大阪生まれの駆逐艦「朝霜」・沖縄特攻に散る | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

先週のブログで、大阪・木津川河口にあった藤永田造船所の跡地を見てきたことを書きました。(藤永田造船所跡地の今と往時を偲ばせるもの

 

この造船所は「駆逐艦の藤永田」と呼ばれ、多数の駆逐艦を建造した実績がありました。

【二等駆逐艦】

   「樅」型:「藤」「蕨」「蓼」

   「若竹」型:「芙蓉」「刈萱」

【一等駆逐艦】

   「睦月」型:「皐月」「文月」「夕月」

   「吹雪」型:「白雲」「叢雲」「綾波」「曙」「電」

   「白露」型:「村雨」「江風」

   「朝潮」型:「満潮」「山雲」「峯雲」

   「陽炎」型:「黒潮」「夏潮」「浦風」「谷風」「舞風」

   「夕雲」型:「巻波」「長波」「大波」「玉波」「藤波」「朝霜」「秋霜」

   「松」「橘」型:「梅」「桑」「杉」「樫」「楢」「柳」「樺」「桂(未成)」

【水雷艇】

   「千鳥」型:「真鶴」「初雁」

 

この中で、昭和20年4月6日、戦艦「大和」と共に沖縄へ向けて出撃した駆逐艦の名がありました。

今回はこの一等駆逐艦「朝霜」を取り上げてみます。

 

駆逐艦「朝霜」は、「夕雲」型一等駆逐艦の16番艦として昭和18年1月に藤永田造船所で起工され、同年7月に進水、同年11月に就役しています。

【要目】

 基準排水量:2,077トン、水線長:117.00m、最大幅:10.80m、吃水:3.76m
 機関:艦本式ギヤードタービン機関×2、推進軸:2軸

 主缶:ロ号艦本式水管缶×3
 出力:52,000馬力、速力:35ノット、乗員:225名
 兵装:12.7cm50口径連装砲×3、25mm3連装機銃×4、25mm連装機銃×1、

    25mm単装機銃×7、2号2型電波探信儀×1、1号3型電波探信儀×1、

    61cm4連装魚雷発射管×2

   ※兵装は「あ」号作戦後の兵装状況より

 ※引用:「日本駆逐艦物語」福井静夫、1993年1月、光人社、P.281、304-305

 

一等駆逐艦「朝霜」(引用:Wikipedia)

(Shizuo Fukui - Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, 

p. 113, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5712708による)

 

「秋霜」は、訓練後昭和19年2月に第二水雷戦隊・第31駆逐隊に編入され船団護衛任務に従事します。

昭和19年2月29日には、広島・宇品からサイパンに向けた「松輸送」船団を護衛し、沖縄東方沖で輸送船「崎戸丸」を失ったものの、米国海軍潜水艦「トラウト(SS-202)」を爆雷攻撃で撃沈しています。

 

米国海軍潜水艦「トラウト(SS-202)」(引用:Wikipedia)

(US Government - http://www.oneternalpatrol.com/uss-trout-202.htm, パブリック・ドメイン,

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6588421による)

 

昭和19年6月のマリアナ沖海戦では、航空母艦「千歳」「千代田」「瑞鳳」を核とした丙部隊の一員として参加しました。

 

昭和19年10月の捷一号作戦では、栗田艦隊に所属しシブヤン海を目指しますが、途中で雷撃を受けた一等巡洋艦「高雄」の護衛を命じられ離脱しています。

続いて行われた多号作戦、礼号作戦、北号作戦などの南方方面からの輸送作戦に参加し、他の「夕雲」型一等駆逐艦が戦没していく中で、「朝霜」は大きな損傷もなく生き延びます。

 

そして昭和20年4月6日、「朝霜」は戦艦「大和」を旗艦とし徳山沖から沖縄へ向かう艦隊に加わり出撃します。

しかし、翌4月7日の早朝に巡航速力22ノットで航行中、「朝霜」は機関故障を起こして速力12ノットしか出なくなり落伍していきます。

この機関故障は、クラッチ故障にあったとではないかと言われています。

 

「朝霜」は応急修理を実施するものの復旧せず、4月7日の正午過ぎに『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶えてしまいました。

 

米国海軍の記録によると、空母「バンカー・ヒル」のSB2C ヘルダイバー10機が奄美大島近海を北上し「朝霜」を発見、「朝霜」至近弾数発と、煙突の間・二番煙突後方・艦尾部に命中弾3発を受け、艦後部(3番主砲付近)に爆発が起きたあと後部に傾斜したとされています。

 

奄美大島近海で空襲を受ける「朝霜」(引用:Wikipedia)

(US Navy - US Navy archive via battleshipyamato.com, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12867317による)

 

「朝霜」の沈没は現任されていませんが、消息不明により乗員326名全員が戦死認定され、「朝霜」は「夕雲」型一等駆逐艦19隻の最後の喪失艦となりました。

 

「朝霜」の慰霊碑は、静岡県三島市の妙法華寺に建立されています。

 

静岡県三島市の妙法華寺に建立されている「駆逐艦朝霜戦没者之碑」(左端)

(引用:Wikipedia)

(C2revenge - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86730097による)

 

79年前の本日・昭和20年6月23日は、沖縄戦における帝国陸海軍の組織的な戦闘が集結した日にあたり、慰霊式も執り行われています。

 

今回は大阪・木津川口の藤永田造船所で生まれ、沖縄戦に関係のある駆逐艦を取り上げてみました。

 

沖縄戦により犠牲になられた10万人と言われる民間人の方々、沖縄で散った帝国陸海軍の兵士10万人弱の方々、そして連合軍の2万人余りの方々など、すべての犠牲者の方への哀悼の誠を捧げ、今回のブログを終わります。

 

「朝霜」の故郷・「藤永田造船所跡地」の碑

 

 

【参考文献】

  Wikipedia および