コンクリート船に特化した『幻の造船所』を訪ねて | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

前回、呉市の安浦漁港にある「武智丸」の防波堤を訪れたことを書きましたが、今回はその続きです。

 

安浦漁港からJR安浦駅に帰る途中に、ある碑を見かけました。

 

「安浦海兵団之碑」

 

この碑には、次のように記載されています。

「安浦海兵団は、太平洋戦争を遂行する目的で昭和十九年九月一日呉鎮守府管内に編成された。
本団は国土防衛のために教育訓練を実施し、兵員の補充にあたった。また、昭和二十年八月六日広島原爆の救難にも出動した。
われわれは、二度と戦争を起こさないことを誓い、確かな平和を創造するため本記念碑を建立す。

平成五年十一月吉日 安浦町」

 

戦争後期に呉鎮守府、また分団として設置された大竹海兵団では収容しきれなくなったことから、安浦に海兵団が設置されます。

しかし、その歴史は敗戦により1年ほどで終了します。

 

跡地は、原爆により学校の設備が壊滅した広島県立医学専門学校(後の広島大学医学部)および附属病院、広島女子高等師範学校(後の広島大学教育学部福山分校)、山中高等女学校(後の広島大学付属福山高等学校)などが一時的に移転してきました。

今では、安浦町の中心として中学校、市役所の支所が建つほか、一戸建ての立ち並ぶ住宅街とIHI運搬機械の工場が立地しています。

 

在りし日の安浦海兵団の兵舎

(引用:HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院/USA-R512-1-18:トリミング)

 

JR安浦駅に戻り、三原方面へ向かう列車を跨線橋から見たり、周辺を散策したりして時間つぶしをした後、12時42分発広駅行きの普通電車に乗り、安浦を後にします。

 

JR安浦駅に停車中の12時13分発・三原行の普通電車

 

広駅で乗り換え呉駅で途中下車。レクレの「五エ門」さんで昼食、広島に来たらお好み焼き(広島風)ですね。

 

「五エ門」さんのお好み焼き・そば入り

 

昼食の後、今回は海には向かわず快速「安芸路ライナー」で広島駅、さらに広島駅15時29分発の「のぞみ170号」で姫路に向かいます。

姫路駅には16時25分に着き、山陽電車に乗り換え大塩駅へ向かい、そこから東にこれまた1kmほど歩きます。

なぜ姫路、それも観光地として聞いたことのないような場所?

今回は「武智丸」繋がりでココに寄ってみたいと思ったんです。

 

在りし日の「武智造船所」

(引用:Youtube「呉のコンクリート船」こぞう。。)

 

「武智造船所」の跡地は、現在は「川崎商会 播磨マリーナ」という施設があります。

 

北側から見た「川崎商会 播磨マリーナ」

 

「武智造船所」の創業者の武智正次郎氏は元々は土木工学士で、大阪で大正12年に起業し、昭和12年にはコンクリートの杭打ちを行う土木工事会社である「浪速商事」を設立し経営していました。

また、武智氏はコンクリート基礎杭に複数の節を設け充填材と嚙合わせる「武智式基礎工法」で特許を取り、国内の多数の建造物だけでなく海外にも普及させるなど、基礎土木界では著名な人物だったようです。

 

武智式基礎工法の施工後の状態図

(引用:「日・英・米・独・仏・加奈陀・伊・其他特許武智式基礎工に就て」

武智正二郎、1937年8月、自費出版、第11図)

 

しかし、太平洋戦争開戦による工事は激減、鋼材も不足し更には職員工員が招集されることを憂慮した武智氏は、東條内閣にコンクリート船の建造を建白し、これが認められて建造を行うことになります。


コンクリート船建造のための造船所用地を探した結果、 兵庫県曽根町(現:高砂市)の廃塩田跡地に白羽の矢が立ちます。

そして東側に流れる天川に繋がる2本の素堀り船渠が掘削され、昭和18年3月に武智氏の名前を採用した「武智造船所」として開所を迎えます。

「武智造船所」には、起重機などの設備はないもののコンクリート船の船体建造は可能で、艤装は岡山県玉野の「三井造船玉野事業所」で施工されることとなりました。


終戦後の武智造船所の空撮写真

(引用:HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院/USA-M527-46:トリミング)

 

「武智造船所」の跡地と思われる辺りを囲うフェンスの北端、山陽電車の踏切の近傍に門扉がありました。

 

古めかしい門扉

 

前出の在りし日の「武智造船所」の写真下端に写っている門扉に似ているかもしれませんが、現在の門柱は間隔が狭いようにも見えます。

 

前出の写真の拡大

 

在りし日の「武智造船所」から推測すると、この門扉からが「武智造船所」の敷地であったと思われます。

 

天川の対岸に渡り、河口側に向かいながら「播磨マリーナ」を望みます。

 

天川対岸から望む「播磨マリーナ」

 

「播磨アリーナ」の中には船渠2本を改築し1本化したと思われる堀があり、河口側から望むことができます。

また、天川と堀の間には水門があり船渠のようにも見えますが、これは「天川防潮水門」という防潮目的の水門で、マリーナの設備ではないようです。

 

天川防潮水門越しに播磨マリーナの堀を見る

 

当時の武智造船所の船渠

(引用:Youtube「呉のコンクリート船」こぞう。。)

 

コンクリート船の建造に特化した「武智造船所」は、建造促進のため昭和20年3月に三井造船が経営に参画し「三井造船曽根造船所」と呼ばれるようになり、社史には「昭和20年10月・三井造船の各事業所を閉鎖」と記載されていることから、曽根造船所も閉鎖されたようです。

「武智造船所」は実稼働は2年半ほど、竣工したコンクリート船は4隻のみという、幻のような造船所でした。

 

「武智造船所」閉鎖後の「浪速商事」は、昭和25年に「武智工務所」と改称し、昭和27年からは武智氏が考案した三角杭の生産を開始、その後はコンクリートパイル(杭)の生産を中心として事業を拡大していきます。

 

平成3年には「ジオトップ」と改称し、平成12年に「日本コンクリート工業」と、平成14年には「大同コンクリート工業」と、さらに平成16年には「ヨーコン」とそれぞれ業務提携しています。

 

さらに、平成18年には「ジオトップ」「大同コンクリート工業」「ヨーコン」の製品製造部門を会社分割により分離独立のうえ、「ジャパンパイル」を設立し分社化したのち、平成19年に「ジャパンパイル」が3社を統合し現在に至っています。


 

「ジャパンパイル」は基礎工事関連事業およびそれに関連する事業、およびコンクリートパイル(杭)製造施工等を営む国内子会社の経営管理等を行っています。

また持ち株会社である「アジアパイルホールディングス」は、年商約1千億円という大きな企業となっています。

 

「ジャパンパイル」の外殻鋼管付き高強度コンクリートパイル

(引用:HP「ジャパンパイル株式会社/製品情報(カタログ)」)

 

「浪速商事」から「武智造船所」、戦後は「武智工務所」「ジオトップ」そして「ジャパンパイル」と、一貫してコンクリートを扱ってきた企業の道のりは、武智正次郎氏の「コンクリート魂」を引き継ぎ、連綿と続いているようです。

 

18時頃、播磨マリーナの向こうに夕陽が沈んでいきました。

そして、どうも地区の祭りが催されていたようで、どこからともなく祭囃子と山車を引く人たちの声に背中を押されながら、山陽曽根駅から家路につきました。

 

夕暮れの「播磨マリーナ」

 

【参考文献】

  Wikipedia および

 

 「生産と技術Vol.38、No.3/株式会社武智工務所」薮内貞男、

  1986年夏号、生産技術振興協会、P.26-28

 (HP「一般社団法人 生産技術振興協会」)

 

 「三井造船株式会社50年史」三井造船、1968年3月

 (HP「国会図書館デジタルコレクション/書誌ID:000001173687)

 

 「日・英・米・独・仏・加奈陀・伊・其他特許武智式基礎工に就て」

  武智正二郎、1937年8月、自費出版

 (HP「国会図書館デジタルコレクション/書誌ID:000000727773)

 

 

【Web】

 Youtube「呉のコンクリート船」こぞう。。


 HP「依代之譜 帝國陸海軍現存兵器一覧」

 

 HP「ジャパンパイル株式会社」

 

 HP「YSY ヨコハマ造船所(1.海軍コンクリート造船技術概要。)」

 

 ブログ「安芸の国から/安浦海兵団跡之碑」たか++(たかひろ)氏

 

 HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院