その7、万世一系1300年の嘘と二つのヤマト(日本) | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

『その説がどんなに荒唐無稽に見えようとも、

それが事態を最も矛盾なく説明できるのであれば、

それが真実だ』鯨 統一郎

 

 

 

 

 

 

縄文時代は一般的に1万6000年前くらいから始まったと考えられています。

 

 

 

 

約7,300年前に生じた鬼界カルデラの一連の大噴火の際に、最後の大規模火砕流(幸屋火砕流)が推定時速300km位の高速で海上を走り、大隅半島や薩摩半島にまで上陸しました(下図左)。その時のアカホヤと呼ばれる火山灰は東北地方まで達しました(下図右)。

 

 

 

上図を見て分かるように東北以外は壊滅的な状況と考えられます。

南九州では火山灰の影響により約600年間は照葉樹林が復活しなかったと言われています。

2〜3年の不作で餓死者が出るのですから

日本全国に居た縄文人は東北へ逃げるか海外へ逃げるかしたでしょう。

この時、大陸へ渡った縄文人が世界各地の文明に関与した可能性は高いと思われます。

 

 

 

 

 

未曾有の災害によって

一気に人口が集中した東北では、

限られた資源の中で、

人々が生き延びるためのルールが確立されたと思われます。

獲り尽くさない、刈り尽くさない

自然を畏怖しながらも

自然と共存する生き方であり

荒ぶる神を鎮め、神の恵みに感謝する生き方・・・

 

日本人らしさは縄文時代に育まれたと思います。

 

そして災害を生き延びた人々は

大地の復活再生と共に、

何百年も掛けて

徐々に全国へ戻って行った。

 

お宮という名の校倉造りの食料倉庫と共に・・・

後の神社です。

伊勢神宮のような形の建築でしょう

 

 

あぜくらづくり【校倉造り】

柱を用いず、木材を井桁(いげた)に組み上げて壁とした構造の建物。 日本では弥生時代ごろから倉庫などに用いられた。 奈良時代に建てられた東大寺正倉院は、現存する代表的な建物。 同じような工法は、中国・北欧・ロシアなど木材の豊富な地域でみられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、本日の本題です・・・

 

 

邪馬台国はどこですか?

 

 

邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫) 文庫 – 1998/5/24

 

 

収録作品

「悟りを開いたのはいつですか?」

「邪馬台国はどこですか?」

「聖徳太子はだれですか?」

「謀叛の動機はなんですか?」

「維新が起きたのはなぜですか?」

「奇蹟はどのようになされたのですか?」

 

 

この本をご紹介するのは2回目ですね。

鯨 統一郎氏のデビュー作で短編集ですが、

どの説も目から鱗の力作ばかりなのでお勧めします。

今回は「邪馬台国はどこですか?」です。

 

三世紀半ば(西暦二五○年頃)、日本には邪馬台国と称する女王国があった。当時の日本には歴史書がなかったから、邪馬台国の存在を証明するものは、中国の『魏志倭人伝』しかない。三世紀の北部中国を制していた魏の正史を魏史というが、その中に日本の様子を詳しく記した箇所がある。それが『魏志倭人伝』である。字数にして二千あまり。『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国までの距離と方角が記されている。距離と方角が記されていればその場所も判りそうなものだが、『魏志倭人伝』の中の距離と方角を正確に再現すると、邪馬台国の所在地は太平洋上になってしまう。つまり、距離と方角のいずれか(あるいは両方)がまちがっているわけである。大まかにいえば、距離がまちがっていると考える学者(主に東大系)は比定地を九州とし、方角がまちがっていると考える学者(主に京大系)は、比定地を畿内とする。

 

 

 

日本最古の日本地図に行基図があります。

前に朝廷に反逆し続けた僧として紹介した行基です。

 

 

 

 

中世以降日本で作られていた「行基図」と呼ばれる種類の日本地図は室町時代以降、中国や朝鮮へと伝わっていきました。

中国や朝鮮では、当時拡大していた倭寇(東アジアで活動していた日本人を中心とする海賊)への脅威から日本への関心が高まり、こうした行基図を参考にした日本図が作られるようになりました。

 

地図と言えば北を上に向けたものが一般的ですが、行基図では北が上になっているものはほとんど見られません。

むしろ行基図の多くは南を上に向けられており、掛け軸用に縦長に描かれたものに関しては東または西向きになっています。

 

 

 

 

 

混一疆理歴代国都之図(1402年・朝鮮)

1402年に李氏朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図」はいくつかの版が残っており、それぞれ向きの異なる日本が描かれています。

 

本光寺所蔵のものは日本が右に90度回転しています。

 

混一疆理歴代国都之図(本光寺蔵)

このような向きになっているのは、日本を描く際に西が上になった行基図を参考にしたからではないかと考えられています。

 

 

 

 

時代が前後してしまいますが・・・

魏志倭人伝の時代の地図も、

このように日本がひっくり返った地図を参考に

書かれていたとしたら・・・

 

 

 

「仮に『魏志倭人伝』の方角表記が誤りだとして、一里を四百メートルと想定してみると、邪馬台国の所在地は東北地方になってしまうではないか!」

 

 

 

 

「八戸市の風張遺跡で、縄文後期の竪穴式住居の中から米が七粒出土してる」

 

「それがどうしたの?」

 

「カナダのトロント大学で分析したら、三千年前の米にまちがいないという結果が出た」

 

今まで日本で発見された最古の米は二千五百年前のものとされている。

 

「つまり、日本最古の米は東北にあったわけだ」

 

 

「江戸時代に新井白石が大和説、本居宣長が九州説を唱えて以来、三百年間、学者たちが大和説、九州説を証明しようと躍起になってきた」

 

「その通りよ」

 

「でも証明できない。おそらく巨大であろう卑弥呼の墓が、限られたふたつの地域で三百年にもわたって発見できない。それはなぜだ?」

 

 

「たとえば前方後円墳だが、山形で二、三年前まで三例しかなかったものが、最近一挙に三十一例も発掘された」

 

「これからどんどん増えるでしょうね。卑弥呼の墓が東北で発見されるのも時間の問題だ」

 

 

 

まあ、細かい解説は本を買ってください😀

 

紫門は邪馬壹国が東北にあったと仮定すると、

自説が矛盾無く繋がるので

邪馬壹=八幡平を信じて何度も東北を旅しています。

笑み人=愛瀰詩=蝦夷の国を旅します。

アまテルイ王の国を旅します。

日本中央の国を旅します。

 

 

 

日本はかつて男王が治めていて、

王が死んで100余国に別れ争っていたが、

紀元250年頃、東北の邪馬壹国に卑弥呼女王が立ち、それを治めた。

卑弥呼の鬼道とは星占いだったとして、

その星占いが非常に科学的なものだったとしたら・・・

梅の開花も

桜の開花も

春一番の嵐も

五月晴れも

梅雨も

台風も

予測可能だったとしたら・・・

 

 

 

卑弥呼は人前に姿を表さない

夜中に星を観測していたから?

 

 

 

邪馬台は卑字です。

本来はきっと八幡台か野馬台だと思われます。

台は朝廷の意味です。

八幡=YAHWEHの朝廷です。

または野生の馬の朝廷です。

 

 

中国に張り合って台の字を使います。

八幡朝廷の国で邪馬台国

都であれば八幡都、または野馬都となります。

騎馬民族の都なのです。

 

 

 

東北愛瀰詩が騎馬民族であることと

東北日本(ヤマト)は日本史のタブーです。

もしかすると世界史のタブーです。

 


 

 

 

夜もふけました

今夜はこれくらいで・・・

 

 

 

 

 

旅を続けましょう