先代の戦艦も漂流・ブラジル海軍「サン・パウロ」 | 艦艇・船舶つれづれ

艦艇・船舶つれづれ

旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

昨日は幽霊船のようにブラジルの沖を漂っている旧航空母艦「サン・パウロ」を取り上げました(地球の反対側の「幽霊空母」の行方は?)。

 

この「サン・パウロ」という艦名には先代がいます。

その先代「サン・パウロ」について、今回は取り上げてみます。

 

ブラジルでは、英国で新鋭艦「ドレッドノート」が建造された情報を得て、これまでの主力艦が時代遅れの産物になると共に、この「ドレッドノート」と同型式の戦艦を早期に整備すれば、ブラジルのような中小国家の海軍でも列強海軍と対等の戦力を保有できるとして、弩級艦の入手を計画します。

 

英国海軍・戦艦「ドレッドノート」(引用:Wikipedia)

(not stated - U.S. Naval Historical Center Photograph (#: NH 63596), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=831199による)

 

そして弩級艦の設計を英国のアームストロング社に依頼、1番艦「ミナス・ジェライス」はアームストロング社のエルスウィック造船所で、2番艦「サン・パウロ」はヴィッカース社のバロー・イン・ファーネス造船所で建造されることとなりました。

 

「サン・パウロ」は1907年4月に起工され、1909年4月に進水、1910年7月に竣工します。

帝国海軍初の弩級艦である戦艦「河内」の竣工が1912年3月であることから、日本よりも早く弩級艦を手にしたことになります。

【要目】

 常備排水量:19,281トン、全長165.5m、幅:25.3m、吃水:7.6m

 機関:直立型3段膨張式レシプロ機関×2、推進軸:2軸

 主缶:バブコック式水管缶(石炭専焼)×18、

 出力:23,500馬力、速力:21.0ノット

 兵装:30.5cm45口径連装砲×6、12cm50口径単装砲×22、

    47mm単装砲×8

 装甲:(舷側)152mm、(甲板)76mm、(バーベット)229mm、

    (砲塔前楯)305mm、(司令塔)305mm

 ※引用:世界の艦船別冊「近代戦艦史」別冊第83集、

       No.697、2008年10月、海人社、P.80

 

ブラジル海軍・戦艦「サン・パウロ」(引用:Wikipedia・ポルトガル語版)

(Por Brazilian Navy (foto: SDM - Serviço de Divulgação da Marinha do Brasil) - [1]; original source established by comparing [2] (note f01 in the web address) to this, Domínio público, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19997151)

 

「ミナス・ジェライス」級戦艦は、英国が建造した戦艦としては、初めて主砲を背負式(主砲を前後に重ねた配置方法)を採用した艦で、これ以降の戦艦の標準的な砲塔配置となっていきます。

 

「ミナス・ジェライス」級の2隻の戦艦の完成により、ブラジルは隣国アルゼンチン、チリとの軍事力バランスが崩れ関係が悪化します。

結果、アルゼンチンは弩級艦「リバダビア」級2隻を、チリは超弩級艦「アルミランテ・ラトーレ」を獲得することになり、3 国間のバランスは保たれることとなりました。

 

アルゼンチン海軍・戦艦「リバダビア」(引用:Wikipedia・英語版)

(By Nathaniel Livermore Stebbins (1847–1922) - [1] -- this photo is also part of a non-digitized Library of Congress collection: "The Argentine dreadnaught Rivadavia at sea during her speed trials, broadside views", Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11051454)

 

第一次世界大戦ではブラジルは当初中立国でしたが、1917年に独国に宣戦布告すると、「サン・パウロ」は「ミナス・ジェライス」とともに英国のグランドフリートへの参加を打診します。

しかし、英国はブラジルの戦艦の遅れと、更新された火器管制システムが搭載されていないことから支援を拒否します。

それでも1918年6月には米国に向けて戦闘準備態勢で出航し、1919年11月にかけて米国で一連の近代化改装を受け、グランドフリートへの編入条件をクリアします。

しかし、第一次世界大戦には間に合いませんでした。

 

1920年代の「ミナス・ジェライス」級戦艦(引用:Wikipedia・ポルトガル語版)

(Por Brazilian Navy - [1]; I can only assume that they forgot to link to the image either here or here, depending on which ship it actually is., Domínio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14917368)

 

近代化改装後の「サン・パウロ」は、内政不安による兵士の反乱鎮圧のため1922年7月と1924年12月の2回に亘りコパカバーナ砦へ砲撃を行っています。

 

「ミナス・ジェライス」は1931年から1938年にかけて2度目の大規模な近代化改装が行われましたが、「サン・パウロ」は1934年から1940年にかけて大規模な整備を行うにとどめられました。

その後の「サン・パウロ」の状態は不良で、最高速度は建造時の半分である 10 ノットにも達しない状況であり、第二次世界大戦中はペルナンブコ州のレシフェに移され、海上砲台として使用されました。

 

第二次世界大戦中の「サン・パウロ」(引用:Wikipedia・ポルトガル語版)

(Por Brazilian Navy - [1]. Archived at [2]. I assume that the Brazilian Navy has forgotten to link to the image here, like they have done with their other warships., Domínio público, 

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38374791)

 

「サン・パウロ」は1945年1月にリオ・デ・ジャネイロ戻りますが、翌年には事実上退役し、1947年8月には除籍されます。

そして、第二次大戦後に鉄不足となっていた英国でスクラップにされることとなり、1951年9月に英国のアイアン・アンド・スティール・コーポレーション・オブ・グレート・ブリテン造船所へ向けてタグボートに牽かれてリオ・デ・ジャネイロを離れます。

 

しかし、11月初めにアゾレス諸島の北で嵐に遭遇してしまいます。

11月6日には大時化となり、タグボートから「サン・パウロ」が視認できず、さらに「サン・パウロ」がタグボートを引き摺りだし、タグボートに損傷が出始めたことから曳索を切断し、「サン・パウロ」は大時化の洋上を漂流することになります。

その後、漂流している「サン・パウロ」を曳船はもとより、米国、ポルトガル、英国の航空機も捜索に参加しましたが、「サン・パウロ」を発見することはできず、「サン・パウロ」は乗組員8名を乗せたまま忽然と消えてしまいました。

 

1954年10月14日、イギリス商務省は、「サン・パウロ」は1951年11月4日17時45分に北緯30度49分 西経23度30分で沈没したとの報告書を公表しています。

 

スクラップとなるため、ブラジルを離れ曳航中に漂流し姿を消した戦艦「サン・パウロ」。

対して、同じようにスクラップとするためブラジルを離れたものの、引き取り手が亡くなりブラジル沖で漂流している航空母艦「サン・パウロ」。

「サン・パウロ」は、何やら因縁めいた艦名となってしまいました。

 

乗組員が登舷礼を行う「サン・パウロ」(引用:Wikipedia・ポルトガル語版)

(Por Brazilian government - Marinha do Brasil Flickr (note: as a work of the government commissioned prior to 1983, the listed copyright is wrong. See below for licensing.)A different version is available at the Marinha do Brasil Facebook page., Domínio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61087855)

 

以前、帝国海軍と海上自衛隊の「いなづま」の3代にわたる事故(周防大島沖・護衛艦「いなづま」航行不能事故)、日本郵船の貨客船「常陸丸」の2代にわたる戦没(日露戦争の悲劇「常陸丸事件」)(先代に続く悲運の船・日本郵船「常陸丸(二代目)」)について、取り上げていますが、艦船の名前とその境遇には、何か因縁めいたものを見ることがあります。

 

太古から続く「海と船の歴史」において、このような話は少なからず聞くことができます。

今回は、そんな話を取り上げてみました。

 

【参考文献】

 Wikipedia(英語版・ポルトガル語版を含む) および

 

 世界の艦船別冊「近代戦艦史」別冊第83集、No.697、2008年10月、海人社

 

※前の記事を追記し、投稿日時を変更したたことから順番が変わったので、併せるために再投稿します。