一瞬の輝き・幻の鉄道連絡船 2隻の「阪鶴丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

ようやく、五十肩に慣れてきました。

ただ、痛みが出ないようにすると、動きがスローになり何事にも時間がかかります。

元々がイラチな性格なんで、いつもの勢いで動かすと肩に激痛が!ストレスが溜まります…。

 

以前にも何度が触れましたが、私は鳥取県西部の出身です。いわゆる「裏日本」ですね。

明治期に全国に鉄道が敷かれていく中で、「裏日本」である山陰地方への鉄道敷設は遅く、初の開業は御来屋-米子(現・山陰本線)-境(現・境港/境線)の19.4kmで、明治35年11月の事でした。

この前年には、「表日本」側の山陽本線は神戸-馬関(現・下関)間が全通しています。

 

阪鶴鉄道の連絡航路

(引用:「鉄道連絡船100年の航跡」古川達郎、1988年5月、成山堂書店、P.19)

 

この時、現山陰本線の東側は京都-園部間が私鉄の京都鉄道により開業しており、また鉄道院は軍事的に重要な路線として福知山-綾部-新舞鶴(現・東舞鶴/現・舞鶴線)間を建設中で、明治37年11月の竣工に合わせて、既に神崎(現・尼崎)-福知山間(現・福知山線)を運行していた私鉄の阪鶴鉄道へ営業委託します。

 

舞鶴へ延伸した鉄道を生かすため、阪鶴鉄道は明治37年11月に舞鶴-宮津間、翌38年4月には舞鶴-境間、同39年7月には舞鶴-小浜間にそれぞれ鉄道連絡船の航路を開設します。

この時、舞鶴-境航路用に新たに建造されたのが、その名もズバリ「阪鶴丸」と名付けられた船でした。

「阪鶴丸」は大阪鉄工所で建造され、明治39年7月に竣工すると舞鶴-境間の航路に投入されます。

【要目(「阪鶴丸」)】

 総トン数:760トン、垂線間長:57.0m、幅:7.9m、深さ:5.5m、吃水:2.3m

 主機:三連成レシプロ機関×1、推進軸:1軸

 出力:566馬力、速力:(最大)11.7ノット

 船客定員:(一等)8名、(二等)35名、(三等)194名

 ※引用:「世界の艦船別冊 日本の客船1 1868-1945」野間恒/山田廸生、1991年7月、海人社、P.207

 

阪鶴鉄道・鉄道連絡船「阪鶴丸」

(引用:「鉄道連絡船100年の航跡」古川達郎、1988年5月、成山堂書店、P.21)

 

それまで陸路では山陽筋の姫路・岡山等から、または阪鶴線の福知山あたりから人力による移動をするしかなかった山陰方面への移動手段として、舞鶴-境航路は活況を呈します。

阪鶴鉄道では好調な旅客需要に対応するため、さらにもう1隻同型船の建造を大阪鉄工所に発注し「第二阪鶴丸」と命名、明治41年6月に竣工します。

ですが、明治40年8月に阪鶴鉄道が国有化されたことから、「第二阪鶴丸」は鉄道院が受け取ることとなり、阪鶴鉄道から引き継いだ舞鶴-境航路に投入され、それまでの隔日運航から毎日運航に変更されます。

 

【要目(第二阪鶴丸)】

 総トン数:869.4トン、垂線間長:57.1m、型幅:7.6m、深さ:6.0m

 主機:三連成レシプロ機関×1、推進軸:1軸

 出力:502馬力、速力:(最大)11.2ノット

 船客定員:(一等)8名、(二等)41名、(三等)250名

 ※引用:「鉄道連絡船100年の航跡」古川達郎、1988年5月、成山堂書店、P.332-333

 

鉄道院・鉄道連絡船「阪鶴丸」

(引用:「鉄道連絡船100年の航跡」古川達郎、1988年5月、成山堂書店、P.33)

 

2隻の「阪鶴丸」は、関西から山陰への「足」として活躍しますが、それはあくまで「山陰線の延伸までの繋ぎ」であり、明治45年3月に「余部鉄橋」の完成により京都-出雲今市(現・出雲市)間が全通すると、鉄道に道を譲り舞鶴-境間の鉄道連絡船は廃止されてしまいます。

 

大正1912年1月28日・「余部鉄橋」を渡る試運転の初列車(引用:Wikipedia)

(不明 - scanned from p.19 of "Amarube bridge" / 

香美町発行「余部鉄橋」19ページよりスキャン, パブリック・ドメイン,

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11461180による)

 

開業からわずか7年、「幻の鉄道連絡船」と言っても良いかと思います。

 

活躍の場を失った2隻の「阪鶴丸」のその後を見てみましょう。

 

「阪鶴丸」は、明治45年の金刀比羅宮春季大祭の団体輸送対応のために字高航路に配船された後、同年6月に阿波國共同汽船に払い下げられ、朝鮮半島および華北(仁川〜芝罘(現・煙台)、大連〜安東県、大連~仁川)で運用されます。

しかし、大正5年12月25日、激しい風雪の中で芝罘沖の暗礁に擱座してしまいます。

付近の船舶が救助に向かいますが、荒れた海に阻まれ救助ができず、乗員乗客約400名とともに海中に消えていきました。

 

「阪鶴丸」の沈没状況を伝える記事

(引用:「海事新報 (301)」1917年2月、帝国海事協会、P.49)

 

「第二阪鶴丸」は、一時関釜航路で貨物輸送に使用された後、明治45年6月から青函航路に移ります。

更に、大正3年7月に波國共同汽船に払い下げられ「第十八共同丸」と改名し、大阪-神戸-小松島間の航路などに使用されます。

 

その後、昭和15年に東亜海運に移管され、朝鮮半島・大陸方面でも運用されたようで、昭和20年8月15日の終戦は大連で迎えたとされています。

 

大連-芝罘線に配船されている「第十八共同丸」の記載

(引用:「海運年鑑 昭和11年版」津端修 編、1936年7月、海商社、P.108)

 

終戦後の「第十八共同丸」について調べてみましたが、その行方は不明のようです。

 

鉄道網が全国に延伸されていく時代のごく短い期間に存在した「鉄道連絡船」、その輝きは一瞬であったものの、非常に華やかなものでした。

 

今では忘れ去られた歴史であり、「表日本」の高速化した列車により山陰へは姫路・岡山等からの陰陽連絡がメインとなり、鉄道連絡船から主役の座を奪った山陰本線ですら、一部区間の廃線が取りざたされる状況となっています。

 

より便利なものへ人々は移っていく歴史を表すような山陰の交通ですが、人口減少が著しい現在、そして未来にはどのようになっていくのか、知りたいような、知るのが怖いような、複雑な心境です。

 

境港に停泊中の「阪鶴丸」

(引用:「鉄道連絡船細見」古川達郎、2008年12月、JTBパブリッシング、P.73)

 

なお、似たような経緯を持つ、短い期間のみ運航された鉄道連絡船としては、琵琶湖航路(滋賀・長浜-大津)、門徳航路(山口・徳山駅から福岡・門司駅間)、大村湾航路(長崎・早岐駅-長与駅)などがあります。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

「海事新報 (301)」1917年2月、帝国海事協会]

 ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000003249

 

「海運年鑑 昭和11年版」津端修 編、1936年7月、海商社

 ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000706547

 

「戦時日本船名録 第3/11巻」林寛司、2006年11月、戦前船舶研究会、P.73

 

【Web】

HP「日本クルーズ&フェリー学会」

 ※「名船発掘 Vol.2 「ラメール」 1997.5-2003.11

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