80年前のニューギニア戦線・ダンピールの悲劇 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は3月3日、ひな祭りの日ですね。

とは言っても、今年は私の肩痛、奥様の膝痛でひな人形を出すことを諦めました。

 

80年前の3月2日から3日にかけて「ダンピールの悲劇」(連合軍の呼称「ビスマルク海海戦」)と呼ばれる戦闘が行われました。この戦闘を振り返ってみます。

 

昭和18年に入ると、2月のガダルカナル島奪還に始まる連合軍の反転攻勢が始まり、ニューギニア島でも苦境にありました。

これに対し帝国陸軍は、連合軍の次の侵攻目標と予測されるニューギニア島(現・パプアニューギニア)東部の各拠点に部隊を送り、防備計画を進めます。

 

この時期の帝国陸軍は、順次中国大陸から南洋戦線への部隊の移動を進めており、ガ島攻防戦の終結に伴いラバウルで待機していた第51師団をラエ方面へ輸送し、概ね成功していました。

 

続いて策定された輸送作戦は「八十一号作戦」と名付けられ、帝国陸軍第18軍麾下の第二十師団、第四十一師団、第五十一師団をもって東部ニューギニアの要所(ラエ、サラモア、マダン、ウェワク)を増強することとされました。

 

昭和18年2月28日、帝国陸海軍は陸軍第十八軍司令官を含む約7,000名を乗せた輸送船8隻、護衛の駆逐艦8隻により船団を組みラエに向けニューブリテン島ラバウルを出航します。

【第81号作戦の船団】

 輸送船:「大井川丸」(東洋海運、6,494総トン)

     「太明丸」(日本郵船、2,883総トン)

     「建武丸」(三光汽船、953総トン)

     「帝洋丸」(帝国汽船、6,801総トン)

     「愛洋丸」(東洋汽船、2,746総トン)

     「神愛丸」(岸本汽船、3,793総トン)

     「旭盛丸」(大同海運、5,493総トン)

     「野島」(帝国海軍給炭艦、基準排水量8,750トン)

 

東洋海運・貨物船「大井川丸」

(引用:「東洋海運株式会社二十年史」1956年、東洋海運、巻頭写真)

 ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000965836

 

東洋汽船・貨物船「愛洋丸」

(引用:「知られざる戦没船の記録 上巻」戦没戦を記録する会、1995年8月、柘植書房、P.60)

 

帝国汽船・貨物船「帝洋丸」

(引用:HP「戦没した船と海員の資料館/大量戦没者を出した船団/第八十一号作戦(PDF)」)

 

岸本汽船・貨物船「神愛丸」

(引用:HP「戦没した船と海員の資料館/大量戦没者を出した船団/第八十一号作戦(PDF)」)

 

 護衛艦艇:

  一等駆逐艦「白雪」「浦波」「敷波」「朝潮」「荒潮」「朝雲」「時津風」「雪風」

 

船団の速力は9ノットほどで、一路ラエに向けて荒天の中を進みます。

 

「ビスマルク海海戦」の位置図(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1433227)

 

これに対し、連合軍の「B-24」爆撃機がビスマルク海で船団を発見、接触が続けられ逐次船団の動向を把握します。

 

「八十一号作戦」の船団は、昭和18年3月2日の朝にニューブリテン島西端グロスター岬北東海面を航行していましたが、午前8時以降「B-17」爆撃機十数機と護衛戦闘機が襲来し、高度2,000mで水平爆撃を実行します。

 

この爆撃により、午前8時16時に「旭盛丸」が直撃弾2発を受け、1時間後に沈没します。また、「愛洋丸」と「建武丸」が至近弾で若干の損傷を受けます。

「旭盛丸」の沈没による生存者約900名は、一等駆逐艦「朝雲」「雪風」により救助され、船団から先行してラエへ向かいます。

 

大同海運・貨物船「旭盛丸」

(引用:HP「戦没した船と海員の資料館/大量戦没者を出した船団/第八十一号作戦(PDF)」)

 

ラエに向け前進する船団は、3月2日午後にも「B-17」の爆撃を受けますが、大きな被害はなく航行を続けていました。

 

しかし、日が変わり3月3日の午前7時30分から、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里地点を航行する船団に対し、「P-38」戦闘機と「P-40」戦闘機に護衛された「B-17」及び「B-25」爆撃機の大群が押し寄せます。

 

この時、船団上空では「零式」艦上戦闘機が護衛に就いており空中戦が展開されますが、中・低空から「B-25」が行った爆撃が船団に襲い掛かります。

 

米国陸軍・爆撃機「B-25・ミッチェル」(引用:Wikipedia)

(Sherwood Mark, photographer ("Mark" is surname). - 

This image is available from the United States Library of Congress's Prints 

and Photographs divisionunder the digital ID fsac.1a35397.

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パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7107152による)

 

約20分間の空襲により、輸送船7隻と駆逐艦「白雪」「荒潮」「時津風」が被弾により戦闘不能となり、直撃弾で艦橋を破壊され舵故障に陥った「荒潮」は「野島」と衝突、「建武丸」「愛洋丸」、一等駆逐艦「白雪」が沈没します。

 

爆撃を受け炎上する三光汽船・貨物船「建武丸」(引用:Wikipedia・英語版)

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Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18250776)

 

一等駆逐艦「白雪」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1891628)

 

残った護衛の駆逐艦は沈没した艦船の乗員の救助を行いますが、10時35分頃に敵機再来襲との報が入り、駆逐艦は北方避退の命令が出され輸送船を残したま戦場を離脱してしまいます。

これに対し、「朝潮」のみは「野島」の生存者救出を宣言し現場へ残ります。

 

ダンピール海峡に達した船団に対し、午後1時15分頃より連合軍機約40機が来襲し油槽船への爆撃を敢行し、「神愛丸」「太明丸」「帝洋丸」「野島」が次々に被弾沈没していきます(給炭艦「野島」・ダンピールの悲劇)。

 

爆撃を受ける日本郵船・貨物船「太明丸」(引用:Wikipedia・英語版)

(By W. Garing - Lex McAulay: Battle of the Bismarck Sea, St. Martin's Press, New York 1991, 

ISBN 0-312-05820-9, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11519771)

 

給炭艦「野島」(引用:Wikipedia)

(不明 - 『世界の艦船 増刊第44集 日本軍艦史』海人社、1995年8月号増刊。p174。, 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6724456による)

 

また、船団付近で唯一健在だった「朝潮」は、集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれてしまいます。

 

爆撃を受け沈没直前の一等駆逐艦「朝潮」

(引用:「写真 日本の軍艦 第11巻」雑誌「丸」編集部、1990年6月、光人社、P.70)

 

唯一残った輸送船の「大井川丸」は3月3日夜間に米国海軍魚雷艇の攻撃で沈没し、「八十一号作戦」に参加した輸送船は全滅することとなりました。

 

3月3日の日没後、「敷波」「朝雲」「雪風」は遭難現場へ戻り生存者を捜索に当たりますが、「荒潮」は「雪風」に乗員を収容後に放棄され、翌4日に「B-17」の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中し沈没していきます。

 

一等駆逐艦「荒潮」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1214723)

 

「雪風」に乗員が救助された後に放棄され漂流する「時津風」は、3月4日に帝国陸海軍の航空機により爆撃されるも沈没せず、最後は米国軍機の攻撃いより沈没します。

 

一等駆逐艦「時津風」の絵葉書(引用:Wikipedia)

(不明 - An old picture postcard 古い絵葉書 Personal possession 個人所有,

 パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2211686による)

 

救助された将兵を乗せた「浦波」「初雪」は3月4日午前10時に、「敷波」「朝雲」「雪風」は3月5日午前11時にラバウルに帰還し一連の戦闘は終結します。

 

帝国陸海軍は、この戦闘において大きな損害を被ります。

【帝国陸海軍の損失】

 ・輸送船:「大井川丸」「太明丸」「建武丸」「帝洋丸」「愛洋丸」「神愛丸」「旭盛丸」

      「野島」の8隻沈没

 ・一等駆逐艦「白雪」「朝潮」「荒潮」「時津風」の4隻沈没

 ・戦闘機 帝国陸軍機4機、帝国海軍機多数 未帰還

 ・帝国陸軍第十八軍司令部、第51師団主力約7,000名中、戦死者3,000名以上

  船舶乗組員、その他を含み戦死者4,543名

 ・15cm榴弾砲4門、10cmカノン砲3門、高射砲11門、山砲6門、連隊砲2門、

  大隊砲6門、対戦車砲4門、自動貨車34両、輜重車94輌、弾薬500トン、

  糧秣ほか8,800㎥、航空ガソリン入りドラム缶2,000本、通信機材、無線修理車、

  船舶装備(高射砲17門、野砲3門、機関砲5門、大発動艇40隻)を喪失

 

帝国陸海軍の輸送船に対する猛烈な爆撃(引用:Wikipedia・英語版)

(By Unknown author - This tag does not indicate the copyright status of the attached work.

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Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1433226)

 

帝国陸海軍では輸送船団全滅による作戦失敗を「ダンピールの悲劇」と呼び、その後のニューギニア方面作戦に大きな影響を与えました。

 

また、連合軍では一連の戦闘を「ビスマルク海海戦」と名付け、連合軍の本格的な反転攻勢のひとつになりました。

 

この戦闘の後、帝国海軍では艦隊決戦に必要な一等駆逐艦を温存するため、輸送船団に対し一等駆逐艦を護衛とすることを敬遠し、駆潜艇・掃海艇などの小型艦艇や、量産を始めた海防艦にその任務を移していきます。

しかし、対航空機・対潜水艦攻撃ともにその防御力は脆弱であり、次々と輸送船を失っていき、戦場にたどり着くことなく、多くの犠牲を強いることになります。

 

80年前の出来事である「ダンピールの悲劇」において、犠牲になられたすべての方々に対し哀悼の誠を捧げるとともに、忘れてはいけない史実であるとの思いから、ブログに取り上げてみました。

 

【参考文献】

 Wikipedia(英語版含む) および

 

 

 

 「東洋海運株式会社二十年史」1956年、東洋海運

  ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000965836

 

【Web】

 HP「戦没した船と海員の資料館」 

 

 HP「大日本帝國海軍 特設艦船DATA BASE」戸田S.源五郎氏