NHK歴史秘話ヒストリアでトラック島空襲についての話をするとのこと。録画しておいたので本日見てみました。その中で攻撃を受け炎上中の練習巡洋艦「香取」の画像が出てきました。このブログで使用している名前として使用させていただいている練習巡洋艦「香取」です(写真は「香椎」ですが)。
そういえばトラック島空襲で多くの艦船が犠牲になった日は2月17日、明日であることを思い出しました。今回は練習巡洋艦「香取」についてです。
「香取」という名は千葉県の香取神宮から採られたもので、初代は日露戦争後に備えて英国に発注された戦艦でした。しかし建造中に日露戦争が終結し、竣工は戦後の明治39年になってからでした。
【要目(新造時)】
常備排水量:15,950トン、垂線間長128.0m、幅:23.8m、吃水:8.2m
機関:三連膨張式レシプロ機関×2、缶:ニクロス式×20、推進軸:2軸
出力:16,000馬力、速力:18.5ノット
兵装:30cm45口径連装砲×2、25.4cm45口径単装砲×4、15cm単装砲×12、
8cm単装砲×16、47mm単装砲×3、45cm魚雷発射管×5
※出典:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会編、1977年10月、原書房、P.776~777
戦艦「香取」(出典:Wikipedia)
竣工後は、大正天皇、昭和天皇が皇太子時代に行啓される際に度々乗艦され、国内だけではなく欧州まで遠征しています。また、大正2年の観艦式では御召艦にもなっています。
ワシントン海軍軍縮条約が締結されると、本艦は廃艦の対象となり、大正12年9月に除籍、14年1月に舞鶴において解体が完了し姿を消します。
今回の本題である二代目「香取」は練習巡洋艦に命名されます。
昭和初期まで、士官候補生の遠洋航海には日露戦争当時の装甲巡洋艦が活用されていましたが、老巧化により代艦が必要となりました。以前ブログで書いた通り、二等巡洋艦「球磨」型の転用も考えられました。しかし、その後の情勢から新しく練習艦を建造することとなり、建造されたのが「香取」型です。
練習艦として海外に赴くことも多いため、艦容は威厳があるよう考慮されましたが、戦闘用艦艇ではく予算の制約もあるため船体構造は商船並みとされました。また、訓練生の教育の観点から兵装は主砲、高角砲、魚雷発射管など一式を揃え、タービンとディーゼルの2つの機関を積むなど、練習艦として配慮されています。
私は、この「香取」型の船体の大きさの割に堂々とした艦容と、若干マイナーな存在であるところが好きで名前を拝借した次第です。
【要目(新造時)】
基準排水量:5,890トン、垂線間長123.5m、幅:16.0m、吃水:5.8m
機関:艦本式オール・ギヤードタービン×2、艦本式ディーゼル×2、
主缶:ホ号艦本式(重油専焼)×3、推進軸:2軸
出力:8,000馬力、速力:18.0ノット、乗員数:315名(他に候補生375名)
兵装:14cm50口径連装砲×2、12.7cm40口径連装高角砲×1、25㎜連装機銃×2、
53cm連装魚雷発射管×2、水上偵察機×1、射出機×1
※引用:世界の艦船別冊「日本巡洋艦史」No.441、19921年9月、海人社、P.130
(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1214696)
「香取」は三菱重工横浜船渠で建造され、昭和15年2月に就役、同じく新造された同型艦「鹿島」とともに遠洋航海に使用されますが、国際情勢の悪化から朝鮮・上海方面へと短縮され、これが最後の練習艦隊による遠洋航海となります。
そして昭和16年に入ると潜水艦部隊である第六艦隊の旗艦としてトラック島を基点として活躍します。
しかし、昭和19年2月17日にトラック島から船団とともに内地へ向けて出発しようとしていたところに、米機動部隊の大規模空襲を受け炎上、さらに米水上部隊の戦艦、巡洋艦等の砲撃をうけ沈没します。
この写真が「歴史秘話ヒストリア」で登場したものです。
戦後になって、この「香取」の名を継ぐ艦が登場します。
先代と同じく練習艦として昭和43年に海上自衛隊の「かとり(TV-3501)」が就役します。
本艦も先代「香取」と同じく幹部候補生の遠洋航海を担当する艦として運用され、平成10年に退役しています。28年の就役期間で209ヶ国307港に寄港し、練習艦として十分な活躍をしました。