二代目よりもさらにジミな艦・戦艦初代「香取」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今日は昼に土砂降り。晋大阪では近所のビルに落雷が。

 

ところで、先日は練習巡洋艦「香取」の模型を購入したことをブログで紹介しましたが、「香取」には先代がいることを以前取り上げています(練習巡洋艦「香取」を偲んで)。

 

初代の「香取」は戦艦で、最後の海外製の戦艦でした。その後に海外で建造された主力艦は巡洋戦艦「金剛」のみです。

 

戦艦「香取」は、帝国海軍が日露戦争に備えて当時英国で建造中であった「キング・エドワード7世」型戦艦を基に、ビッカース社に明治37年2月に発注されました。

 

英国海軍・戦艦「キング・エドワード7世」(引用:Wikipedia英語版)

(不明 - Naval History and Heritage Command (catalog number: NH 58975) [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87402153による)

 

なお、姉妹艦の「鹿島」はアームストロング社に発注され、細部をそれぞれの造船所に一任したことから、船体の大きさや機関の出力などは異なっています。

【要目(新造時)】

 常備排水量:15,950トン、垂線間長128.0m、幅:23.8m、吃水:8.2m

 機関:三連膨張式レシプロ機関×2、缶:ニクロス式×20、推進軸:2軸

 出力:16,000馬力、速力:18.5ノット

 兵装:30cm45口径連装砲×2、25.4cm45口径単装砲×4、15cm単装砲×12、

     8cm単装砲×16、47mm単装砲×3、45cm魚雷発射管×5

 ※出典:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会編、1977年10月、原書房、P.776~777

 

戦艦「香取」(引用:Wikipedia)

(不明 - Naval History and Heritage Command (catalog number: NH 58975) [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87402153による)

 

「香取」は明治37年4月、「鹿島」は明治37年2月に起工されましたが、日露戦争には間に合わず、「香取」・「鹿島」両艦ともに戦争終結後のは明治39年5月に竣工しています。

 

戦艦「香取」の進水

(引用:「別冊 1億人の昭和史 日本海軍史」1979年7月、毎日新聞社、P.105)

 

「香取」はそれまでの戦艦の形態を継承した艦型で建造されましたが、本艦を建造中の英国では明治38年10月に革新的な戦艦「ドレッドノート」を起工し、「香取」竣工の7カ月後の明治39年12月には「ドレッドノート」を竣工させています。

このため、「香取」型戦艦は当時世界最大の戦艦ではあるものの、旧式戦艦の烙印を押されてしまいます(「超ド級」の語源、英国戦艦「ドレッドノート」の進水)。

 

戦艦「ドレッドノート」(引用:Wikipedia)

(not stated - U.S. Naval Historical Center Photograph (#: NH 63596), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=831199による)

 

「香取」は竣工後、横須賀へ回航されますが、その途中の明治39年8月のシンガポールから横須賀へ向かう途中に、宮古島の南にあるとされたイキマ島を捜索します。

快晴無風で展望は良好であったにもかかわらず、島影を見出すことはできず、海水の変色も確認できなかったことから、イキマ島は存在しないことを確認しています。

 

明治39年8月、裕仁親王(後の昭和天皇)が秩父宮雍仁親王と共に横須賀で「香取」を見学されています。明治39年10月には、明治天皇皇太子(後の大正天皇)も横須賀で他の艦艇と共に巡覧されています。

明治40年5月には、皇太子(後の大正天皇)の山陰行啓に先導艦として「香取」も参加しています。

さらに明治40年10月には、皇太子の大韓帝国および九州・四国地方を巡啓に御召艦として参加し、明治44年8月には、皇太子の北海道行啓に御召艦として参加しています。

大正2年11月に東京湾で行われた観艦式では、「香取」は大正天皇の御召艦となります。

 

大正3年10月には第一次世界大戦により中部太平洋に進出し、マリアナ諸島サイパン島の占領に参加し、この時に「香取」の艦内神社から分祀して、同島ガラパン町に「香取神社」を創建しています。

なお、「香取神社」は、昭和6年10月に新社殿が竣工して遷座、さらに天照大神・大国主命を合祀し、社名を「彩帆(さいぱん)神社」と改称します。

大東亜戦争により昭和19年に社殿を焼失しましたが、昭和60年11月に日本の香取神社連合会などの手により神社は再建され、「彩帆香取神社」と命名され今日に至ります。

 

「彩帆香取神社」(引用:Wikipedia)

(あばさー - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11522006による)

 

大正6年7月、大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の山陰沿岸から瀬戸内方面への行啓に御召艦として参加しています。さらに大正9年3には、皇太子の四国・九州地方の巡啓に御召艦として参加しています。

 

大正10年には皇太子渡欧に際し「香取」と「鹿島」は遣欧艦隊を編成、「香取」は御召艦となります。この時、英国に対する好誼の表現として敢えて英国製の「香取」「鹿島」を使用したと言われます。

 

欧州への往路・現スリランカ・コロンボに停泊中の「香取」

(引用:「皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第3巻」)

 

この航海では、大正10年4月7日には機関部で事故が発生、死者2名・負傷者2名を出し、4月16日には、スエズ運河通過中に「鹿島」が座礁し「香取」と衝突しかける事故が発生するなど、多難な航海でした。

 

「香取艦上に於ける御着英記念撮影」

(引用:「皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第4巻」)

 

そして、5月7日に遣欧艦隊は英国・ポーツマス軍港のスピットヘッドへ到着し、その後仏国、伊国と歴訪し、9月3日に帰着しています。

 

大正12年に締結されたワシントン海軍軍縮条約により、「香取」は廃艦が決定し大正12年9月に除籍され、舞鶴工作部で解体されて姿を消します。

 

大正13年7月・三菱重工業長崎造船所で解体中の戦艦「香取」の姉妹艦「鹿島」

(引用:「丸スペシャル 戦艦長門型」No.114、1986年8月、P.68)

 

現在でも、香取神宮の宝物庫には「香取」の艦首に装備されていた菊花御紋章が保管・展示されていますが、この菊花御紋章は、大正天皇皇太子の欧州訪問時に「香取」が装着していたもので、大正12年)12月に海軍省より香取神宮に奉納されたものになります。

この御紋章はHP「依代之譜 帝國陸海軍現存兵器一覧」に写真が掲載されています。

 

こうして戦艦「香取」の生涯を辿ってみると、日露戦争後の平和な時代に竣工し、第一次世界大戦では南洋群島の占領に出撃するもののドイツ東洋艦隊の逃亡により戦闘らしい戦闘はなく、これと言った戦歴はありません。

強いて言えば、大正10年の皇太子渡欧ともなう遣欧艦隊としての欧州派遣が華々しい経歴であったと思われる、影の薄い戦艦です。

 

今回の記事を書くにあたり、戦艦「香取」型に関する文献や資料を探しましたが、めぼしい物は殆ど見つかりませんでした。

唯一「香取」型戦艦をテーマにしているのは、ディアゴスティーニ・ジャパンから発行された「栄光の日本海軍パーフェクトファイル」No,137、「戦艦香取型」がある程度です。ただ、この冊子も最初の数ページに特集されているのみでした。

 

「栄光の日本海軍パーフェクトファイル 戦艦香取型」

No.137、2020年11月、ディアゴスティーニ・ジャパン

 

この時期の戦艦は「安芸」型と共に「ジミ艦」となっていますね。

 

これでは寂しいので、ネットで見つけた数少ない戦艦「香取」グッズを紹介します。

「皇太子裕仁帰朝記念切手 大正10年 軍艦香取と鹿島」です。1銭5厘の額面です。これには額面と色の違う数種類の切手が発行されているようです。

 

 

本来なら華のある「戦艦」でありながら、こんな地味な生涯を辿った艦もあったこと、知っていただけたら嬉しいですね。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

【Web】

HP「国会図書館 デジタルコレクション」

HP「香取神宮」

 

HP「依代之譜 帝國陸海軍現存兵器一覧」