今日は天皇誕生日ですね。
平成の天皇誕生日は12月23日でしたが、私の誕生日の翌日だったので覚えやすかったのですが、2月23日はまだ慣れません。
今週は、月曜からずっと雨が降っていますが、19日の月曜は日帰りで広島への出張でした。
昨年から、呉・宇品・江田島と広島へは頻繁に行っている気がします。
広島での打ち合わせは午後からでしたが、朝9時代の新幹線に乗り広島へ。
早目について、若干の観光を計画していました。
11時過ぎに広島へ到着し、路面電車で紙屋町東電停へ。
そこから北に歩いて、向かったのはコチラ。
広島城址公園・東側の入口
これまで、平和記念公園、宇品など広島市の中心から南方面には何度か行っているんですが、t路面電車より北方面に行くのは小学校の修学旅行以来です。
城址公園内の堀の中に入っていくと、何か遺構のようなものがありました。
城址公園内の遺構
後で確認することにして、北西方面へ進んでいきます。
そして、見えてきました。
広島城の天守
元の天守は昭和20年8月6日の原爆投下により崩壊しており、昭和33年3月に再建されたものです。
せっかく来たので、中に入ります。
天守の中には中世から江戸時代にかけての品々が展示されていましたが、一番私の目を引いたのは、この大きな屏風でした。
広島城下絵屏風
天守の最上階へ登っていきます。
天守・展望階から見た広島市内
雨が降っていたので、霞んでしまっていますね。
天守内には、こんなゆるキャラもいましたよ。
ゆるキャラ「しろうニャ」さん
天守から降りて公園内に戻ると、先ほどの遺構が目に留まりました。
近づいてみると、石碑が建っていますが、一部塗りつぶされています。
正面には「史跡 明治二十七八年戦役廣島大本営」、左側面には「昭和十年三月建設 文部省」
と書かれていますが、正面の「史跡」と左側面の「文部省」がモルタルで塗り潰されています。
「広島大本営」の石碑
「広島大本営」の基礎部分
この大本営は、元々本丸御殿があった場所で、明治10年に広島鎮台司令部として建設された建物でしたが、明治27~28年の日清戦争時に兵站の拠点となった宇品港に近い広島に明治天皇を迎えて臨時政府が置かれた際に、大本営として使用された建物でした。
在りし日の広島大本営の建物(引用:Wikipedia)
(不明 - 毎日新聞社「昭和史第2巻 昭和前史・富国強兵」より。, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3418771による)
この建物は原爆投下により崩壊し、昭和23年には戦後の軍国主義排除の風潮の中で、史跡指定が解除され石碑の文字が一部塗りつぶされてしまいました。
南に下っていくと、広島護国神社が見てきます。
広島護国神社
拝殿で英霊に手を合わせます。
護国神社の東側には、慰霊碑とコンクリートの構造物がありました。
何度も書籍やテレビで見た構造物です。
中国軍管区司令部・防空作戦室跡と
中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑
ここでは、昭和20年8月6日の原爆投下時に、学徒動員で勤務していた比治山高等女学校の生徒だった岡ヨシエさんが、福山へ広島の惨状を連絡したのが、広島からの第一報だったと言われています。
原爆で犠牲になられた方々へ手を合わせた後、表御門から広島城址公園を後にします。
広島城・表御門と内堀
この後、アストラムラインに乗り新白島でJRに乗り換えて経由して広島駅へ戻り、お好み焼きで昼食とした後、打ち合わせに向かいました。
広島駅・福ちゃんエキエ店のお好み焼き「餅チーズ焼き」
今回は残念ながら雨に祟られましたが、広島城址公園を散策したことで、改めて日清戦争から続く「帝国陸軍の軍都・広島」を実感しました。
今では、平和の象徴ともいえる都市・広島ですが、戦前は「軍都」であったという「史実」は、もっと知られてもいいのではないかと思います。
そのうえで「被爆地」として「平和」を発信をしていくことは、何も矛盾することはないと思います。
そんなことを考えた今回の広島への旅、いや出張でした。
なお、昼食の後「仕事はきっちり」してきましたよ。そんな風に見えないと思いますが(笑)。
【参考文献】
Wikipedia および
リーフレット「広島城」
【Web】
HP「広島平和記念資料館」