語で書いた仏教の経典があった』と言ったね、それは、そのパフラヴィ語か?」
「もちろん、そうだ。元来、古代のペルシア語とインドのサンスクリットとは単語も発音も文法も、まったく同じと言っていいほど、似てるんだが、それを書きあらわす文字が、全然ちがうんだ。・・・サンスクリットは非常に正確な表音文字だが、一方、パフラヴィ語なるものは、古代ペルシア語の文章の一語一語を、わざわざアラム語(シリア語)の文字になおして書き綴って、しかもそれをペルシア語で読む・・・というやりかただった。つまり表音文字としてでなく、表意文字としてね」
「シリア語だって元来は、表音文字だろう? それを表意文字として、とはどういうことだ?」
注:紫門
表音文字と表意文字・・・
漢文はそのまま中国人が読める
日本人はそのまま訓読みで読み下せる
漢字は東洋のアラム語みたいなものです
アラム語は当時のシルクロード諸国であれば
意思の疎通ができる言葉であり
イエスはアラム語で教えを説いた
にも関わらず弟子たちは西欧へ布教し、
東方へ布教したのはトマスただひとりだった
バチカンはシリア教会を迫害した
「たとえば古代ペルシア語の hac(英語のfrom)をパフラヴィ語ではわざわざアラム語のMNと書くんだ。
本来、アラム語ではそれ(MN)を min と発音するのだが、古代ペルシァの知識人は『hac』と、ペルシァ語に翻訳しながら読むわけだ」
「なんだか日本語を漢字で書いていた表記方法に似ているな・・・それもとくに、古事記や万葉の・・・」
「うん、古事記の著者が、『ついにさけびなきてしににき』という日本語を、わざわざ『遂叫哭死也』と書いたようにね、もっとも、たいてい漢字自体が、表意文字だけれど。・・・とにかく、操作が非常に面倒だから、このパフラヴィ語をもっぱら使ったのは、ゾロアスター教の聖職者や、高級官僚のインテリたちだ。しかし東方シリア教会の聖職者も、エデッサからペルシア帝国内に亡命してきた当初、聖書などの翻訳は、パフラヴィ語で綴っている。それと同時に仏教の経典も、かなり早い時期から、パフラヴィ語で書かれていたらしいんだ」
「そうすると、パフラヴィ語の仏伝をよんで、それをキリスト者の聖人伝に翻案してさらにそれをシリア丈字を使ったパフラヴィ語で書きあけた人物・・・それはもちろんキリスト教徒、となれば、これはもう、東方シリア教会の聖職者にしぼられてきそうだな」
「それも、九世紀には、すでにアラピア語に訳されているのだから、大体八世紀以前の、ということになる」
「景教中国碑が建ったのが、八世紀末だったな? そうすると、菩薩と仏陀をキリスト教の聖人に仕立てなおした張本人はかの景浄だったかもしれないな」
「現に景浄が書いたと伝えられている、中国語の景教の経典では、イエスのことを、必ず〈世尊〉といっているんだ。だから例の物語の著者が、景浄だったかもしれないということは充分にありうるのだが、かりにそれが景浄でなかったとすると、キリスト教以外の宗教と、かなり自由に接触して、相互に啓発しあっていた人物が、景教ではむしろ景浄ひとりにかぎらない、ということが、証明されると思うんだ」
「その話を聞いて、思い出したことがあるよ!」
博士の上体が、グイと前へのり出した。
注:紫門
道教の老子は紀元前6世紀の人物です
お釈迦様(釈迦牟尼世尊)と同じ時代です
そしてバルラームもサンスクリット語で世尊
景教で世尊はイエス=ヨシュア
モーセ5書は本来はヨシュアの物語
『それは偶然の一致です』
「さっきの、いろは歌のつづきなんだがね・・・」
「とがなくて死す、ですか」
「いや、それよりも、そのいろは歌のもとの、仏教そのものが、キリスト教と関係があるっていう話だよ。さっきも言ったけれど、ぼくが学生のころ、牧野富太郎先生のお供をして植物採集旅行してたときね、植物名の由来を研究してる老僧がいて、その着眼が鋭いんだよね。その点が牧野先生も面白いと思ったらしいんだ。ところがこの坊さん、興がのってくると仏教の話になっちゃってね、そうなると、こっちは全然興昧がないんだ。たまに面白そうなところだけとびとびに憶えていたんだが、法華経だったよ、たしかに。なんでも、聖書とそっくりの文句が書いてあるっていうんだ。しかも、その老僧の親友だった男が、その問題をあくまで追究しようとして、本山からだか師匠からだか破門されたらしいんだな。結局、苦労したために若死したとも言っていたよ」
「その、そっくりの文句というのは、法華経の、従地涌出品のことじゃないのか?」
「そうなると、もうまるっきり憶えてないんだ。しかし法華経だったことはたしかだ。そのころでも、法華経っていう名前は知ってたから」
「それが従地涌出口品の話だとしたらね、釈迦が、法華経の教えについてくわしく説明したあげくに、弟子たちに向かって『自分の死後、この教えを、ひろく全宇宙にひろめてくれ』という。それをきいて、よその仏国土・・・地球以外の世界という想定だね・・・からきたおおぜいの菩薩たちが、『もしお許しがあれは自分たちが、この娑婆世界で法華経を宣布しましょう』という。すると釈迦は『自分の死後、この地球上で宣教する者は、前々から用意してある』と答える。そのとたんに、今までに一度も見かけたことのない無数の菩薩たちが、地下からぞくぞくと現われてくる。釈迦はその菩薩たちを指さして、『彼らこそ、この地球上の人びとに法華経の真髄を伝えるために大昔から特別に私が育ててきた者たちである』と紹介する。それまで、自分たちだけが仏弟子だと思っていた連中が、ビックリして釈迦にたずねる。『この菩薩たちはどう見てもお釈迦様がお生まれになるずっと前から、修行を重ねてきたとしか思えないような風格の人たちばかりなのに、この世でお教えをはじめられてから40年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩たちをお弟子だといわれるのは、まるで25歳の青年が、100歳の老人をわが子だというようなものではありませんか・・・』とね、・・・そこで釈迦は『私は40年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつは、数えきれない年月の以前から、仏陀なのだ』と答える。
ここが、如来寿量品といって、従地涌出品の菩薩の質間にすぐつづいている章で、『法華経のクライマックス』といわれる部分なのだ。・・・ところが、これとよく似た話が、ヨハネ福音書(8-57)に出てくるんだよ・・・」
「・・・『もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』とイエスがいう。それを聞いたユダヤ人たちが、『自分の教えを守る者は永遠の命を得られるなどと高言するあなたは、われわれの先祖のアブラハムよりも、えらいつもりなのか』とつめよる。するとイエスは、『あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見てよろこんだ』と答える。そこでユダヤ人たちはいよいよあきれて『あなたはまだ50歳にもならないのにアブラハムを見たのか』と嘲笑すると、イエスは平然として、『アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのだ』と宣言した・・・と、福音書には書いてある(ヨハネ8-51以下)・・・この、『自分はこの世の初めから存在するのだ』というのはイエスの、父なる神と一体であるという実体験であって、自分の言動は、父なる神の言動と同じなのだ。このことが理解できる者は永遠の命を得られるが、父と子が親子であると同時に完全に一身同体だということの意味がわからない者は永遠の命を得ることができないのだ・・・と、ユダヤ人の群集に向かって、イエスはくどくどと説明しているんだ(ヨハネ福音書八章参照)。
そこで、もう一度、福音書と法華経を比較してみるとだね、福音書では、『アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである』と言っているだけだが、法華経では『我、仏を得てよりこのかた、経たるところの諸(もろもろ)の劫数(こうしゅ)、無量百千万億載阿僧祇(無量の年月)なり。常に法を説いて無数億の衆生を教化して仏道に入らしむ』(妙法蓮華経如来寿量品)と言っている。
ところが釈迦の弟子たちにしてもユダヤ人たちにしても、現在、生き身の釈迦、生き身のイエスを目の前にして、その意味が、どうにも理解できなかった。
ユダヤ人たちは『あなたはまだ50歳にもならないのに・・・』と言うし、釈迦の弟子たちは『たとえぱ少壮の人、年始めて25なる云々』という。
・・・・・・これはたまたま表現が似ているだけじゃないんだ。両方を細かに調べていけばいくほど、言わんとしていることが、まったく同じだ、とわかってくる」
「はっきり重なりすぎるのが、かえって問題にするのをタブーにさせるんだな・・・しかしその意志はどんなところから出てくるものであるのか、だ・・・」
「この問題ではこの桃棲じいさんにもすくなからず強烈な思い出があるんだ。もう、50~60年前だけれども、その当時、法華経の研究では学僧の中でも指折りの大家で、・・・君も、きっと知ってる名前のはずだが、やっぱり誰というのははばかっておくよ・・・その大先生とたまたま個人的に会う機会があった。・・・そのとき、なにげなく日ごろの疑問を聞いてみたんだ。『法華経のなかに、福音書の文章と酷似しているところがありますが・・・』って、ところが、その先生、それまでじつに機嫌よく応待してくれていたのだが、その瞬間、ほとんど顔色が変わってね、ものすごい早口でどなったんだ。『それは偶然の一致です!』って・・・あの剣幕には驚いたよ。こっちは、わけがわからないままで恐縮しきって、それでもなんとか話題を換えることができたんだが・・・・・・あとになって考えても、どうにもふしぎなんだ。だってそうだろう?『似たところがありますね』と言っただけで、従地涌出品とも如来寿量品とも言ったわけじゃない、ヨハネと言ったわけでもないのに、どうして『それは偶然の一致です』と断定できるんだ?」
「そんなことがあったとしても、それは偶然の一致でしょう・・・という意味だったんじゃないんですか?」
「そうとしたら、なにも顔色を変えて、声をふるわせて、そんなセリフを、言う必要があると思うか?」
「さすが、もと演出家は、観察がちがうね、だが、たしかに、なにかあるな・・・」
「そうだろう? 『それは偶然』という以上、それがなんであるのかを、大先生は知っていたはずだ。しかも、偶然の一致にすぎない、と確信しているなら、にっこり笑ってその説明をしてくれれぱいいわけだ。なにも、いきなりどなることはない」
「そういえぱ、法華経の問題で破門された坊さんがあった、という話をぼくが聞いたのも、きみが偶然の一致ですってどなられたのも、大体同じころになるわけだな・・・」
「あら、それこそ偶然の一致でしょう」
「そうは言えないね、二人ともおなじ年で、そのとき、その問題に強い印象を持ったれぱこそ、それから何十年後の今夜、期せずしてその話題が、ここに出ているのだから。・・・それにしても中村君は専門の生物学に没頭していたから、そのあと長年、忘れていたけれども、こちらは、宗教とは何ぞや、が、いっときも頭を離れなかったものだから、ずっと印象が強烈なままだった、・・・それからというもの、よしそれなら、自分で調べてみよう! と決心してね、とりあえず法華経と、ヨハネによる福音書だけでなく、ついでにマタイ、マルコ、ルカの共観福音書もいっしょに、克明にくらべはじめた、というわけなんだ。・・・そうしたら、どうだ、とうてい、偶然の一致なんていって澄ましてはいられない問題が、続々と顔を見せてきたではないか・・・・・・」
殺し合いの中で、殺された方の少女がいまわのきわに
殺した少女の耳元で
「殺してくれてありがとう・・・」と言ったというのです。