その8、万世一系1300年の嘘と二つのヤマト(日本) | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

『旧唐書』

(十世紀成立)

 

 

 

『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。

そして、代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。

 

これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。

 

異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する。

 

大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、

壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、

結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。

 

 

 

 

 


 

原文に当たりましょう

まず、旧唐書の東夷伝の倭国条には・・・

 

倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 ~

 

『倭国は古の倭奴国なり』

倭国は「後漢書」の金印をもらった「倭奴国」の後継国であると言っていますね。

「倭奴国」は北九州の博多近辺の国であると推定されています。

 

 

 

 

 

次の日本国条が問題です・・・

 

 

日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地— 

 

 

 

 

読み下し文にしましょう・・・

 

「日本国は、倭国の別種なり。

其の国日辺に在るを以ての故に、日本を以て名となす。 

或いは曰く、

倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、と。

或 いは云ふ、

日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり」

 

 

前回の東北「邪馬台国」説を読んだ方には

ピンと来るものがあるでしょう😀

 

東北に縄文から続く原住民を主体とした国と

北九州を中心とする朝鮮半島まで含めた連合国があったと考えれば

全て説明できますね。

 

 

 

「日本国は、倭国の別種なり」

 

つまり、この国には「日本国」と「倭国」があったと言うことです。

 

そして「日本国」とは、

田村麻呂が「日本中央」と記した壺の碑の伝説のように

愛瀰詩の居住地、東北地方の国ではないかと思われるわけです。

 

ここで一つ気になりませんか?

 

「日本」を名乗る前はなんと名乗っていたのか?・・・です。

当然「野馬台(やまたい)」と思われます。

 

しかしこれは当て字です。

 

そして「台」は「朝廷」を意味するので・・・

「野馬台朝廷」とはなりません。

 

薩摩隼人(はやと)と言うように、

「野馬人(やまと)」と成って

「野馬人朝廷」・・・

または

「野馬都朝廷」・・・

あくまでも当て字としての「ヤマト朝廷」なんです。

 

なんにしても「ヤマト」と言う音韻は日本人の魂の象徴なんです。

本来漢字では表現できないもので、

紫門はそれを光を意味する「†」と推察したのです。

 

ですから天武天皇は富夲銭で象徴たる「夲(やまと)」を使った。

 

 

そして「日本」と言う国名に至ったとしてもやぶさかではないでしょう。

「日本」と言う国名の中に「†」が隠されています。

正確には「日夲(やまと)」なのです。

「夲」は略字化すると「太」となって「太陽」なんです。

光の象徴なんです。

ウルトラマンの故郷である「光の国」なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

其の国日辺に在るを以ての故に、日本を以て名となす。 

 

そのまんまですね。

「倭国」からみて日の登る方角にあるから「日本」と名乗ったと。

薄々皆さんもわかってきたと思いますが、

飛鳥から東が「日本」であった可能性が高いです。

故に天武天皇は東国の兵士を集めたわけです。

 

古事記にも日本書紀にも何故か「富士山」が一言も出てきません。

日本書紀が書かれた時点で

「富士山」は「倭国」では無かったと言うことです。

 

しかし飛鳥時代に、少なくとも関東地方まで

渡来人は定住していました。

そして渡来人は日本人に溶け込み、日本語を話し帰化しました。

この「帰化」と言う言葉に注意してください。

「帰り化けた」人々です。

彼らの先祖がこの国から旅立った人々である可能性は高いと思われます。

そして戻って来た大きな理由が

「†」にあると思われます。

それについては「双子のイエス」で記述したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして「倭国」とは北九州の太宰府を中心とした国で

近畿地方の飛鳥の地を「倭(ヤマト)」と日本書紀が書き記すように

飛鳥まで含めて「倭国」というイメージだったのではないかと思われるのです。

 

イメージの国とするのは、この島国を「倭国(わこく)」と呼んだり記述する人間は

中国人か半島人だと言うことです。

「倭(わ)」を「倭(やまと)」と呼んだ天智天皇は・・・

外国人であり、この国の名・・・音韻を盗んだのです。

 

 

 

応神天皇の代に秦氏が渡来して機織りの技術が伝播する前後から

この国は一大貿易国として繁栄し始めます。

そうなると全国の王の代表者である大王が諸外国との交渉に当たる必要性から

北九州と東北の中間地点である飛鳥に首都機能が移ります。

大規模な開墾が為されて水田が一面に広がり

余剰土はうず高く積まれて古墳となり、王家の墓となります。

人口も集中し、繁栄して都となります。

北九州から瀬戸内海を通って飛鳥の都へルートが出来上がります。

 

それ以前は日本海の循環する海流を使った貿易ルートがありました。

その時の国の入り口にあたる港が島根県の出雲であり、

若狭、富山などの港ではないかと考えます。

出発点は高句麗、新羅でしょう。

終着駅はもちろん「邪馬台国」です。

瀬戸内ルートが発展して出雲ルートが廃れます。

新羅に代わって百済が貿易の主導権を握ります。

 

 

 

 

そもそもヤマト朝廷は豪族の共和制であり、

その豪族は同じ神を氏神とする宗教的集団の代表でもあった。

だからこそ八百万の神をそれぞれが自由に祀り

それぞれを認め合い、共存関係を維持し得た。

 

大王は卑弥呼のように担ぎ上げられ

基本的に人民の福祉を守護する聖人として存在した。

平等、慈悲、徳、正しい考え、正しい判断を求められ

故に支持され、皆が従い、尊敬された。

 

 

つまり大王は聖人で在らねばならなかった。

その代表が聖徳太子です。

 

その共和制の中には、縄文人の現地住民系はもちろんのこと

渡来系帰化人も含まれていて、

最終的には「倭国」の中の半島人までも

そのヤマトの和の中に取り込もうとした・・・

 

半島の人間をも平等に扱った・・・

 

 

 

 

或いは曰く、

倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、と。

 

 

それが裏目に出て百済の王子がクーデターを起こした。

 

正義を捏造し、豪族を欺き、背乗りを完成させて

皇位継承者に成り済まし、

「倭(やまと)」朝廷を乗っ取り、

天智天皇となった。

 

『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、

怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。

藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される。

 

 

 

天武天皇が壬申の乱で「野馬都(やまと)」朝廷を奪い返し、

とっておきの「夲(やまと)」を使用して

「倭(やまと)」から「日夲(やまと)」と改字した。

 


 

しかし天武天皇の死後、持統天皇の時代、

干されていた藤原不比等が復権した。

持統天皇は百済の王子の娘であり

藤原不比等も百済の大臣の息子である。

 

持統天皇の産んだ皇子は天武の血筋であるけども

百済の血も半分継いでいる。

その子に皇位を継がせたいという持統の願いと

不比等の願いが一致した。

 

天武の血、つまり正統日本の王家の血を奉りながら

不比等の娘を嫁がせ、百済の血を濃くしていった。

 

と同時に藤原氏の専制政治を確立し、

日本の乗っ取りを完成させる遠大な計画である。

事実として、

天武の血筋はおよそ100年後の770年に称徳天皇で途絶える。

聖徳(しょうとく)太子から始まり称徳(しょうとく)天皇で正統日本は終わった。

(称徳天皇は道鏡を天皇にしようとした女帝です)

 

藤原氏は待ってましたとばかりに

天智天皇の孫の光仁天皇(62歳​​​​​​)を立てた。

光仁天皇(百済人)と高野新笠(百済人)から生まれた百済人の子が桓武天皇になる😀

その桓武天皇が東北蝦夷を目の敵にして征討軍を派遣した。

最後の正統派日本を潰してこそ、日本の乗っ取り完了です。

 

平安時代、百済人の藤原氏による摂関政治の始まりです。

紫門の古い読者は全てが繋がったことでしょう♪

 

 

 

 

 

日本一悲しい鬼退治の物語

 

 

 
 
 
 
 

 

その為にも奈良時代初期の不比等は大忙し!

藤原京を作って持統を囲い込み

歴史の改竄と搾取の律令に手を付けた。

万世一系と公地公民、

乙巳の変の正当性、その他もろもろ

 

701年大宝律令

702年遣唐使

 

この遣唐使で百済藤原倭国の使者が中国側に「日本国」を主張したらしい。

しかし説明が支離滅裂で中国側は不信感を抱いた。

それが冒頭の旧唐書に繋がるのです。

 


 

 

710年、平城京に遷都

これで都に藤原氏の敵は居なくなります。

持統天皇が重用した柿本人麻呂も処刑して、

歴史の改竄書である日本書紀の作成に本腰が入ります。

 

 

 

 

或 いは云ふ、

日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり」

 

 

 

京都、清水寺の石碑です。

蝦夷の軍事的リーダーであったアテルイ(阿弖流為)は、巣伏の戦いで紀古佐美(きのこさみ)軍を破るなど、

長年にわたりってヤマト政権と互角に対戦してきました。

しかし802年、征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦いの末、副将・モレ(母礼)とともに五百人余りの戦士を引き連れて降伏します。

助命嘆願が受け入れられず処刑

その後アテルイとモレは、平安京へと連れてこられます。

すると坂上田村麻呂は二人を蝦夷の地に戻し、彼らを中心として蝦夷たちを教化する策を進言します。

しかし朝廷側はそれを受け入れず、アテルイとモレを河内国の杣山(※)で斬首してしまいました。

 

【残酷】アテルイの処刑方法とは

朝廷によって処刑が下された阿弖流為と母礼は延暦21年(802年)8月13日に現在の大阪府東部にあたる河内国の

  • 植山
  • 椙山
  • 杜山

において処刑されたとされました。

しかし、このような地名は旧河内国には存在せず不明のままとなっています。

阿弖流為と母礼は「鋸引きの刑」と呼ばれる方法で処刑されたと考えられています。

この「鋸引きの刑」とは首から下の胴体を地中に埋め、地中から出た首を鋸(のこぎり)で切り落とすといった処刑方法で、江戸時代になるとこの「鋸引きの刑」は6種類の死刑の中で最も重い刑罰とされるようになります。

想像しただけでも非常に残酷な処刑方法だということが分かります。

 

 

 日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」です。その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した「袖中抄」に、『陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり、蝦夷征討の際に坂上田村麻呂が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである』という一説があります。それ以降、東北の歌枕として和歌の中に使われ、また幻の遺跡として考えられてきました。
 江戸時代には宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と目されていましたが、昭和24年に青森県東北町石文(いしぶみ)地域から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土されました。発見された場所が「石文」、また近くには「坪(つぼ)」と呼ばれる地域があることが「つぼのいしぶみ」という別名と一致するなどの根拠もあって、現在のところ最有力候補という位置付けをされています。

 

 しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央(達筆ではありません)」です。なぜこの碑が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのか。蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代です。さらに、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征しておらず、後任の征夷将軍、文室綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

旅を続けましょう・・・