昨日は、奥様が風邪を引いたようで、代わりに家事を色々としてたら時間が無くなり、ブログまでたどり着けませんでした。
今日は、具合がよくなったようで、友人と会うために難波までお出かけされてます。
このため、朝から少々家事をした後、買い出しへ。
帰りに近所の小学校の桜が満開でした。
小学校の桜
79年前の4月7日、14時23分に鹿児島県・宇治群島宇治向島西方144kmの地点で第二艦隊の旗艦・戦艦「大和」が沈没した日になります。(昭和20年4月7日・戦艦「大和」最期の日)
この時の「坊ノ岬沖海戦」では、第二艦隊では、戦艦「大和」とともに二等巡洋艦「矢矧」、一等駆逐艦「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」が沈没し、戦死者3,721名、戦傷者459名を数えました。
昭和20年4月7日・空襲を受け艦後部が炎上している戦艦「大和」
(引用:Wikipedia)
(U.S. Navy photo L42-09.06.05, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44651による)
また、この時期には鹿児島県の知覧、鹿屋及び万世から帝国陸軍の特別攻撃隊が、日々沖縄に向けて旅立っていました。
うち、未帰還となった方の名簿が「新編・知覧特別攻撃隊」という書籍に記載されています。
第二二振武隊 大上 弘 大尉 21歳
第二九振武隊 中村 實 大尉 20歳
第四四振武隊 甲斐 玉樹 大尉 23歳
清水 定 少尉 20歳
第四六振武隊 小山 勝實 大尉 21歳
渡辺 博 少尉 20歳
伊原 佐源次少尉 20歳
古川 榮輔 少尉 20歳
堀越 進 少尉 19歳
第七四振武隊 伊藤 實 中佐 25歳
渡辺 信 少尉 23歳
大畠 寛 少尉 20歳
川島 清 少尉 18歳
川島 宏 少尉 18歳
澤口 一男 少尉 19歳
安井 昭一 少尉 19歳
第七五振武隊 大岩 覚 少佐 25歳
宗像 芳郎 少尉 21歳
佐藤 徳司 少尉 19歳
第七五武振隊 福島 保夫 少尉 18歳
司偵武振隊 竹中 隆雄 少佐 22歳
吉原 重發 少尉 22歳
※引用:「新編・知覧特別攻撃隊」高岡修、2010年3月、シャブラン、P118-119
彼らは、一式戦闘機「隼」、九九式襲撃機、一〇〇式司令部偵察機に搭乗し、戦艦「大和」の第二艦隊を追い越して沖縄へ向かっていきました。
私も10年ほど前に一度「知覧特攻平和会館」を訪れたことがあり、写真に写る彼らの「若さ」に言葉も出ませんでした。
昭和20年4月12日・出撃する第二〇振武隊穴澤利夫少尉と
それを見送る知覧高等女学校生徒(引用:Wikipedia)
(Hayakawa (早川) - 1. originally:「毎日グラフ」1965年11月25日臨時増刊号
〜続日本の戦歴 米軍が押収した戦場写真集/8月5日の連合艦隊 , 2. Mainichi.jp [1], パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1129010による)
この一連の特別攻撃は、沖縄戦を支援する「菊水作戦」のうち「一号作戦」と呼ばれ、昭和20年4月6日正午には帝国海軍215機、陸軍82機が九州と台湾の航空基地を飛び立ちます。
帝国海軍の第一制空隊30機が囮となり、また帝国陸軍の司令部偵察機が東シナ海上にチャフ(レーダーによる探知を妨害するもの)を散布して米国軍の防空網の目を引き付け、特別攻撃を支援し、4月7日の未明から夕方にかけて沖縄周辺の米国海軍艦艇に体当たり攻撃を仕掛けました。
この日の未帰還機は帝国海軍162機、帝国陸軍50機に及び、341名が戦死しています。
また、海上から特別攻撃隊である戦艦「大和」以下の第二艦隊の出撃を知らされた帝国陸軍航空隊は、4月7日の12時から14時にかけて第一〇〇飛行団を主力とする四式戦闘機「疾風」41機を投入し空戦闘を実施し、10機が未帰還となっています。
帝国陸海軍の空からの特別攻撃は、4月8日から11日にかけて断続的に続けられ、その間に延べ200機余りの特別攻撃機が出撃、約100機が未帰還となり多くの若者の命が失われました。
昭和20年4月7日・鹿屋基地から出撃した建武隊所属の爆装零戦と見られる機の
体当たりを受け炎上する米国海軍航空母艦「ハンコック(CV-19)」(引用:Wikipedia)
(USN - U.S. Navy photo [1] from the USS Massachusetts (BB-59)
World War II cruise book available at Navysite.de, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25362636による)
その後も空からの特別攻撃作戦である「菊水作戦」は続きます。
菊水二号作戦:4月12日~15日 喪失機数:帝国海軍230機、帝国陸軍125機
菊水三号作戦:4月16日~17日 帝国海軍125機、帝国陸軍 60機
菊水四号作戦:4月21日~29日 帝国海軍120機、帝国陸軍 45機
菊水五号作戦:5月3日~ 9日 帝国海軍 65機、帝国陸軍 50機
菊水六号作戦:5月11日~14日 帝国海軍 75機、帝国陸軍 50機
菊水七号作戦:5月24日~27日 帝国海軍 35機、帝国陸軍100機
菊水八号作戦:5月28日~29日 帝国海軍 60機、帝国陸軍 50機
菊水九号作戦:6月3日~ 7日 帝国海軍 20機、帝国陸軍 55機
菊水十号作戦:6月21日~22日 帝国海軍 30機、帝国陸軍 15機
※引用:Wikipedia
昭和20年6月23日の沖縄戦の実質的な終結により「菊水作戦」は終了し、その後は本土決戦に向け戦力を温存していたものの、沖縄周辺や日本本土近海に接近する連合軍艦艇に対して、散発的に特別攻撃や通常航空攻撃が行われ、終戦まで続きます。
これらの喪失機には、当然のことながら「搭乗員」がいました。
彼らのうち若い方では、現在では「高校生」の年齢に当たります。
「特攻」をテーマとした映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」が昨年末に公開されました。
私は映画は見ていませんが、最近、汐見夏衛氏の原作本を読みました。
現代の女子高生が昭和20年6月にタイムスリップし、特別攻撃隊の兵士と知り合うもので、その内容はかなりソフトで読みやすいものですが、若い方にこの「史実」に少しでも関心を持ってもらうには、良いきっかけになるのではないかと思います。
※続編の「あの星が降る丘で、君とまた出会えたら。」もあります。
そういえば、「ゴジラ -1.0」も特別攻撃隊に関する映画でしたね。
当時の資料実物だけではなく、小説・映画等どんな形であれ約80年前の「史実」として、当時の日本に住む家族を守るために出撃していった特別攻撃隊の若者達について、語り継がれて欲しいと思います。
鹿児島・知覧特攻平和会館の前庭に展示されている
帝国陸軍・一式戦闘機「隼」のレプリカ
【参考文献】
Wikipedia および