山陰最大の戦災・境港「玉栄丸」の爆発 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

2020年8月4日18時頃(現地時間)に、レバノン・ベイルートで、港の倉庫に保管中であった約2750トンの硝酸アンモニウムが大爆発を起こしました。

この爆発で犠牲者220人以上、負傷者6,000人余りに上り、110人以上が行方不明(8月11日現在)という大惨事となり、爆発現場となった倉庫付近には幅124m、深さ43mのクレーターができたほどの大爆発でした。

 

レバノン・ベイルートの爆発でできたクレーター(引用:Wikipedia)

(Mehr News Agency, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=92996957による)

 

この爆発で思い出したのが、鳥取県境港市(当時は鳥取県西伯郡境町)で昭和20年4月に発生した「玉栄丸」の爆発でした。

当時も今も鳥取県の境港は山陰最大の港で、近隣には昭和18年10月に舞鶴鎮守府海軍航空基地(現航空自衛隊美保基地・米子鬼太郎空港)が開設され、大東亜戦争中の軍事拠点としての重要性も増していました。

 

一方、「玉栄丸」は大正6年7月に大阪・木津川の名村造船所で建造した神戸・岡崎汽船の貨物船で、その後尼崎汽船に売却されたベテラン船でした。

【要目(昭和18年)】

 総噸数:937噸、純噸数:537噸、積貨重量:1,500瓲、

 長さ:57.91m、幅:9.45m、深さ:5.64m、平均喫水:4.95m

 機関:三連成レシプロ機関×1、主缶:筒型缶×2、

 出力:520馬力、最高速力:9.5ノット、航海速力:8ノット

 ※引用:「昭和18年版 日本汽船名簿 其の1(下)(12)」、運輸通信省海運総局、

       アジア歴史資料センター Ref.C08050085900、P1284

 

大東亜戦争中、「玉栄丸」は主に朝鮮半島から米を内地に輸送していましたが、昭和19年に帝国陸軍に徴傭され、軍事物資を輸送するようになります。

昭和20年4月21日の17時頃、朝鮮半島・羅津より火薬・生ゴム・豚毛・油脂類・航空用ガソリンなどを積んだ「玉栄丸」が境港へ入港します。

 

昭和20年4月23日の午前7時40分、荷揚げ作業にかかってすぐに「玉栄丸」の船首付近から小さな爆発とともに火の手が上がります。午前7時58分には船首付近で爆発が発生、船の前部は破壊され船上で作業をしていた兵隊や、消火活動を行っていた地元の一般人が吹き飛ばされます。

さらに岸壁の倉庫に火の手が回り、午前8時30分には最大の爆発が起き直径50m・深さ15mのクレーターを形成するとともに、境町のあちこちに火の玉を落として火災を発生させます。その後、午前11時18分にも小さな爆発が起こります。

 

倉庫の爆発によりできたクレーター

(引用:HP「とっとりいきいきシニアバンク 生涯現役「山陰最大の戦災 根平雄一郎さん」

http://tottori-ikiiki.jp/activity/374/

 

この爆発により境町内は壊滅状態となり、死者115名、負傷者309名、家屋被害は全壊355戸、全焼76戸、倒壊焼失家屋431戸、被災人口1,790名と、山陰地方で最大の「戦災」となります。

 

この爆発の原因は、当時から巻上機の摩擦によるもの、靴の鋲から出た火花、兵隊のタバコの火などの噂が出ましたが、2007年の新証言により「兵隊のタバコの火の不始末」であったようです。

 

私の母は境港市出身で、小さい時に祖母から「頭のない死体や体の一部などが海に浮いていた」という話を聞いたことがある、と言っていました。

 

それまでも気になってブログに取り上げようとは思っていましたが、今回の出張の帰りに米子市内の書店で根平雄一郎氏の著作「た・ま・え・ま・る 山陰最大の戦災75年目の真実」という書籍を手にすることができ、この書籍とWikipediaをベースに今回のブログを書いています。

 

 

この書籍のカバーには「玉栄丸」の写真が掲載されているほか、当時の概況、被災の証言、被災写真等がまとめられています。

 

大きな戦災がなかった山陰地方ですが、以前取り上げた「大山口列車空襲」とともに「山陰の2大戦災」として語り継ぐべき出来事だと思い、取り上げてみました。