無条件降伏後の悲劇・電纜敷設船「小笠原丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は天気が良かったので、大阪・堺市と高石市に跨る府営の「浜寺公園」に散歩のために行ってきました。

 

この公園の南端近くには、日露戦争当時の捕虜収容所である「浜寺俘虜収容所」が設置されてたこともあり、その歴史を刻んだ「日露友好の像」が設置されています。

 

浜寺公園の「日露友好の像」

 

この像の説明版には「内閣総理大臣 小泉純一郎」と「ロシア連邦大統領 V.Vプーチン」と、また裏側には「平成14年(2002年)5月11日」と記されています。

 

今から22年前、小泉氏の後、安倍氏、福田氏、麻生氏、鳩山氏、菅氏、野田氏、安倍氏、菅氏、岸田氏と9回変わり8名が名を連ねます。

これに対して、ロシア連邦は、2008年から2012年の間メドベージェフ氏が就いた以外は、プーチン氏がずっと君臨しています(メドベージェフ氏が大統領の期間、プーチン氏は首相)。

この像が設置された頃には日露の関係は比較的友好的で、西側に近寄っていった隣国のウクライナとの戦争を始めるような状況になるとは想像もできませんでした。

 

大東亜戦争において、日本国のポツダム宣言受諾後にもかかわらず、ソ連軍の侵攻により犠牲となった船舶が複数存在します。

そのなかの1隻、「小笠原丸」を取り上げてみたいと思います。

 

「小笠原丸」は、日米通信業務協定の締結に伴う東京-小笠原間の敷設工事のため、逓信省が建造を計画した電纜(ケーブル)敷設船で、三菱長崎造船所で明治38年6月に起工され、約39年6月に進水、同年8月に竣工しています。

 総トン数:1,456トン、垂線間長:74.1m、幅:10.4m、深さ:6.78m 

 機関:三連成レシプロ機関×2、主缶:ベルビール缶×1,円缶×2

 出力:1,789馬力、最高速力:13.08ノット

 ※引用:本邦建造船要目表(1868-1945)」日本船用機関学会、

     船用機関調査研究委員会、1976年5月、海文堂、P.68-69

 

逓信省・電纜敷設船「小笠原丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - 小笠原丸 - NTT WE, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24654577による)

 

船名は、当時当時小笠原への海底線が敷設中であったことから命名されました。

また船の設計は、明治29年に英国で建造された電纜敷設船「沖縄丸」を小型化し、浅吃水で小回りの利く船体構造を持ち、瀬戸内海や日本周辺の沿岸作業を考慮したものでした。


日本初の国産電纜敷設船として竣工した「小笠原丸」は、当初の目的通り海底ケーブルの新規敷設や修理に従事します。

 

特異な形状の船首を持つ「小笠原丸」

(引用:HP「NTTワールドエンジニアリングマリン / 日本の海底ケーブル敷設船の歴史」)

 

明治43年6月4日には、長崎県の池島付近で遭難した露国の船を救助し、乗船していたシャム王族一行および乗員100名を救出しています。

 

大東亜戦争開戦後は、軍の管理下で引き続き海底ケーブルの敷設と保守に従事しています。

昭和20年2月16日には、下田港内で米国海軍航空母艦の艦載機の銃撃により損傷しましたが、比較的軽い損傷であり、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事し、昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾を稚内港で迎えます。

 

「小笠原丸」は、樺太所在の逓信局長から逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し樺太・大泊港へ向いますが、現地ではソ連軍の地上進行による樺太の戦いが続いており、混乱状態にありました。

 

かつての大泊港駅と大泊港に停泊する「亜庭丸」

(撮影者不詳 - http://gazo.library.city.sapporo.jp/shiryouDetail/shiryouDetail.php?listId=1&recId=101974&pageId=1&thumPageNo=1, パブリック・ドメイン,

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=82595147による)

 

昭和20年8月20日、23時45分に「小笠原丸」は疎開者1,514名を乗せ大泊港を出港します。

そして、翌21日11時に稚内港に到着、そこで878名が下船し、代わりに6名が乗船します。

稚内港では、日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがありましたが、そのまま乗船していれば小樽まで行けるため降りようとしない方も多く、「小笠原丸」は乗員・疎開者等計702名を載せて、小樽港経由で秋田県の船川港へ向かうため8月21日16時に稚内港を出港します。

 

ところが、翌22日4時20分頃、「小笠原丸」は増毛沖5海里にて沈没してしまいます。

 

沈没の原因となったのは、ソ連海軍の「L-12」とみられる潜水艦による雷撃で、「小笠原丸」沈没後には、潜水艦は浮上し波間に漂う人々に機銃掃射を加えたともされています。

この「小笠原丸」撃沈の様子は、留萌防空監視哨から望遠鏡で目撃されたといわれます。

 

ソ連海軍・潜水艦「L-12」と同型艦の「L-8」(引用:Wikipedia:ロシア語版)

(Авторство: неизвестно. http://www.town.ural.ru/ship/ship/l8.php3, Общественное достояние, 

https://ru.wikipedia.org/w/index.php?curid=5970125)

 

「小笠原丸」の撃沈により、乗員乗客641名がが犠牲となり、生存者は61名(62名との説もあり)、収容された遺体は468体とされています。

 

また、後に大相撲で横綱となった大鵬は、この「小笠原丸」に乗船し、稚内で下船したことか

ら難を逃れています。

 

「小笠原丸」の沈没と同じ昭和20年8月22日の5時13分頃、同様に引揚者を乗せた特設砲艦「第二号新興丸」(2,577総トン)が、同じく「L-19」とみられるソ連海軍の潜水艦により雷撃を受け大破し留萌港へ退避しました。

この雷撃により死者・行方不明者約400名が犠牲となっています。

 

特設砲艦「第二号新興丸」

(引用:「丸スペシャル 日本の砲艦」No.45、1980年11月、潮書房、P.61)

 

さらに、同日の9時52分に東亜海運所属の2E型戦時標準船「泰東丸」が、同じく「L-19」とみられる潜水艦から砲撃を受け、約20分後に機関部への命中弾により撃沈され、乗員乗客約780名中667名が犠牲となっています。


これら3船の遭難は「三船殉難事件」と呼ばれ、増毛町の「道の駅 おびら鰊番屋」の向かいに「三船遭難慰霊之碑」が設置されています。

 

「三船遭難慰霊之碑」(引用:Googleストリート・ビュー)

 

昭和26年に、増毛町の雑貨商・村上高徳氏の呼び掛けにより、約2年かけて海底の遺骨収集が行われます。

この収集は、村上高徳氏の私財持出しと地元民の協力からの捻出された資金により行われたものの、作業できる季節が限定され、海流が早く時化が多い海域から長い期間を擁し、最終的には314柱(計上の数根拠は不明)が見つかったとされています。

しかし、行政援助は無く寄付援助金も乏かったことから、出資元の村上氏は破産寸前まで追い込まれたそうです。

 

増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」が建てられており、毎年8月22日に町民により慰霊祭が行われています。

 

「小笠原丸殉難碑」(引用:Wikipedia)

(禁樹なずな - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52291401による)

 

ソ連は、大東亜戦争において「漁夫の利」を得るべく昭和20年8月9日になって日ソ中立条約を破棄し対日戦に参戦、日本が無条件降伏した8月15日以降も進行を進め、同年9月4日までの間に満洲・樺太・千島列島において凄惨で一方的な侵攻を行いました。

多数の日本人(当時・日本人であった朝鮮・台湾等の人民も含む)の犠牲を出し、57万人がシベリア抑留され7万人が犠牲となる悲劇が起きています。

 

ロシア革命後のソ連は、シベリア出兵時の尼港事件から、1920年代から50年代にかけてのスターリンの大粛清(犠牲者786,098名)、を第二次政界大戦時のカティンの森事件などの凄惨な事件が多々発生しており、その中のひとつとして、大東亜戦争末期から降伏後の一連の日本・台湾領土への侵攻も含まれます。

 

ロシア連邦は、今も昔も「危険な国家」であることは変わらず、国内・国外に関わらずその振舞いから多数の犠牲者を出し続けています。

「小笠原丸」の撃沈は、その象徴的な事件のひとつと言えると思います。

日露戦争終結翌年に竣工し船齢40年を経たベテラン「小笠原丸」、そして終戦前後のソ連の侵攻、シベリ抑留により犠牲になられたすべての方々に哀悼の誠を捧げ、今回のブログを終わります。

 

船尾側から見た「小笠原丸」

(引用:HP「NTTワールドエンジニアリングマリン / 日本の海底ケーブル敷設船の歴史」)

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

「丸スペシャル 日本の砲艦」No.45、1980年11月、潮書房

 

【Web】

 HP「NTTワールドエンジニアリングマリン」

 

 HP「増毛町」