昭和18年6月8日・爆沈した戦艦「陸奥」の生涯・後編 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

さて、前回は戦艦「陸奥」の大改装までについて書きました。

今回は、「陸奥」の大改装の内容から続けます。

 

この大改装工事では、水平防御および垂直防御の強化、主缶換装による出力増大、艦尾の延長、各種機器の近代化および主砲・副砲の仰角引上げなどを主体とするもので、昭和9年9月から昭和11年9月までの2年間に渡って行なわれました。

艦容も前楼の重層化、第一煙突の廃止など大きく変貌します。

 

【要目(大改装後)】

 基準排水量:39,050トン、公試排水量:43,400トン

 水線長:221.07m、水線下最大幅:34.60m、平均吃水:9.46m

 主機:艦本式ギヤード蒸気タービン機関×4、推進軸:4軸

 主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×10

 出力:82,000馬力、速力:25.3ノット、乗員数:1,368名

 兵装:41cm45口径連装砲×4、14cm50口径単装砲×18、12.7cm40口径連装高角砲×4、

     短8cm単装砲×8、25mm連装機銃×10、水上偵察機×3

 ※引用:「日本海軍全艦艇史(資料篇)」福井静夫、1994年12月、KKベストセラーズ、P.36

 

大改装後の戦艦「陸奥」

(引用:「写真・日本の軍艦 第1巻」1989年7月、光人社、P.119)

 

さらに昭和11年12月から追加工事として、航空兵装の改装工事が行なわれ、航空甲板の変更、射出機およびデリックの換装が行なわれます。

 

航空兵装改装後の戦艦「陸奥」

(引用:「写真・日本の軍艦 第1巻」1989年7月、光人社、P.122)

 

昭和12年8月の第二次上海事変では、「陸奥」と「長門」は陸兵輸送に従事しています。

昭和16年10月8日には連合艦隊旗艦が「陸奥」から「長門」に変更され、大東亜戦争の開戦を迎えます。

昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の際、山本五十六連合艦隊司令長官は戦艦部隊などが、小笠原諸島近海まで進出しますが、12月11日に「陸奥」は舵故障を起こして旋回が止まらず艦隊から落伍するという事故を起こしています。

 

昭和17年6月のミッドウェー作戦では主力部隊として参加したものの、機動部隊の壊滅により途中で反転し呉に帰投します。

 

昭和17年8月には前進部隊に編入され、ようやく戦力として最前線であるトラック泊地に進出、8月24日・25日の第二次ソロモン海戦に参加します。

しかし、この戦闘は対空戦闘のみで水上戦闘の機会はなく、一等巡洋艦や一等駆逐艦などの高速艦艇が米海軍機動部隊を追撃するに当たり、低速な「陸奥」は前進部隊から分離され後方に置き去りにされてしまいます。

 

南洋において一等巡洋艦「愛宕」から見た前進部隊 ※赤丸の部分が戦艦「陸奥」

(引用:「写真 太平洋戦争 第2巻」雑誌「丸」編集部、1988年12月、光人社、P.301)

 

戦闘に参加できずにトラック泊地に帰投した「陸奥」は、機動作戦に随行できないことから前進部隊から外され、待機したまま時が過ぎていきます。

 

昭和18年1月、「陸奥」は航空母艦「瑞鶴」、一等巡洋艦「鈴谷」などと共にトラックを出発し内地へ向かい横須賀へ帰投、さらに2月には広島湾沖の柱島泊地に移動します。

 

そして、昭和18年6月8日12時15分頃、柱島泊地に停泊する「陸奥」は3番砲塔・4番砲塔付近から突然、煙を噴きあげて爆発を起こし、船体は4番砲塔後部甲板部から2つに折れ、艦前部は右舷に傾斜すると転覆、まもなく艦前部が沈没してしまいます。

 

艦前部が沈没した後も、後部は艦尾部分を上にして浮いており、周囲の各艦は救助作業を行いますが、こちらも日没後に沈没します。

 

「陸奥」の乗員1,474人のうち救助されたのは353人で、予科練甲飛第十一期練習生を含む死者のほとんどは爆死だったそうです。また、この時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は、責任を取る形で予備役に編入されました。

 

戦艦「陸奥」の沈没地点(引用:Google Map・一部加工)

 

調査の結果、爆発の原因は火薬の自然発火とは考え難く、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされています。

 

沈没後の「陸奥」からは、昭和19年7月燃料庫から重油600トンが回収されますが、戦時中はそれ以上の対応はなされませんでした。

 

戦後の昭和23年には西日本海事工業が搭載物資のサルベージを開始しますが、この時には許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こり作業は中断されます。

 

昭和27年4月には海中の「陸奥」の状況について調査が行なわれ、「陸奥」の前半部分は右舷を下に横倒しで沈没、1・2番主砲塔は船体に留まっており、艦橋や煙突、後部艦橋も脱落していない状態であること、また吹き飛んだ3番主砲塔は、船体から離れた場所に横倒しの状態で大半が泥に埋まり、切断された艦尾部は船体から50m離れた場所で上下逆の裏返しに近い状態で沈んでいることが確認されます。


昭和28年8月には艦首の「菊の紋章」が引き揚げられており、現在は広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校の教育参考館に展示されています。

 

戦艦「陸奥」艦種の御紋章(引用:HP「海上自衛隊 第1術科学校」教育参考館展示品の紹介)

 

 

そして、昭和45年から深田サルベージによる浮揚作業が再開され、艦尾部分を前半部と後半部に海底で切断、昭和46年3月に艦尾の後半部を引き揚げます。

その後も第4砲塔を、さらにその他の部分は海中で細かく分割した上で引き揚げられ、艦体の約75%が浮揚されたところで浮揚作業は終了します。

 

引き揚げられた戦艦「陸奥」の第 砲塔

(引用:「写真・日本の軍艦 第1巻」1989年7月、光人社、P.128)

 

この引揚作業は、深田サルベージ建設のHPの「主な実績」に記載され、第3砲塔の引揚中の写真が載っています。

 

海底から引き揚げられた「陸奥」の砲塔装甲や船体は、鉄屑として再利用されることとなります。

戦後の製鉄方式では、溶鉱炉の磨耗具合を調べるためにトレーサーとして耐火煉瓦へコバルト60が仕込まれていますが、「陸奥」の船体に使われていた鉄は戦前の製鉄方式でコバルト60の混入が無く、日本各地の研究所、原子力発電所、医療機関における放射能測定において環境放射能遮蔽材などに用いられ、「陸奥鉄」の名で重宝されていました。

 

そして、海底の戦艦「陸奥」から引き揚げられた品々は、沈没地点の柱島にほど近い山口県周防大島町の「陸奥記念館」に多数展示されています。

 

山口県周防大島町の「陸奥記念館」と玄関前の「陸奥」の主錨(引用:Google Map・一部加工)

 

 

「陸奥記念館」で屋外に展示されている14cm副砲とスクリュー(引用:Google Map・一部加工)

 

同じく艦首部分(引用:Google Map・一部加工)

 

その他にも、各地で戦艦「陸奥」の遺物は見ることができます。

 

広島県呉市「大和ミュージアム」で展示されている戦艦「陸奥」の41cm主砲砲身

 

同じくスクリューと主舵

 

靖国神社・遊就館に展示されている戦艦「陸奥」の14cm副砲と小錨

 

神奈川県横須賀市・ヴェルニー公園の戦艦「陸奥」41cm主砲砲身

 

広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校には、大改装時に取り外された第四砲塔が砲身を含めてほぼ完全な形で保存されています。この砲塔は教育用に昭和10年からこの場所に設置されたものです。

 

海上自衛隊第1術科学校の戦艦「陸奥」の41cm主砲塔

(引用:HP「海上自衛隊 第1術科学校」ホーム)

 

この他にも、Wikipediaによると下記のような遺物が残されています。

○聖博物館(長野県東筑摩郡麻績村):41 cm 主砲身、ボイラー蒸気通送管、錨鎖、舷窓など

○立命館大学国際平和ミュージアム(京都府京都市北区):舷窓

○高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町):第四砲塔の基部、および推進機軸の先端部を慰霊碑の一部として使用

○日植記念館(岡山県津山市):41cm主砲砲身(一部)、12.7cm連装高角砲、副錨

○入船山記念館(広島県呉市):スクリュー、舷窓、錨鎖の一部

○大山祇神社(愛媛県今治市):錨鎖の一部

○大谷墓園(愛媛県今治市):14cm副砲

○福齊寺(長崎県長崎市):主砲装甲一部および引き揚げられた部材(慰霊の鉄兜となっている)

 

また、今でも沈没地点に艦橋部と艦首部等を除く艦の前部分などが海底に残っており、ダイビングスポットとなっているようです。

 

 

戦艦「陸奥」は、同型艦「長門」と共に竣工後は「世界のビッグ7」の一角として、長年にわたり国民から期待を寄せされる「最強の戦艦」であり続けました。

また、今でも比較的容易にその遺物に触れることができる、今では貴重な大東亜戦争に参加した帝国海軍の戦艦です。

 

【参考文献】

Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

 

【Web】

・Google Map

・HP「海上自衛隊 第1術科学校」

・HP「深田サルベージ建設株式会社」

・HP「陸奥記念館」

・HP「PADI Travel Network」