日露戦争・旅順攻囲戦と帝国陸軍大将「乃木希典」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は帝国陸軍、旅順攻囲戦について簡単に書いてみたいと思います。

少々長編になりますし、昭和55年に上映された仲代達也氏主演の映画「二百三高地」でも取り上げられたものですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

日露戦争開戦前、露国は満洲(現在の中国東北部)遼東半島の旅順に露国陸軍の要塞を構えるとともに海軍基地も設置し、日本海から大陸方面への拠点としていました。

 

対して帝国陸海軍は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満洲との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠で、また旅順要塞の露国陸軍勢力は、満洲南部で予想される決戦に挑む帝国陸軍の背後、および補給にとって不可欠な大連港に対する脅威となっていました。

 

第3軍の旅順への前進を示した地図(引用:Wikipedia)

(海軍軍令部 - 明治三十七八年海戦史 第二巻, パブリック・ドメイン,

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2130639による)

 

明治37年2月の日露戦争開戦後、帝国海軍は同年3月に2回にわたる旅順港閉塞作戦(船舶を湾口に自沈させ港を塞ぐ作戦)を実行しました。

しかし、いずれも不成功に終わり、旅順港の露国艦隊は脅威となり続けました。

 

第2次閉塞作戦を描いたイラスト(引用:Wikipedia)

(loki11 - Le Patriote Illustré, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8004976による)

 

帝国海軍は、明治37年5月に三回目の閉塞作戦が実施しましたが再び不成功に終わったことから、帝国海軍は旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を投入した直接封鎖を行いますが、戦艦「八島」「初瀬」を触雷で失うなど、大きな損害を出してしまいます。

 

戦艦「初瀬」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=775078)

 

更に露国海軍バルチック艦隊の東洋遠征が決定されると、旅順の艦隊と合流することになれば帝国海軍の戦力を大きく凌駕する露国の大艦隊が構成され、大きな脅威となります。

 

これに対し、帝国陸軍は司令官に乃木希典大将を置く第三軍を組織し、満洲南部へ進軍中の第一師団(東京)と第十一師団(香川・善通寺)を編入し明治37年6月8日に大連に到着します。また、明治37年6月20日には満洲軍(総司令部)が設置され、その指揮下に入った第三軍は、速やかに要塞を陥落させ兵力を保全したままその後に第一・二軍に合流し満洲南部の戦闘に加わる任務を受けます。

 

なお、乃木大将が日本を発つ直前の明治37年5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死しています。

 

後に第九師団(金沢)も加わり、明治37年7月26日に旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始、3日間続いた戦闘で帝国軍2,800名、露国軍1,500名の死傷者を出し、30日に露国軍は旅順市街東側に築いていた大孤山陣地から撤退します。

 

第三軍(参加兵力51,000名、火砲380門)は、明治37年8月18日深夜に露国軍陣地の射程圏ぎりぎりまで接近、翌8月19日に早朝より攻撃をはじめ、やがて本格的な攻撃を実施します。

この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となりました。

 

結果、露国軍ではこの砲撃で北側および東側の陣地(松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台)に大損害を被り、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊されるなど、第三軍は優勢のまま21日に総攻撃を開始します。

 

攻撃準備中の帝国陸軍部隊(引用:Wikipedia)

(P. F. Collier & Son - Russo-Japanese War: A Photographic and Descriptive Review of the Great Conflict 

in the Far East, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2390613による)

 

しかし、情報を事前に察知していた露国陸軍のステッセル中将は、準備を整えていた露国軍により帝国軍への反撃を行い、帝国軍の各隊は死傷者が続出したことから、乃木大将は8月24日に総攻撃の中止を指示しました。

 

戦死した帝国軍の兵士と塹壕を越える露国軍の兵士(引用:Wikipedia・ロシア語版)

(Авторство: Underwood & Underwood, Inc.. Это изображение из Библиотеки Конгресса США, 

отдел эстампов и фотографий (Prints and Photographs division), имеет цифровой идентификатор

 (digital ID) ppmsca.07944.Этот шаблон не указывает на правовой статус данной работы. 

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Общественное достояние, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=735721)

 

第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で、帝国軍は戦死5,017名、負傷10,843名というほぼ一個師団分の大損害を蒙り、対する露国軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名という結果に終わりました。

 

第一回総攻撃の結果を受け、乃木大将は要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う正攻法の攻略作戦に切り替えます。

 

明治37年9月15日、第三軍は塹壕の建設に目途が立ち兵員・弾薬も補充できたことから、部分的攻撃を19日に開始するよう下令します。今回は第一師団、第九師団が攻撃を担当し、第十一師団は前面の敵の牽制を担うこととなりました。

 

各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開しますが、敵に近付くにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞します。

それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築が9月18日に完了したことから、第三軍は再度の総攻撃を計画し、9月24日より実行に移します。

 

また、この時期から帝国陸軍は東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた旧式の対艦攻撃用だった28センチ榴弾砲が戦線に投入されることになり、明治37年10月1日から旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始し、湾内の艦船に命中弾を与え損害を与えることに成功します。

また、この砲は要塞攻撃にも効果ありと判断し砲を増やしていき、最終的に18門が投入されました。

 

帝国陸軍が旅順攻囲戦に投入した28センチ榴弾砲(引用:Wikipedia・ロシア語版)

(Авторство: Image credit is "Copyright 1905 by Underwood & 

Underwood N.Y.". The Russo-Japanese War, P.F. Collier & Son 1904, 

Общественное достояние, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1658322)

 

この一連の戦闘は第二回総攻撃の前半戦と呼ばれ、この戦いでの損害は帝国軍で戦死924名、負傷3,925名。露国軍では戦死約600名、負傷約2,200名を出すこととなりました。

 

この後、明治37年10月16日に露国海軍バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港したことから、旅順要塞の早期攻略の重要性が高まり、明治38年10月18日に第三軍は後備歩兵第一旅団および第二旅団を追加投入し、二龍山堡塁と松樹山堡塁の同時攻略のための総攻撃を決行します。


しかし、目的の堡塁を確保できないまま各師団が坑道作業に入った事から作業完了までには期日が必要と判断し、乃木大将は総攻撃を打ち切ります。

 

露国軍の塹壕前で斃れた帝国軍の兵士を描いた絵(引用:Wikipedia・ロシア語版)

(Авторство: loki11. Le Patriote Illustré, Общественное достояние, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8215023)

 

この戦闘は第二回総攻撃の後半戦と呼ばれ、帝国陸軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害被りますが、露国陸軍も戦死616名、負傷4,453名と帝国陸軍以上の損害を出すこととなりました。

 

第二回総攻撃では、帝国軍は前半戦において「二百三高地」以外は達成ししたものの、後半戦の主要防衛線への攻撃は当初の目的を達することができず、第二次総攻撃は失敗とされました。

 

第二回総攻撃の失敗は、バルチック艦隊の来航に危機感を募らせる帝国海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため「二百三高地」を攻略すべしという意見が出るようになります。

 

明治37年11月14日には、参謀本部が御前会議で「二百三高地主攻」を決定します。

しかし満洲軍では「二百三高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」としてこれを容れず、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じます。

 

また帝国海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議し、軍上層部の意見は纏まりに欠けていました。

 

バルチック艦隊で極東に遠征し日本海海戦で沈没した戦艦「ボロジノ」

(引用:Wikipedia)

(不明 - Tsushima - Фотографии эскадренного броненосца "Бородино", 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8316267による)

 

明治37年11月中旬には盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功したことから、中腹からトンネルを掘り要塞正面から進撃する総攻撃を11月26日に実施することとします。

 

しかし、この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7,000名に達します。対して守る露国軍側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれていました。

 

この状況を受け、11月27日未明に乃木大将は攻撃目標を要塞正面から「二百三高地」に変更することを決断し、「二百三高地」への本格的な攻撃が決定されます。

帝国陸軍は、午後5時から歩兵第二旅団の28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始したます。

対して、ロシア軍は「二百三高地」に500余名、その北東の老虎溝山に1,000名の兵を配し、万全の体制をとっていました。

 

「二百三高地(爾霊山)」(引用:Wikipedia)

(海軍軍令部 - 明治三十七八年海戦史 第二巻, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2130352による)


午後6時20分、第一師団右翼隊、中央隊が突撃を開始し、一部は二百三高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取しするものの、周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被ります。

 

翌28日に第一師団は再び攻撃を開始し、右翼隊は8時頃に突撃を開始し10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧しまが、すぐに露国陸軍の逆襲にあい山頂を奪還されてしまいます。

それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の一部を奪回します。

一方、中央隊は二百三高地東北部に対して突撃を繰り返し一時は東北部山頂を占領しますが、すぐに敵に奪還されてしまいます。

 

11月29日午前2時、第一師団より「現在の師団兵力では二百三高地攻略は難しい」との連絡が軍司令部に届くいたことから、乃木大将はこの総攻撃に際して内地から送り込まれた第七師団(北海道・旭川)を投入します。

 

30日午前6時に攻城砲兵が砲撃を開始し、第七師団を中心として山頂東北部に突入し、第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされます。

また、老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返しますが悉く撃退されてしまいます。

 

突撃を繰り返し、ようやく6時40分に東北部山頂に突入、接戦のすえ一部占領に成功し、その後は一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功し、午後5時には「二百三高地」の完全占領の報が届きますが、翌12月1日午前2時には露国軍に奪還されます。

 

「二百三高地」での攻防を描いた絵(フリッツ・ノイマン作)

(引用:Wikipedia・ロシア語版)

(Авторство: Нейман, Фриц (нем. Fritz Neumann, 1881 — 1919). https://runivers.ru/gal/gallery-all.php?

SECTION_ID=7093&ELEMENT_ID=605907, Общественное достояние, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=113909751)

 

再奪還を目指して夜半に増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令として行動中の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死します。

 

12月1日には死傷者の収容と態勢を整えるために4日まで攻撃を延期し、旅順へ向かった児玉満洲軍総参謀長が現地に到着すると、北方戦線へ移動中の第八師団(青森・弘前)の歩兵第17連隊を南下させるように要請します。

 

そして、12月4日早朝から「二百三高地」への総攻撃を再開、5日9時過ぎより第七師団歩兵二十七連隊が死守していた西南部の一角を拠点に、第七師団の残余と第一師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し、10時過ぎには制圧します。

また、12月5日13時45分頃より態勢を整えたうえで東北堡塁へ攻撃を開始、22時には露国軍は撤退し「二百三高地」を完全に占領することに成功しました。

12月6日に、乃木大将は徒歩で「二百三高地」に登り将兵を労いますが、攻撃隊は900名程に激減していたとされます

 

「二百三高地」陥落後、同地に設けられた観測所を利用し帝国陸軍は湾内の旅順艦隊残余の各艦艇(各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていた)に砲撃を開始します。

旅順艦隊艦艇は次々と被弾し、多くの艦艇は自沈処理がなされます。

 

陥落後の旅順港と自沈した露国海軍艦艇(引用:Wikipedia)

(海軍軍令部 - 明治三十七八年海戦史 第二巻, パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2130415による)

 

第三回総攻撃では帝国陸軍は戦死5,052名、負傷11,884名。露国陸軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くを出すこととなり、両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗したことが分かります。

 

「二百三高地」からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、脱出して旅順港外にいた戦艦「セヴァストポリ」と随伴艦艇に対して帝国海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し航行不能となり、旅順の露国海軍艦隊は壊滅しました。

 

その後も帝国陸軍は進撃を続け、明治38年1月5日に旅順要塞司令官ステッセルと乃木大将は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合いステッセルは乃木の2人の息子の戦死を悼みました。また、乃木大将は降伏した露国将兵への帯剣を許しました。

 

水師営会見(中央二人が乃木将軍とステッセル将軍/引用:Wikipedia)

(不明 - The Japanese book "國の光" (The light of our nation) published in 1909, 

foto first published by 朝日新聞 (Asahi Newspaper), パブリック・ドメイン, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=307168による)

 

 こうして旅順攻囲戦は終了し帝国軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した戦闘は終結しました。

 

明治38年1月にウラジーミル・レーニンは、旅順の失陥を「ロシア専制の歴史的な破局」と位置付け機関誌『フペリョード』に投稿し、この動きは後のロシア革命に繋がっていきます。

 

乃木希典大将は、旅順要塞攻略後に第三軍を率いて奉天会戦に参加し勝利します。

 

帝国陸軍・大将 乃木希典(引用:Wikipedia)

(不明 - restored by User:Adam Cuerden - この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。, 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48971822による)

 

そして、明治天皇の後押しもあり日露戦争終結後の明治40年1月31日には学習院長に就任しています。

当時陸軍武官が文官職に就く場合には、陸軍将校分限令により予備役に編入される規定でしたが、明治天皇の要請で予備役に編入されることはありませんでした。

明治41年4月に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は勤勉と質素を旨としてその教育に尽力しました。

 

そして、大正元年9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の20時頃、乃木は妻・静子とともに自刃して亡くなりました。享年64(満62歳没)。

これは、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けており、これが理由であったと言われています。

 

後に帝国陸軍での従軍経験のある作家・司馬遼太郎等により、旅順攻囲戦に際して突撃を繰り返し多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなどについて「愚将」と評価されたこともあります。

 

なお、乃木大将の死去を受け全国各地に「乃木神社」が建立され、今でも「大将・乃木希典」を偲ぶ縁とされています。

 

京都市伏見区の乃木神社

 

【参考文献】

  Wikipedia(ロシア語版含む)