ジェーン台風で桟橋に打ち上げられた「橋立丸」の生涯 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は、朝から調べ物があったので、堺市立中央図書館へ行ってきました。

 

堺市立中央図書館

 

今回は、昭和25年9月に襲来した「ジェーン台風」について、文献を見に行きました。

さすが、政令指定都市の中央図書館、蔵書の豊富さも侮れません。

なぜ、そんなものを調べに行ったのかというと、ネットで見つけた当時の写真に衝撃を受けたからです。

 

昭和25年9月・大阪港に打ち上げられた「橋立丸」

(引用:HP「大阪市/大阪港の自然災害対策」)

 

写真に写っている「橋立丸」、大型船ですね。

こんな大きな船が岸壁まで持ち上げられるような規模の台風、ビックリしますね。

 

「橋立丸」調べてみます。

 

「橋立丸」は、大東亜戦争において大量に必要となった輸送船を大量生産するため、簡易な設計で建造が可能な設計を取り入れた「戦時標準船」で、このうち「橋立丸」は第一陣の「第一次戦時標準船」の「1TL」型(大型油槽船)として建造されたものです。

神戸の川崎造船所で昭和19年5月に起工され、同年9月に進水、同年10月に竣工しているので、5カ月ほどで建造されています。

【要目】

 総トン数:10,021トン、積貨重量:16,726トン、

 垂線間長:153.0m、幅:20.00m、深さ:11.50m

 主機:複汽筒式蒸気タービン×1、主缶:21号水管缶×2、推進軸:1軸

 出力:8,600馬力、速力:(最大)18.5ノット

 ※引用:「本邦建造船要目表(1868~1945)」

  日本船用機関学会・船用機関調査研究委員会編、1976年5月、海文堂、P.210-211、283

 

 

「1TL」型戦時標準船・石崎汽船・油槽船「あまつ丸」

(引用:「船舶百年史 後篇」上野喜一郎、」1958年5月、船舶百年史刊行会、P.7)

 

「1TL」型戦時標準船・日本水産油槽船「橋立丸」

(「戦時輸送船ビジュアルガイド2」岩重多四郎、2011年1月、大日本絵画、P.52)

 

竣工した「橋立丸」は、「ヒ81船団」に加わり昭和19年11月14日に佐賀・伊万里を出港し、内地へ石油を持ち帰るべくシンガポールへ向かいます。

途中、船団は輸送船2隻と航空母艦「神鷹」を失いますが、「橋立丸」は12月4日に無傷でシンガポールに到着し、ガソリンを搭載します。

 

航空母艦「神鷹」(引用:Wikipedia)

(Imperial Japanese Navy photographer - Taken from Aircraft Carriers: 

The world's greatest naval vessels and their aircraft. (ISBN-10: 0760320055), 

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3424419による)

 

そして、昭和19年12月14日には折り返しの「ヒ82船団」に加わり本土を目指しますが、3隻の輸送船を失いながらも、「橋立丸」は台湾・高雄にたどり着きガソリンを陸揚げします。

「橋立丸」は、再度石油輸送のため福岡・門司からシンガポールへ向かう「ヒ87船団」に高雄で加わることとなり、昭和20年1月8日に出港します。

しかし、すでにフィリピンは連合軍が掌握しており、付近を米国海軍の機動部隊が行動していることから船団は香港に避難するものの、香港で猛烈な空襲を受け船団は壊滅し、「橋立丸」も至近弾によりガス爆発を起こし損傷します。

 

「橋立丸」は損傷を修理するため、昭和20年2月3日に本土に向け出港しますが、2月11日に杭州湾内で触雷しさらに損傷たことから香港に引き返します。

それでも、昭和20年3月16日に上海沖で大阪商船の貨客船「吉林丸」と合流し、3月19日に福岡・門司に到着します。

 

大阪商船・貨客船「吉林丸」

(引用:「図説 日の丸船隊史話」山高五郎、1981年7月、至誠堂、P.168)

 

内地に戻った「橋立丸」は、すでに戦況の悪化から南方航路は事実上閉鎖されたことから修理の価値がないと判断され、修理がなされず大阪港において係留状態のままで終戦を迎えます。

 

終戦後、戦後の食糧難の中で、農商務省は大洋漁業(現・マルハニチロ)の働きかけを受け南氷洋での捕鯨再開を計画します。

大洋漁業に南氷洋捕鯨再開を打診された日本水産は、自社船である「橋立丸」を捕鯨母船に改装することとし、GHQから改装工事の実施許可を受けます。

 

改装工事は日立造船因島工場で行うことになったものの、資材不足の上に食糧事情もあり、造船所の工員の効率も上がりませんでした。

これに対し、日立造船は大阪府に米飯の特別配給を要請し、必要な資材もかき集めることで何とか工事を進めます。

また、因島では従業員を激励する活動も行われました。

 

造船所で「橋立丸」の工事を行う従業員を激励する人々

(引用:「八十周年を迎えて」1961年4月、日立造船、P.69)

 

工事着手前の「橋立丸」の状態は、右舷側の第4油槽がガス爆発で膨らんでおり、甲板が波打ち、縦隔壁は失われ、触雷時の座礁で船底全体が損傷しており、船体全体が斜めに歪んでいるという「大破」状態で、さらに機関室も火災で損傷しており、「満身創痍」の状態でした。

 

それでも、配管が走る上甲板から高さ4.3mに解剖甲板を設け、解剖甲板と上甲板の間にタンカー時代の配管が露出した状態ではあるものの鯨油工場を設置します。

また、約200人の工員を乗せるため船首部に居住区を新設し、船尾に鯨を引き揚げるスリップウェイを設けるために船体を後方に延長するという大工事となりました。

関係者の努力と周囲の協力により、「橋立丸」は何とか昭和21年10月15日に完工し、11月7日には昭和21年から22年の漁期である第1次南氷洋捕鯨に大阪港から出航して行きました。

【要目(捕鯨母船改装時)】

 総トン数:10,799トン、積貨重量:14,499トン、

 垂線間長:154.3m、幅:20.0m、深さ:12.5m

 主機:複汽筒式蒸気タービン×1、主缶:21号水管缶×2、推進軸:1軸

 出力:7,800馬力、速力:15.5ノット

 ※引用:「船舶百年史 後篇」上野喜一郎、」1958年5月、船舶百年史刊行会、P.173

 

日本水産・捕鯨母船「橋立丸」

(引用:「船舶百年史 後篇」上野喜一郎、1958年5月、船舶百年史刊行会、P.173)

 

「橋立丸」は、その後毎年南氷洋捕鯨に向かいますが、波浪による衝撃で修復した第4油槽の縦隔壁のリベットが緩み油が漏れ出す、角型になっている箇所にひびが生じるなど不具合が頻発し、昭和23年7月に日立造船因島工場で修繕工事が行われ、同時に主機を三菱製のタービン機関に換装します。

 

(引用:「大阪港のあゆみ」大阪市港湾局、1957年10月、大阪市、P.94)

 

それでも、最初から捕鯨母船として建造された船ではないため、捕鯨母船としての能力不足は否めず、収益の面での課題を抱えていました。

 

なお、この間の休漁期にである昭和23年8月には、日本のタンカーとして戦後初めて中東航路へ就航し、バーレーンから石油を輸送する実績を残しています。

また、この間の昭和25年9月に襲来した「ジェーン台風」では、冒頭の写真のような被害を受けたにもかかわらず、その修繕は迅速に行われ冬の南氷洋捕鯨に参戦しています。

 

「橋立丸」の捕鯨母船としての能力不足に悩んだ日本水産は、昭和19年2月のトラック大空襲で沈没した自社の捕鯨母船「第三図南丸」の再就役を計画し、昭和b25年年10月から4カ月半をかけ「第三図南丸」を浮揚のうえ修繕し、「図南丸」と改称し再就役させます(特設輸送船として撃沈されるも 戦後甦った捕鯨母船「第三図南丸」)。

昭和26年から27年にかけての第6次南氷洋捕鯨には、「橋立丸」に代えて「図南丸」を投入することになり、昭和26年5月8日に「橋立丸」は飯野海運へ売却されます。

 

飯野海運では、「橋立丸」を石油タンカーとして使用することにしていたため、昭和26年8月2日に飯野産業(後の日立造船舞鶴工場)で石油タンカーへの改造工事と共に船室改善工事を行い、「橋立丸」は再び油槽船として運航されることとなります。

【要目(石油タンカー改装時)】

 総トン数:9,897.6トン、積貨重量:15,014トン、

 垂線間長:153m、幅:20.0m、深さ:11.5m

 主機:複汽筒式蒸気タービン×1、主缶:21号水管缶×2、推進軸:1軸

 出力:5,000馬力、速力:16.4ノット、乗組員数:58名、旅客数:2名

 ※引用:「船の科学 4(9)(35)」国土交通省海事局 監修、1951年9月、船舶技術協会、P.8

 

飯野海運・石油タンカー「橋立丸」

(引用:「飯野60年の歩み」1959年7月、飯野海運社史編纂室、P.84)

 

改装を受け、再び1本煙突に戻った「橋立丸」は、就役後にイランやバーレーンからの石油輸入に従事します。

昭和32年7月には系列会社の内外海運へ移籍しますが、引き続き飯野海運が運航委託する形で運用されます。

しかし寄る年波には勝てず、昭和35年4月20日に船齢16歳で解撤となり姿を消します。

 

1枚の写真から、気になって調べてみたら数奇な船生を辿った船に行き当たりました。

現在では忘れ去られた船である「橋立丸」は、数度の損傷にも関わらず、戦後の食糧難に対して多大な貢献をしたほか、戦後初めての中東からの石油輸送を行うなど、話題の多い船でした。

こんな史実に行き当たることがあるので、ついつい調べてみたくなりますね。

 

なお、本日訪問した「堺市立中央図書館」は、世界遺産の「仁徳天皇陵」の至近距離にあり、昨日は天皇誕生日でもあったことから、久しぶりに参拝してきました。

 

「仁徳天皇陵」拝殿

 

国内最大の墳墓である「仁徳天皇陵」に向き合うと、身が引き締まりますね。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

 「八十周年を迎えて」1961年4月、日立造船

  (国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000001021302)
 「飯野60年の歩み」1959年7月、飯野海運社史編纂室

  (国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000001001215)

 「船の科学 4(9)(35)」国土交通省海事局 監修、1951年9月、船舶技術協会

  (国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000020893)

 「大阪港のあゆみ」大阪市港湾局、1957年10月、大阪市

 

【Web】

 HP「大阪市」

 

 HP「国会図書館デジタルコレクション」