今回は特設艦船から取り上げてみます。
明石海峡大橋の開通以前に、徳島と大阪・神戸の間の客船やフェリーを運航していた、「共同汽船」という海運会社がありました。
この「共同汽船」ですが、その前身は明治20年に創立された「阿波国共同汽船」という社名で、当時は徳島-関西間の航路を独占していた大阪商船の運賃高騰を嫌った徳島県の藍商人達が設立した会社でした。
徳島・小松島港と大阪の間を結ぶ航路の他、後に国に買収されることになる小松島-徳島間の鉄道(現在のJR四国・牟岐線の徳島-中田間、および廃止された国鉄小松島線中田-小松島港間)も敷設・経営していました。
在りし日の小松島港駅(正式には小松島港仮乗降場)(引用:Wikipedia)
(spaceaero2 - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10073008による)
阿波国共同汽船では関西航路への新造船として、三菱神戸造船所で建造した客船「あきつ丸」が昭和12年3月に竣工します。
ちなみに「あきつ丸」の船名の由来は「阿波、紀伊、摂津」のそれぞれ1文字から採られたそうです。
【要目】
総トン数:1,038トン、重量トン数:216トン、全長:60.0m、幅:10.0m、深さ:4.9m、吃水:3.0m
機関:ディーゼル機関×1、出力:1,374馬力、最高速力:15.2ノット、航海速力:13.5ノット
船客定員:602名、乗組員数:41名
※引用:世界の艦船別冊「日本の客船(1)1868-1945」野間恒・山田廸生、1991年7月、海人社、P.198
阿波国共同汽船・客船「あきつ丸」
(引用:共同港運株式会社HP・「船の写真館(昔編)」)
「あきつ丸」は、昭和12年4月から大阪港-徳島・小松島港間の航路に就航しますが、昭和13年10月に帝国海軍に徴傭され、11月には「特設砲艦」として類別されます。
兵装は、45口径12cm砲を2門、13mm連装機銃を1基搭載、昭和13年末から大陸方面の漢口に進出しますが、その際に「第41号砲艦」と略称が付けられます。
特設砲艦「あきつ丸」
(引用:「写真 日本海軍全艦艇史 下巻」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.911)
その後、昭和14年から15年10月にかけて南京・安慶等で行動しますが、昭和15年10月に五島列島経由で呉に帰還し、「特設砲艦」から除籍され復旧作業が行われます。
昭和15年12月から大阪-小松島航路に復帰しますが、昭和17年5月に戦時合併により阿波国共同汽船は関西汽船に吸収され、「あきつ丸」も関西汽船の所属となります。
しかし、昭和19年10月に再度帝国海軍に徴傭され一般徴傭船(雑用船)に編入、瀬戸内海での物資輸送等に使用されます。
「あきつ丸」は瀬戸内海で行動可能な状態のまま終戦を迎えますが、昭和20年8月24日に神戸港・兵庫突堤の300m沖で触雷し沈没してしまいます。幸いなことに沈没地点が浅い所であったことからさっそく引揚作業が行われ、昭和21年5月には関西汽船に返却されます。
昭和23年に阿波国共同汽船は関西汽船から分離・独立し、「あきつ丸」も阿波国共同汽船に復帰、翌24年からは関西汽船との共同配船により大阪-小松島航路に復帰します。
ところが、昭和25年9月のジェーン台風により大阪港内で沈没してしまいます。それでも再度引き揚げられ昭和29年末には再び復帰し、昭和33年10月には主機を新潟鐵工製の1,800馬力ディーゼル機関に換装しリニューアルされています。
ジェーン台風による大阪港第二突堤付近の被害状況
(引用:大阪府HP・「大阪府を襲った主な災害」)
「あきつ丸」は事故に祟られた船のようで、昭和38年5月28日には濃霧の紀伊水道で、栃木汽船の貨物船「福代丸」の左舷に船首から突っ込み衝突し、乗客11名が軽傷を負う事故を起こしています。
昭和46年の共同汽船・客船「あきつ丸」
(引用:世界の艦船別冊「日本の客船(1)1868-1945」野間恒・山田廸生、1991年7月、海人社、P.198)
その後も「あきつ丸」は運行を続けましたが、昭和49年に航路のフェリー化に伴い引退し、同年10月までに香川・多度津の宮津サルベージで解体され37年に渡る生涯を閉じました。
なお、阿波国共同汽船は、その後「共同汽船」と改称しますが、明石海峡大橋の開通により会社存続が困難になると予想されたことから、平成10年4月5日に運行を廃止し会社は解散しています。
明石海峡大橋(引用:Wikipedia)
(Tysto - Self-published work by Tysto, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=477955による)
「あきつ丸」は小さな船体と新鋭船であることから、支那事変で特設砲艦として使用され、大東亜戦争でも運送船として徴傭されています。そして二度目の徴傭、終戦直後の触雷、その後も台風や衝突事故に見舞われながらも長寿を全うしました。
このサイズの船でも戦争に駆り出され、「総力戦」の一翼を担っていた歴史があったのですね。
【参考文献】
Wikipedia および
Webでは
「大日本帝國海軍 特設艦船DETABASE」SSO戸田支部
「The Naval Deta Base」 近代世界艦船事典
共同港運株式会社HP・「船の写真館(昔編)」
大阪府HP・「大阪府を襲った主な災害」