去年の今頃は…。と思い当時の写真を見返してみました。
昨年4月14日8時過ぎの南海なんば駅2階改札を出たところ、ドラッグストアの前に開店前からマスクを求めて並ぶ人の列です。
昨年の今頃は、4月7日の緊急事態宣言が行なわれ、街から人が消え「マスクが手に入らない」異常事態でしたね。50枚入のマスク一箱が5,000円以上してましたから。
全く話は変わって、今回は運送船(給油艦)の「志自岐」を取り上げます。
帝国海軍では、第一次世界大戦開戦後にタンカーの不足が目立ち、また八八艦隊計画で大量の重油輸送が必要としていました。
このため、帝国海軍初の給油艦(タンカー)として呉海軍工廠で大正4年11月に起工され、翌5年5月に竣工し類別を「運送船」とされます。
【要目(大正8年時)】
常備排水量:5,300トン、垂線間長:91.44m、最大幅:12.80m、吃水:6.14m
主機:直立式3気筒3普段膨張レシプロ蒸気機関×1、
主缶:艦本式水管缶(石炭専焼×4)、推進軸:1軸
出力:2,500馬力、速力:12.0ノット、乗員数:116名
兵装:8cm40口径安式単装砲×2
※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P.15
運送船「志自岐」(引用:Wikipedia)
(不明 - Japanese book:The History of auxiliary vessels of the Imparial Japanese Navy(日本海軍特務艦船史)p13, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5761303による)
「志自岐」の設計は、タンカーの建造経験がある三菱造船に一任され、民間タンカーとほぼ同じ構造を採用しています。ただし速力12ノットが指定され、また船艙が3つあり、デリックを3本設けて物資も搭載できるようになっていました。
竣工後の「志自岐」は、秋田県の土崎および新潟から横須賀、呉、佐世保の各軍港への重油輸送を行うこととなり、大正6年6月には土崎から呉および佐世保へ重油を輸送しましたが、7月2日土崎に入港の際、風や波に流され坐洲し修理を受けています。
帝国海軍は、大正7年にボルネオ産の重油の購入契約を締結したことから、「志自岐」もボルネオから内地への重油輸送に従事するようになります。
大正8年8月9日、ボルネオ島のタラカンから佐世保港へ重油を輸送中にフィリピン東方海上を航行中に台風に巻き込まれます。
荒天を衝いて内地に向け航行を続ける「志自岐」は、種子島と屋久島の間の種子島水道を抜ける予定でしたが、進路を誤り8月15日の正午過ぎに種子島南方の源三郎礁付近で座礁してしまいます。
その後、波浪で自然と離礁したものの、機関運転不能のため錨を降ろして停船しようとしましたが、錨鎖が切れ浸水と打ち上げる波により船首から沈没してしまいます。
この事故は、乗組員120名のうち生存者は7人のみで、死者15名、その他多くの乗組員は行方不明を出す大惨事となります。
こうして、帝国海軍初の「タンカー」は姿を消しました。
なお、この台風では、熊本・玉名市付近では約10mの高潮による被害を受けたようです。
運送船「志自岐」
(引用:「幕末以降 帝国軍艦写真と史実」1935年11月、海軍有終会、P.171)
沈没後の「志自岐」は、船体の破損の状況や附近の潮流などにより引き揚げは困難と判断、重要物件のみを引き揚げて船体は廃棄されることとなりました。
「給油船 志自岐 破損個所図面」
(引用:HP「アジア歴史資料センター」:Ref:C08021338900)
なお沈没後も船籍は残り、大正9年4月1日に特務艦(運送艦)に編入されますが、2箇月後の6月1日に除籍され、その船体は同年9月売却処分が決定されています。
その後、種子島では夜釣りに出た漁師によって、何百という電気を灯した軍艦の幽霊船が、浅瀬である所を通って行く様が何度も目撃されたという逸話が残っています。
ちなみに「志自岐」という艦名は、長崎・平戸島南端の志々岐崎から採られており、島の南部には志々岐山・志々岐神社などがあります。
長崎・平戸島南部の「志々岐山」(引用:HP「達人NAVI平戸」)
荒天でえ座礁し沈没する艦船は少なからずあり、このブログでも以前に工作艦「関東」(工作艦「関東」の遭難)や、二等巡洋艦「新高」(日露戦争・第一次大戦で活躍した二等巡洋艦「新高」)などを取り上げています。
荒れた海は、昔も今も艦船の航行には大きな脅威ですね。
【参考文献】
Wikipedia および
Web
HP「九州災害履歴情報データベース」
HP「達人NAVI平戸」
HP「アジア歴史資料センター」