先週の木曜日。
人事課の係長から「上期に取得された有給休暇が5日に達してません。直近でいつ取得しますか?」と聞かれました。
あれ、上期には調整して5日取ったはず?よく確認したら、何度か取り下げた半休を間違って勘定していたようで、確かに0.5日足りない…。
予定を確認し、会議・打合せがなく翌勤務日の準備も比較的少ない日を探すと、「13日の金曜日」なら大丈夫そうです。何か不吉な感じが(笑)
そして、有給休暇を申請し(勤務計画・実績の承認も自分でしますが)休みを取ります。
平日の休暇、当然の如くお出かけします。今回は西へ。
このブログを読まれている方は、また「呉」か?と思われるのではないかと思います。
確かに向かうは呉市。今回も広島駅からJR呉線に乗るものの、「呉駅」を通り過ぎてたどり着いたのはこの駅でした。
JR安浦駅
そして1km少々東に向かって歩き、向かうは安浦漁港。見えてきたのはこの光景です。
これは、防波堤として設置されている2隻の元コンクリート貨物船「武智丸」です。
安浦漁港に設置された防波堤、元「第一武智丸」(左)と「第二武智丸」(右)
この「武智丸」ですが、終戦直前に帝国海軍が輸送船として建造したものです。
コンクリートの船、あまり聞いたことがありませんが、どうなんでしょう。
鉄筋コンクリート船自体は、1849年にフランスで全長2.7mの小型ボートが建造されたのが最初とされ、1918年に米国・サンフランシスコ造船所で建造された貨物船「フェイス」号は、世界最大のコンクリート船でした。
【要目】
排水量8,150トン、総トン数4,500トン、
全長102.57m、全幅13.56m、深さ:6.86m
主機:三段膨張式レシプロ機関×2、出力:1,760馬力、速力:10ノット
※引用:Wikipedia(英語版)
米国・SS ライン貨物船「フェイス」(引用:Wikipedia)
(By Unknown author - Popular Mechanics Magazine July 1918, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7780502)
しかし、コンクリート船体は
①鋼材に比べて厚くなるため大きさの割に積載量が少なくなる
②船体重量が増えるため燃費が悪い
③引張強度が弱く船体の大きさが制限される
等のデメリットから、普及することはなく、日本国内でも建造される機運はありませんでした。
ところが、大東亜戦争が長期化するにつれ、日本国内では貨物船はもとより造船用の鋼材も不足してきます。
これに対し、舞鶴海軍工廠では昭和17年後半から、林邦雄技術中佐を中心に鉄筋コンクリート貨物船の建造を企画します。
まず、鉄筋コンクリート製浮桟橋を試作し良好な結果を得たことから、本格的にコンクリート貨物船の建造が進められます。
コンクリート船の建造に際し、大阪の土木建設業者であった浪速工務所社長の武智正次郎氏による全面的な協力を得ることが決まり、これを受けた武智氏は昭和18年3月に兵庫県曽根町(現・高砂市)の塩田跡に素掘りの造船船渠を建造し「武智造船所」を開設します。
当時の武智造船所
(引用:Youtube「呉のコンクリート船」こぞう。。)
武智造船所では、まず油槽船に曳航させる半没水式の1000トン積石油バージ5基の建造から手掛けることで工員に技術を習得させ、昭和19年に入ると本格的にコンクリート貨物船の建造に移ります。
船の設計には、当時建造が進められていたE型戦時標準船の設計を流用し、まず4隻を武智造船所で建造することが決まります。
コンクリート貨物船の一般配置図
(引用:HP「デジタル造船資料館」
「ふね遺産応募申請添付資/コンクリート貨物船第一武智丸および第二武智丸」
硴崎貞雄、2017年12月、P.16)
船体を武智造船所で建造し、岡山県玉野の三井造船玉野工場で艤装を行た第一船は、昭和19年
6月に竣工し、「第一武智丸」と命名されます。
【要目】
総トン数:800トン、積貨重量:980トン、垂線間長:51.00m、
全幅:10.0m、深さ:6.0m、吃水(満載):5.0m
主機:ディーゼル機関×1、出力:700馬力、速力:(航海)9.5ノット
※引用:「商船戦記」大内建二、2004年12月、光人社、P.357
帝国海軍・輸送船「第一武智丸」
(引用:HP「デジタル造船資料館」
「ふね遺産応募申請添付資/コンクリート貨物船第一武智丸および第二武智丸」
硴崎貞雄、2017年12月、P.16)
「第一武智丸」は、日本における初の本格的な自走式コンクリート貨物船で、続いて「第二武智丸」も竣工します。
E型の貨物船を建造するのに350トンの鋼材を必要とするところ、「武智丸」は135トンとなり当初期待されていた大幅な鋼材の削減を実現し、当初の大きな目的はクリアしています。
竣工した「第一武智丸」は呉海軍工廠に、「第二武智丸」は横須賀海軍工廠に配属され、福岡県若松・呉・大阪間の瀬戸内海を石炭、食糧輸送に従事し、南洋方面へも足を伸ばしたこともあったそうです。
この間、「第二武智丸」は関門海峡と神戸で触雷3回、神戸で戦闘機による機銃掃射1回(弾痕32 ヵ所)を受けますが、その都度入渠することなく数日間の簡単な沖修理後、直ちに復帰し強靭性を示しました。
なお、3番船の「第三武智丸」は、昭和20年に入ってから竣工し佐世保海軍工廠に配属されますが、昭和20年7月10日に瀬戸内海の小豆島沖で触雷して沈没しています。
4番船の「第四武智丸」は、昭和20年8月に竣工しますが、9月17日に神戸沖で台風で座礁したのちに廃船となっています。
戦後、「第一武智丸」は機関故障で呉市警固屋付近で放置され、「第二武智丸」は使用可能で大阪商船が払い下げられますが、まもなく廃船となります。
戦後・呉市警固屋付近に係留されている「第一武智丸」ではないかと思われる船
※一等巡洋艦「青葉」の着底地点の南方
(引用:HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院/USA-M220-21:トリミング)
「武智丸」の説明版
昭和22年に大蔵省から船体の払い下げを受け、昭和24年に基礎工事を開始、スクリューシャフトを撤去のうえ船体底部数箇所に穴を開けて海水を船内に入れ満潮時に沈設、船体両側に捨石を置くなどして船体を固定し、昭和25年2月に防波堤は完成しました。
防波堤となった2隻は、陸側に「第一武智丸」、海側に「第二武智丸」を並べた状態で、船尾を合わせて沈設されています。
「第二武智丸」(右手前)と「第一武智丸」(左奥)
この2隻は、船首部分に補強の鋼板が張ってあるので、船首がさびて黒く映っています。
訪れた時間は潮が高く、「第一武智丸」の船体内には海水が満ちていました。
船内に海水が満ちた状態の「第一武智丸」
桟橋と接続されている「第一武智丸」の船首
錨鎖の通る錨孔が2つ見えます
船尾側からみた「第二武智丸」
2隻の船体には歩行路と階段が設置されており、また「第二武智丸」の先に防波堤が延長され、先端には赤い灯台が設置されています。
右舷側から見た「第二武智丸」
「第二武智丸」の右舷船体には『海の守り神 武智丸 港内減速』と書かれた看板が取り付けられています。
「武智丸」を見に行く場合、JR呉線は広島方・三原方からの双方とも1時間に1本程度の運転間隔になっています。
今回、広島駅を9時29分発の快速「安芸路ライナー」に乗り、終点の広駅で普通列車に乗り継ぎ安浦駅の到着が10時40分。
安浦駅から広島方面へ向かう場合、11時12分から12時42分まで電車がないですし、駅前から港までの間にスーパーやコンビニはありませんので、ご注意ください。
また、「武智丸」の手前にはフェンスがあり、通路の入口にある扉には鍵が掛かっていますので、普段は入れません(事前にまちづくり協議会に申し込めば、職員立会いのもとで見学できるようです)。
戦後の日本海運においては、そのデメリットからコンクリート船は建造されていません。
時代のアダ花として建造され、船としては大きな功績を残せなかったものの、防波堤として73年に亘り人々の生活を守り続け、今後もその任務に当たり続ける「武智丸」。
形の残る戦前・戦時中の船舶を間近で見ることができる貴重な存在として、末長くその姿を見せ続けて欲しいものです。
「武智丸」に守られた安浦漁港
【参考文献】
Wikipedia(英語版含む) および
【Web】
Youtube「呉のコンクリート船」こぞう。。
HP「デジタル造船資料館」
HP「地図・空中写真検索サービス」国土地理院