日露戦争の悲劇「常陸丸事件」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

なかなか在宅勤務には慣れません。自宅には、誘惑が多くて(笑)。

 

今回は、日露戦争時のある事件を取り上げます。

今から118年前の6月である日露戦争中の明治37年6月14日、帝国陸軍に徴傭された日本郵船の貨客船「常陸丸」は歩兵第一連隊を載せて同じ日本郵船の貨客船「佐渡丸」とともに広島・宇品を出港し、「常陸丸」は大孤山、「佐渡丸」は塩大澳を目指します。

 

「常陸丸」は、欧州航路の貨客船として三尾長崎造船所で明治29年12月に起工され、明治31年8月に就役します。

【要目】

 総トン数:6,172トン、垂線間長:135.6m、幅:15.0m、深さ:10.2m 

 機関:三連成レシプロ機関×2、推進軸:2軸

 最高出力:3,847馬力、最高速力:14.2ノット

 客室定員:(一等)24名、(二等)20名、(三等)116名

 出典:世界の艦船別冊「日本の客船(1)1868-1945」

     野間恒・山田廸生、1991年7月、海人社、P51

 

日本郵船・貨客船「常陸丸」(引用:Wikipedia)

(不明 - 山高五郎(著)『図説 日の丸船隊史話』p.102, パブリック・ドメイン,

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20718912による)

 

就役後の「常陸丸」は6年近く欧州航路に就航のした後、日露戦争の開戦に伴い明治37年2月に帝国陸軍に徴傭されます。

 

「常陸丸」が宇品を出港する前の明治37年6月12日、露国ウラジオ艦隊の装甲巡洋艦「リューリク」、「ロシア」、「グロモボーイ」がウラジオストクを出撃します。

 

露国海軍・装甲巡洋艦「リューリク」(引用:Wikipedia)

(不明 - Архив фототографий кораблей русского и советского ВМФ., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4045849による)

 

露国ウラジオ艦隊と「常陸丸」「佐渡丸」は、明治37年6月15日午前10時~11時の間に福岡・沖ノ島の沖で遭遇します。

ウラジオ艦隊は、はじめ空砲を発射し、間もなく「常陸丸」「佐渡丸」に向けて実弾を発射します。

これに対し、「常陸丸」は全速力で後方への遁走を図ります。

しかし、ウラジオ艦隊が発射した一発が「常陸丸」の機関部に命中し、その後は近接射撃により戦死者が続出して機関は破裂し、やがて第三甲板から出火します。

 

露国海軍・装甲巡洋艦「ロシア」(引用:Wikipedia英語版)

(By Unknown author - Архив фототографий кораблей русского и советского ВМФ., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4035561)

 

砲撃に見舞われた「常陸丸」の船内は第一連隊の兵員の血で染まり、わずかに残った第一連隊将兵は小銃で反撃するものの圧倒的な攻撃力の差は如何ともし難く、英国人のジョン・キャンベル船長を含めた乗組員も次々と斃れていきました。

 

歩兵第一連隊の連隊長であった須知源次郎中佐は、砲弾が命中して負傷したのち切腹し、残る将校も連隊旗や重要書類の焼却を見届けると切腹・拳銃自殺・海中への投身自殺で連隊長の後を追います。

 

さらに「常陸丸」は三度目の一斉射撃を受け、15時頃に玄海灘へ沈んでいきました。

この時、一緒に航行していた「佐渡丸」は退船の猶予を得た後に、同じくウラジオ艦隊の砲撃を受け沈没しています。

 

日本郵船・貨客船「佐渡丸」

(引用:世界の艦船・別冊「日本郵船 船舶100年史」1984年9月、海人社、P.102)

 

「常陸丸」の戦死者は陸軍958名、海軍3名、乗組員130名の計1,091名に達する悲劇となり「常陸丸事件」と呼ばれることとなりました。

 

「常陸丸」の悲壮な乗員の行動は大日本帝国軍人の立派な最期として万世に伝えるべき事蹟であるとされ、千鳥ヶ淵公園に「常陸丸殉難慰霊碑」が建てられ、引き上げられた遺骨の合同墓が「常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓」として青山霊園に建てられました。

このうち「常陸丸殉難慰霊碑」は、大東亜戦争後に「国民の敵愾心を刺戟し且つ国際友好を害する虞れがある」という東京都の「忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会」の勧告で一度撤去されましたが、昭和40年に靖国神社境内に移設の上再建されています。

 

靖国神社の「常陸丸殉難慰霊碑」

 

なお、国内では当時ウラジオ艦隊を警戒していた第二艦隊が、6月15日8時頃には防護巡洋艦「対馬」から沖ノ島近海でウラジオ艦隊を発見したとの報を受けていたにもかかわらず、ウラジオ艦隊を取り逃がしたとして、激高した民衆によって第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将の自宅が襲撃され、また代議士の演説会でも「濃霧濃霧と言えども、逆さに読めば無能なり」云々と煽り立てたりと世論が沸騰します。

 

さらに事件後、当時の新聞・雑誌などは事件をセンセーショナルに報道し、関係した軍人らの「壮烈な戦死」が宣伝され、旗を焼却した大久保少尉らの行動を歌った歌が作られ流行しています。

Wikipediaには『朝日新聞など当時の新聞・雑誌などを含むそれらの宣伝の中では「将校は船と運命を共にせよ、下士官以下は一人でも多く生還し実情を報告せよ」という須佐中佐の命令を忠実に遂行し、多くの将校らは死亡した、とされている。』そうで、朝日新聞を筆頭に、マスコミは今も昔も体質は変わりませんね。

 

今回は、日露戦争時の悲劇の部隊となった「常陸丸」について取り上げてみました。

 

日本郵船:貨客船「常陸丸」

(引用:世界の艦船・別冊「日本郵船 船舶100年史」1984年9月、海人社、P.102)

 

なお、「常陸丸」の名は「常陸丸」の代替船として建造された船に引き継がれますが、この船にも逸話があります。また、次の機会に取り上げようと思います。

 

【参考文献】

 Wikipedia(英語版含む) および