大阪城公園の軍事遺構を巡る | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

週後半から急に寒くなり、昨日も家の中でさえ寒すぎて、一日ブルーレイレコーダーに録り溜めていたTV番組を整理してました。

 

先週、出先の打ち合わせが早く終わった日の夕方、大阪城公園を散策してきました。

 

大阪城公園の北西端から堀を渡ると、筋鉄門跡から公園への入口は、赤レンガの塀があります。

 

大阪城・筋鉄門跡

 

こちらは大阪砲兵工廠の正門だったそうで、正面にこちらも赤レンガ造りて崩れかけた廃墟があります。

これは、旧衛兵詰所(門番の詰所)だったそうです。

 

旧衛兵詰所

 

筋鉄門から公園の中に入ると、左手にやや大きな、こちらも赤レンガ造りの廃墟があります。

この建物は、戦前から戦時中にかけ大阪砲兵工廠化学分析場として使用された建物でした。

 

旧大阪砲兵工廠化学分析場

 

大東亜戦争後は、大阪大学工学部校舎となり、さらに昭和39年から平成10年までは自衛隊大阪地方連絡部として利用されていましたが、現在では使用されておらず廃墟となっています。

 

戦前の大阪城の城内には、帝国陸軍の第四師団が置かれ、その北側から東側にかけて、帝国陸軍の兵器工廠である大阪砲兵工廠が置かれ、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担った東洋一の規模を誇る軍需工場でした。

 

現在の大阪城ホール、JR大阪城公園駅など大阪城外堀の周囲と、大阪環状線を挟んでJR吹田総合車両所森之宮支区、大阪メトロ森之宮検車場辺り一帯が大阪砲兵工廠の広大な敷地でした。

 

大阪砲兵工廠の範囲(ピンク色の部分)略図(引用:Wikipedia)

(ja:User:Inoue-hiro - Inkscapeを用いて自作, CC 表示 3.0, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=102468285による)

 

来た道を戻って筋鉄門を出て、南に下って京橋口から公園の外堀の中に入り、東へ向かいます。

しばらく進むと、内堀のなかに入る極楽橋が見えてきます。

 

極楽橋と大阪城天守閣

 

極楽橋を渡って内堀の中に入り、天守閣の下まで進みます。

 

大阪城天守閣

 

天守閣の北東端の石垣に、ひとつだけズレている石があります。

 

天守閣のずれている石(赤丸の中)

 

この石ですが、昭和20年8月14日に大阪砲兵工廠を目標として行われた空襲により、この至近に爆弾がさく裂した影響でズレが生じたらしいです。

 

天守閣の表側(南側)に回ると、観光客が多くなってきます。

そして、「ミライザ大阪城」という赤レンガの建物が鎮座しています。

 

「ミライザ大阪城」

 

この建物は、昭和6年に大阪城天守閣とともに建設された、帝国陸軍・第四師団司令部の庁舎で、昭和23年から昭和33年まで大阪市警視庁(のち大阪府警察本部)、昭和35年から平成13年)まで大阪市立博物館として使用された後、しばらく使われていませんでした。

その後、平成29年に大和ハウス・読売テレビ・電通などがで構成される大阪城パークマネジメント共同事業体が運営する商業施設「ミライザ大阪城」として再利用されています。

内部は大幅に改修されていますが、一部に往時の面影があります。

 

「ミライザ大阪城」エントランスの大階段

 

車寄せの内部

 

「ミライザ大阪城」は外国人向けの土産屋さん、海洋堂フィギュアミュージアム、タリーズコーヒー、レストラン、バーなどがありますが、残念ながら建物の歴史に関するものは、エントランスのモニターによる表示ぐらいしかありませんでした。

 

内堀を渡って、石垣の下から「ミライザ」の建物を望みます。

 

内堀越しに見た「ミライザ大阪城」

 

往年の第四師団司令部の風景が見えるようです。

内堀沿いに、大手門方面へ向かうと、「大阪城公園城内詰所」なる看板が掛かった、これまたレンガ塀がありました。

 

「大阪城公園城内詰所」

 

帰宅してから調べると、陸軍刑務所として建設され、刑務所が河内長野に移転後は兵器庫として使用されていたエリアの門でした。

 

大手門を出て、外堀沿いに森之宮方面へ向かうと、こんな石碑が。

 

「城南射撃場跡」の碑

 

外堀の南側には、帝国陸軍の射撃場であった「城南射撃場」があった場所になります。

 

この近くには、大阪国際平和センター(ピースおおさか)があります。

行ったことがありますが、左翼的な自虐史観に基づく展示内容があまりにもひどかった印象があり、見るに堪えませんでした。

橋本知事時代に展示が変更されたようですが、どんな風になったんでしょうね。

このような子供の平和学習に使用するような施設に対して、主義・思想を持ち込むことには嫌気がさします。

 

先に触れましたが、終戦前日の昭和20年8月14日に大阪砲兵工廠を目標とした大規模空襲が行われました。

この時、工廠の北側に位置する鉄道省の京橋駅に城東線(現・大阪環状線)の電車が上り・下りともに停車します。

そして、電車の乗客は城東線の下にある片町線のホームに避難しました、

ことろが、B-29が落とした1トン爆弾が城東線の橋梁を突き破り片町線ホームで爆発します。

この時、片町線ホームには700~800名が避難していたといわれ、殆どの避難者が犠牲となりました。

この悲劇を現代に伝える慰霊碑が、京橋駅南口を東側に出た所に設置されています。

 

令和4年12月の京橋駅爆撃被災者慰霊碑

 

なお、ここでは毎年8月14日に慰霊祭が行われています。

 

この後、大阪メトロ森之宮駅から長堀鶴見緑地線・御堂筋線を乗り継ぎ難波へ向かい帰宅しました。

 

 

明治維新後、大阪は大阪城を中心に「帝国陸軍の軍都」としての一面がありました。

現在もいわゆる軍事遺構が残っており、今回取り上げた以外にも石垣への機銃掃射の跡なども残っています。

 

これまで、帝国陸軍についてはあまり取り上げてきませんでしたが、近場の軍事遺構ということで、その視点で見て回ってみました。

 

ここまで大規模ではないものの、皆様の近くにも軍事遺構があるかもしれません。

 

内堀越しに見る大阪城天守閣