今回は、今から115年前の昨日(2月10日)に進水した、ある戦艦について取り上げます。
日本の戦艦ではありませんが、エポックメーキングな戦艦でした。その名は「ドレッドノート」と言います。
戦艦「ドレッドノート」は、明治38年10月にポーツマス造船所で起工され、翌39年2月10日に進水します。
そして、この年の12月10日に竣工し、起工から1年10か月というハイスピードで建造されました。
同時期に英国で建造された帝国海軍の戦艦「鹿島」が、明治37年2月に起工、明治39年5月に竣工と2年3か月かかっていることから、その建造スピードは相当速いものでした。
【要目】
常備排水量:18,110トン、全長160.6m、幅:25m、吃水:8.1m
機関:パーソンズ式直結タービン機関×4、
主缶:バブコック・アンド・ウィルコックス式水管缶(混焼缶)×18
推進軸:4軸、出力:23,000馬力、速力:21.0ノット、乗員数:773名
兵装:30.5cm45口径連装砲×5、7.6cm45口径単装砲×27、45cm水中魚雷発射管×5
※出典:世界の艦船「近代戦艦史」増刊第22集、No.377、1987年3月、海人社、P17
およびWikipedia
英国・戦艦「ドレッドノート」(引用:Wikipedia)
(not stated - U.S. Naval Historical Center Photograph (#: NH 63596), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=831199による)
戦艦「ドレッドノート」の艦型図(引用:Wikipedia)
(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=744084)
「ドレッドノート」の特徴は、
①中間砲・副砲を装着せず単一口径の連装主砲塔5基を極力中心線上に搭載し、片舷火力で最大4基
8門を向けることができ、片舷の主砲による砲力が、従来の戦艦の2倍となっている。
②世界の従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度なのに対し、蒸気タービン機関の搭載により
21ノットの高速航行が可能
で、それまでの戦艦とは設計思想が全く異なっていました。
帝国海軍の戦艦「鹿島」と比較してみましょう。
【要目】
常備排水量:16,4000トン、全長143.3m、幅:23.8m、平均吃水:8.1m
機関:直立3気筒3段レシプロ蒸気機関×4、主缶:バニクロース缶(混焼缶)×20
推進軸:4軸、出力:15,800馬力、速力:18.5ノット、乗員数:864名
兵装:30.5cm45口径連装砲×2、725.4cm45口径単装砲×4、15.2cm45口径単装砲×12、
7.6cm40口径単装砲×16、47㎜単装砲×3、45cm水中魚雷発射管×5
※出典:世界の艦船「近代戦艦史」増刊第24集、No.391、1988年3月、海人社、P37
戦艦「鹿島」(引用:Wikipedia)
(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=883649)
戦艦「香取」型艦型図(引用:Wikipedia)
(artist not identified - Plate 31 in Brassey's Naval Annual 1923.Downloaded from https://archive.org/details/brasseysnavala1912brasuoft, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6238409による)
「鹿島」は多数の大きさの異なる砲を装備していますが、それぞれの射程が異なることから、それぞれの砲で個別に照準を定める必要があります。
このため、主砲が片舷に4門しか向けられない「鹿島」が4門の主砲を使って照準を合わせるために砲撃するのに対し、「ドレッドノート」は、4門の主砲を2回に分けて連続で砲撃できるので、照準を合わせる時間が短く、戦闘を有利に進めることができます。
また、速力が早いのが有利であることは、日清戦争における黄海海戦、日露戦争における「日本海海戦」などでも証明されています。
戦艦「ドレッドノート」の出現により、世界の海軍が保有している戦艦は時代遅れとされ、以降「ドレッドノート」の設計思想を取り入れた戦艦を「弩級艦」、主砲を大型化しすべて中心線上に配置するさらに進んだ設計の戦艦を「超弩級艦」と呼ぶようになりました。
ところが、英国海軍こそ世界で最も多くの旧式戦艦を保有する国になってしまう、という困った事態ともなりました。
「ドレッドノート」の設計は革新的でしたが、姉妹艦のない「試作艦」的な艦であり、次の欠点もありました。
①前墻の前に煙突があり、ばい煙が前墻に係ってしまう
②後墻に煙突のばい煙がかかることから、低く設定せざるを得なかった
③大型化しつつある駆逐艦を撃退するためには7.6cm砲では威力不足であった
④7.6cm砲の配置が、主砲塔上であり、不便であった
これらは、次の量産型である「ベレロフォン」型や「セント・ヴィンセント」型により改善されています。
英海軍・「セント・ヴィンセント」型戦艦「コリンウッド」(引用:Wikipedia)
(不明 - Original source not known, digital reproduction at:www.navyphotos.co.uk, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10344535による)
華々しく登場した「ドレッドノート」でしたが、大正3年7月に始まった第一次世界大戦では、すでに第一線を務める主力艦の座を「超弩級」艦へ譲っており、最初の2年間は北海の警備に使用されています。
大正4年3月には独海軍の潜水艦「U-29」を体当たりで撃沈していますが、これは戦艦が潜水艦を撃沈した唯一の事例でした。
大正5年5月には、「低速艦」に分類され艦隊に随行することが困難となったため、テムズ川の第3戦艦戦隊の旗艦となり、独海軍の巡洋戦艦に備えることとなります。
しかし、大正6年5月に行われたユトランド沖海戦には改修のため参加していません。
「ドレッドノート」は大正9年3月に除籍され、大正12年ににスコットランド・インヴァネスで解体され姿を消します。
今でも時々「超ド級」という言葉が使われますが、この語源は戦艦「ドレッドノート」でした。
ご存知の方も多いかと思いますが、「ドレッドノート」の進水日に当たり、取り上げてみました。
最後に帝国海軍の「弩級艦」である(厳密には前後と舷側の主砲の口径が異なるので、究極の「順弩級艦」とも呼ばれています)、「河内」型戦艦「摂津」の写真を挙げておきます。
「摂津」については地味な戦艦から、地味でも重要な存在となった標的艦「摂津」を参照ください。
戦艦「摂津」(引用:Wikipedia)
(不明 - 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=381450による)
【参考文献】
Wikipediaおよび
世界の艦船「近代戦艦史」増刊第24集、No.391、1988年3月、海人社