日露戦争・第一次大戦で活躍した二等巡洋艦「新高」 | 艦艇・船舶つれづれ

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今回は歴史に埋もれた武勲艦、二等巡洋艦「新高」(にいたか)について書いてみます。

「新高」とは、現在の台湾にある「玉山」のことで、標高3,950mと富士山より高いことから明治天皇により「新しい日本最高峰」の意味で名づけられた山から採られた艦名です。

「新高」は日露間の情勢悪化により、戦艦「朝日」「初瀬」「三笠」などと共に計画された三等巡洋艦で、明治34年1月に横須賀海軍工廠で起工され、明治37年1月に就役します。

従来の艦隊型巡洋艦とは違い、当初から偵察任務型巡洋艦として設計され、戦闘時の火災による誘爆を防ぐため魚雷発射管を搭載せず、速力も20ノットと偵察任務としては高速ではないものの、堅牢で実用的な面から大いに成功した艦と評価されています。

【要目】

 常備排水量:3,366トン、垂線間長102.0m、幅:19.5m、平均吃水:4.9m

 機関:直立式4気筒三連成レシプロ機関×2、主缶:ニクローズ缶×16、推進軸:2軸

 出力:9,400馬力、速力:20.0ノット、乗員数:287名

 兵装:15cm40口径連装砲×6、8cm40口径単装砲×10、47mm単装砲×4

 ※出典:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P54

 

三等巡洋艦「新高」(出典:Wikipedia)

 

就役1カ月後に日露戦争が勃発したため、公試(公式試運転)を行いながら第2艦隊第4戦隊の1艦として出撃することとなります。

日露戦争では、仁川沖海戦、旅順攻略作戦、蔚山沖海戦、日本海海戦等の代表的な海戦に参加し、仁川沖海戦でロシア巡洋艦「ワリヤーグ」と砲艦「コレーエツ」の撃沈に、日本海海戦では対馬沖海戦の翌日に残存ロシア艦隊を追撃し巡洋艦「スウェトラーナ」、駆逐艦「ブイスツルイ」の撃沈に一役買うなど、最新鋭艦として大活躍します。

 

日露戦争後、大正元年8月に艦艇類別等級が変更され、「新高」は二等巡洋艦に類別変更されます。

第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加したほか、英国や仏国のアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛作戦に参加し、南アフリカ・ケープタウンまで遠征するなどの活躍をしています。

 

第一次世界大戦後、大正9年7月から9月にかけて、シベリア出兵に伴いペトロパブロフスクの警備に従事し、翌大正10年5月から9月にかけて、東南アジアへ進出し、蘭領東インド諸島、スラバヤ・バタビア方面の警備と調査を行っています。そして、大正9年9月には「新高」を含めた二等巡洋艦5隻が二等海防艦に類別変更されます。

 

そして大正11年6月10日、二等海防艦「新高」、第1駆逐隊の二等駆逐艦「欅」「槇」の3隻は漁船保護を目的に室蘭を出発、北方海域に向かいます。大正11年8月25日の夕刻、「新高」はカムチャツカ半島南端のロパートカ岬西側にあるオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風(台風)が襲来し天候が急変します。翌26日の明け方に座礁、右舷側に転覆し乗員300余名のうち生還したのは15名のみという大惨事を起こしてしまいます。生存者の大半は、転覆した船体の缶室に孔を空けて救出した機関部員でした。その後は、以前紹介した工作艦「関東」により遺体の回収と「新高」の解体が行われ、「新高」は姿を消します。

 

新高転覆見取図

(出典:アジア歴史資料センター 軍艦新高沈没事件査問書(1)C08050486100、0568)

 

軍艦新高覆没想像図

(出典:アジア歴史資料センター 軍艦新高沈没事件査問書(1)C08050486100、0572)

 

転覆した二等海防艦「新高」の艦底部

(出典:アジア歴史資料センター 軍艦新高沈没事件査問書(1)C08050486100、0573)

 

「新高」を転覆させた台風は、大正11年8月24日に関東地方を通過、26日にはカムチャツカ半島付近に達したもので、日本へ襲来した台風のうち、非公式ではあるものの「新高台風」と初めて固有名詞が付けられた台風となりました。

 

現在では「日露戦争」と言えば「日本海海戦」の本戦である「対馬沖海戦」ばかりがクローズアップされ、その他の海戦についての解説は見ることができず、「新高」や同型艦「対馬」などの活躍はあまり顧みられていないのは寂しいので、取り上げてみました。