一枚の絵から 大阪港発祥の地と初の国産鋼製汽船 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は令和5年の仕事納め。

在宅勤務の日でしたが、午前中は梅田で仕事。

と言っても、会社の幹部に来年早々に予定している会議の資料説明が昨日終わったので、今日は課内の社員の勤務実績の締切作業がメインと、軽い仕事のみ。

私の勤務しているところは、在宅勤務でも仕事ができる体制であれば家にいる必要はないので、昼休みも活用し、PCとポケットWi-Fiをもって散歩に行きます。
 

目的地は、大阪に深い関係のある海運会社に関係する絵の舞台です。

 

大阪商船本社前・安治川波止場に碇泊中の筑後川丸

(引用:HP「商船三井/柳原名誉船長ミュージアム」)


この絵は大阪市の「安治川波止場」とされていましたので、この「波止場」を調べてみます。

ここは木津川と安治川が分流する場所にあり、江戸時代には西国から大坂へ入る船を監視する船手会所(船番所)が置かれていました。

その後、船番所は廃止され寂れていきますが、日米修好通商条約により慶応3年9月に「大阪港」が開港され、この地に港と外国人居留地が整備されます。

「川口運上所(税関)」も設置され、日本初の電信が設置された地でもあるようです。

 

JR大阪駅から大阪環状線に乗って「弁天町」駅へ、大阪メトロ中央線に乗り換えて「阿波座」駅から西に向かって進みます。

 

安治川の河岸まで出ると、碑に行き当たります。

 

「大阪開港の地」の碑(左)と「大阪電信発祥の地」の碑(右)

 

川口運上所跡(大阪税関発祥の地)の説明版

 

ここは現在、フェンスが張られており近寄ることはできませんので注意が必要ですが、フェンスの上から撮影することができました。

当時のこの地の状況は、この図で確認できます。

 

大阪・川口居留地パノラマ想像図(引用:HP「川口居留地研究会」)

 

この図の中央右側に「川口運上所」の記載があります。碑と説明版は、この地に建てられているものですが、当時を偲ぶものは他にありません。

また、この図に記載されている「古川」は、現在は埋め立てられています。

なお、「川口運上所」の初代長官は近代大阪経済の父と呼ばれている五代友厚です。

 

また、旧居留地ではレンガ造りの「川口基督教会」があり、今でも現役で使用されています。

 

「川口基督教会」

 

この教会を含む恐竜地一帯は、「大阪の近代教育発祥の地」と呼ばれ、「立教学院」「平安女学院」「梅花学園」「プール学院」「大阪女学院」「大阪信愛女学院」「桃山学院」「聖公会神学院」という、現代に続く私学の発祥地でした。

 

「大阪の近代教育発祥の地」の碑

 

ちなみに、木津川を挟んだ東側は「江之子島」と呼ばれる地で、大正年間まで大阪府庁や大阪市役所も置かれており(「水都大阪」の歴史を学ぶ)、大阪の重要な拠点となっていました。

 

また、冒頭の絵に描かれている「筑後川丸」はどんな船でしょう。

 

この「筑後川丸」は、大阪商船の近海用貨客船として建造された鋼製汽船で、三菱長崎造船所で明治22年7月に起工され、翌23年3月に竣工した「筑後川丸」型貨客船の1番船で、同型船に「木曽川丸」「信濃川丸」がありました。

【要目】

 総トン数:610トン、長さ:51.8m、幅:8.5m、深さ:5.5m 

 機関:三連成レシプロ機関×1、推進軸:1軸

 出力:(最大)520馬力、主缶:縦型缶×1、円缶×1

 ※引用:本邦建造船要目表(1868-1945)」日本船用機関学会、

     船用機関調査研究委員会、1976年5月、海文堂、P.270

 

大阪商船・貨客船「筑後川丸」

(引用:「別冊一億人の昭和史 昭和船舶史」毎日新聞社、1980年5月、P.39)

 

「筑後川丸」は、日本国内で建造された初の鋼製汽船で、また国産汽船で初めて三連成レシプロ機関を採用した船でもありました。

就役後は大阪~仁川線などの近海航路に就航、明治44年からは樺太東回航路に移り、 大正3年には北日本汽船に売却され引き続き樺太東回航路を担当します。

大正5年には青森-室蘭航路に転出し、大正13年には太洋商船に売却、さらに昭和5年には上海のChekiang Steam Navigation社に売却され「天理(TELI)」と改称されます。

そして、昭和16年に上海近郊を流れる黄浦江で空襲により生涯を閉じています。

 

また、冒頭の絵に描かれている大阪商船の本社屋は、「川口運上所」の西側に建設され、明治17年から大正14年にかけて使用された初代の本店の建物になります。

 

大阪商船初代本店(引用:Wikipedia)

(不明 - "Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 " by Mochizuki Kotaro, Tokyo, "The Liberal news agency", パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=76263010による)

 

こちらも現在ではその姿を偲ぶものはなく、本店が手狭になったことから宇治川電気、日本電力(いずれも電力会社、関西電力の前身)と合弁で「大阪ビルジング」(現在の「ダイビル」)を設立し、中之島に「大阪ビルヂング本館」を建設、大正14年に移転します。

「大阪ビルヂング(ダイビル)本館」は、低層階に当時の外装を復元した高層ビルとして、平成25年3月に建て替えられました。

 

令和5年12月25日・夜の「ダイビル本館 低層階」

 

川口居留地と川口波止場は、水深が浅いことから大型船が入港できず、大阪湾の外港である天保山で小型船に載せ替えた上で安治川を約6km遡上し運送する必要があり、大型船が直接入港でき、鉄道で大阪へ運搬できる神戸に主役の座を奪われ、明治32年7月には居留地が撤廃されてしまいます。

 

その後、大阪府庁・大阪市役所もこの地から移転していき、現在では鉄道の駅からも少々離れた「大阪の街外れ」の感があります。

 

こんな日に限って、仕事関係のメールを多数受信したとスマホが教えてくれるので、返信しつつの散歩でしたが、PC内のファイルを送信しなければならない事態となり、ポケットWi-Fiと持ち歩いていたPCが活躍してくれました。

 

今回は、一枚の絵から在りし日の「大阪開港の地」と「日本初の鋼製汽船」について取り上げてみました。

 

明治37年の川口波止場

(引用:「別冊一億人の昭和史 昭和船舶史」毎日新聞社、1980年5月、P.49)

 

 

【参考文献】

  Wikipedia および

 

 

【Web】

 HP「商船三井/柳原名誉船長ミュージアム」

 

 HP「川口居留地研究会」

https://takakoym4112289.wixsite.com/kawaguchi