敗戦国の悲哀・仏国拿捕船「帝立丸」の復旧工事 | 艦艇・船舶つれづれ

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最近読んだ書籍『「客船がゆく」土井全二郎、1991年7月、情報センター出版局』の中に、気になる船を見つけました。

 

「客船がゆく」土井全二郎、1991年7月、情報センター出版局

 

その船は、「帝立丸」という名の貨客船です。

 

この貨客船は、仏国のメサジュリ・マリティム社がSOCプロバンスへ発注し、大正12年(1922年)10月に進水した客船「ル・コンテ・ド・リル」でした。

当初は電気式減速機付きタービン機関を搭載し試験を行いましたが、結局三段膨張式のレシプロ機関に換装されて本運用に入りました。

【要目】

 総トン数:9,877トン、重量トン数:7,742トン、

 長さ:138.7m、幅:18.6m、深さ:11.4m 

 主機:(1922年)減速機付電気式タービン機関×2

    (1925年)三段膨張式レシプロ機関×2

 主缶:(1925年)缶×6

 出力:(1922年)約5,000馬力、(1925年)4300馬力

 速力:(1922年)15.7ノット、(1925年)13.5ノット

 旅客定員:(1925年)一等:88名、二等:72名、三等:72名

      (1950年)一等:85名、その他:36名

 ※引用:HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」

     および「外国籍拿捕船要覧」宮田幸彦、2015年12月、自費出版、P.164

 

 

竣工時のメサジュリ・マリティム社・貨客船「ル・コンテ・ド・リル」

(引用:HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」)

 

主機換装後の貨客船「ル・コンテ・ド・リル」

(引用:HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」)

 

主機換装が完了した「ル・コンテ・ド・リル」は、大正14年(1925年)6月に仏国からマダガスカルに向け処女航海を行った後、印度航路およびインドシナ航路へ充当されます。

 

第二次世界大戦の開戦後、昭和15年(1940年)6月から12月までの6か月間、マダガスカルのディエゴ・スアレスで抑留されています。

 

その後マルセイユに戻り、昭和16年(1941年)4月にケープタウン経由でインドシナへ向け出港、仏印のサイゴン(現ベトナム・ホーチミン)に到着し、その後は仏印を中心とした航路に投入されます。

 

そして、大東亜戦争の開戦により、昭和17年(1942年)6月にはサイゴンで大日本帝国に拿捕され、国策会社である帝国船舶に編入のうえ「帝立丸」と改名、大阪商船の傭船により運行する形となりました。

 

拿捕後の「帝立丸」

(引用:「客船がゆく」土井全二郎、1991年7月、情報センター出版局、P.143)

 

そして、帝国海軍の指定船となり昭和18年9月から輸送船団に加わり台湾・高雄間の輸送船団に加わり、昭和19年5月からはフィリピン・マニラ、サイゴンなどにも足を延ばします。

 

昭和20年(1945年)4月からは朝鮮半島と日本海側の門司・敦賀などの間で輸送任務に就きますが、昭和20年(1945年)7月28日に西舞鶴を出港し若狭湾を航行中に触雷、浸水が激しく19時30分頃に舞鶴港外の博変岬陸軍桟橋の南方に擱座することで沈没を免れ、この状態で終戦を迎えます。

 

舞鶴で主機換装後の貨客船「帝立丸」

(引用:HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」)

 

航空写真に記録された擱座状態の「帝立丸」

(引用:HP「地図・空中写真閲覧サービス」国土地理院、USA-M624-523)

 

終戦から1年ほど経つと、GHQから「引揚可能なものは、すべて浮揚させ、修理復旧して旧所有者へ返還せよ」という命令が出されます。

 

そして、ここから敗戦国への嫌がらせのような要求が始まります。
「帝立丸」は、昭和22年(1947年)6月から引揚作業が始まりますが、船首部分は岩盤に食い込み、船尾はいたるところに亀裂が入り海底に沈んでいます。また、既に船齢は25年に及び、船体も老巧化しています。

 

戦後の混乱期、資材不足と食糧不足、そして老巧化し腐食した船体の浮揚作業は困難を極めますが、なんとか昭和23年(1948年)8月に浮揚に成功します。この浮揚成功を「奇跡」として米国のラジオニュースは伝えたといいます。

 

浮揚した「帝立丸」

(引用:「客船がゆく」土井全二郎、1991年7月、情報センター出版局、P.150)

 

更に船内の艤装について、戦勝国の仏国からは「プールを造れ」「サロン・スモーキングルームの装飾は日本調にしろ」、更には電気洗濯機・電気レンジ・パン焼き機など、元の「ル・コンテ・ド・リル」についていなかったと思われるものまで次々と要求されます。

ここは敗戦国の悲哀で、これらの不当とも言える要求は吞まざるを得ず、約3年半をかけて復旧工事が行われました。

 

そして昭和25年(1950年)12月に横浜港で仏国側に引き渡され、船名も「ル・コンテ・ド・リル」に戻されました。

この時点で「ル・コンテ・ド・リル」は28歳の「老嬢」でしたが、船内はピカピカの新造船に変わっていました。

 

復旧作業が完了した「帝立丸」

(引用:「客船がゆく」土井全二郎、1991年7月、情報センター出版局、P.154)

 

仏国に戻った「ル・コンテ・ド・リル」は昭和27年(1952年)まで戦前に就航していたインド洋航路に就いていたようですが、その後は兵員輸送車として使用されています。

昭和29年(1954年)にはインドシナから軍隊の一部を送還し、その後アルジェリアに軍隊を輸送しています。

 

1950年代・マルセイユにおける「ル・コンテ・ド・リル」

(引用:HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」)

 

日本で苦心の末に整備した豪華な内装は2年ほどしか機能せず、最後は軍隊輸送の専用船とされ、昭和31年(1956年)2月に廃船となり解体されました。

 

戦後の日本人が戦勝国の嫌がらせに対し、血のにじむような努力の末に復旧させた貨客船を、いとも簡単にその用途から外して捨て駒のように使用する、という敗戦国の悲哀を味わいました。

言わば「勝てば官軍」という、これも戦争のもつ醜い一面と言えるでしょう。

 

「ONI 208-J 日本商船識別マニュアル」のP.18

「帝美丸(表記は「帝?丸」)」と「帝立丸

 

 

【参考文献】

 

 

 

「外国籍拿捕船要覧」宮田幸彦、2015年12月、自費出版

 

 

【Web】

 HP「PATRIMOINE INDUSTRIEL」

 

 HP「大日本帝國海軍 特設艦船 DATA BASE」戸田S.源五郎氏

 

 HP「地図・空中写真閲覧サービス」国土地理院