「幸運艦・雪風」の影で 一等駆逐艦「初霜」 | 艦艇・船舶つれづれ

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8月23日にNHK-BSプレミアムで「幸運艦」として一等駆逐艦「雪風」が主役の番組が放映されていました。リアルタイムでは見ることができず、この週末に見てみたいと思っています。

 

一等駆逐艦「雪風」(引用:Wikipedia)

(Shizuo Fukui - Kure Maritime Museum, Japanese Naval Warship Photo Album: Destroyers, edited by Kazushige Todaka, p. 94, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5814038による)

 

昭和20年4月に戦艦「大和」とともに二等巡洋艦「矢矧」が率いる第二水雷戦隊が沖縄へ向け特攻作戦を敢行しますが、第二水雷戦隊では一等駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」の8隻が作戦に参加しています。

坊ノ岬沖海戦を戦ったのちに内地へ帰投した艦は「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」の4隻でした。このうち、「冬月」は不発ではあるものの爆弾2発を受け中破、「涼月」は前部主砲付近に直撃弾を受け大破しており、ほぼ無傷で帰投したのは「雪風」と「初霜」の2隻のみでした。

 

沈没する戦艦「大和」

※白い丸で囲んだのが一等駆逐艦「初霜」

(引用:「写真 太平洋戦争 第4巻」1989年3月、光人社、P.317)

 

「雪風」ほど派手な戦歴ではありませんが、「雪風」よりも早く建造され同じく坊ノ岬沖海戦を生き延びた「初霜」です。しかし「雪風」のように幸運艦と呼ばれることはありませんでした。その理由とは?

 

まずは、「初霜」についてその経歴を辿ってみましょう。

一等駆逐艦「初霜」は、ロンドン海軍軍縮条約に対応し、昭和6年度からの6ヵ年計画での艦艇整備計画である「第一次補充計画(通称マル1計画)」で計画された一等巡洋艦「初春」型の4番艦として昭和8年1月に浦賀船渠で起工されます。

建造工事は進捗し昭和8年10月31日に進水式を迎えますが、進水式で急減速して停止し損傷してしまい、11月4日に進水式をやり直しています。

さらに、建造途中で同型の1番艦である「初春」の復元性能不良が判明、復元性改善工事を追加で施工し、「初霜」jは難産の末に昭和9年9月に竣工します。

【要目(復元性能改善後の「子日」)】

 基準排水量:約1,700トン、全長:109.5m、水線幅:10.0m、吃水:3.5m

 機関:艦本式オール・ギヤードタービン×2、主缶:ロ号艦本式水管缶(重油専焼)×3、推進軸:2軸

 出力:42,000馬力、速力:33.3ノット、乗員数:205名

 兵装:12.7cm50口径連装砲×2、12.7cm50口径単装砲×1、40mm単装機銃×2、

     61cm3連装魚雷発射管(次発装填装置付)×2

 

一等駆逐艦「初霜」(引用:Wikipedia)

(不明 - M.J.ホイットレー著、岩重多四郎訳『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画、2000年、p.196, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24714800による)

 

竣工後の「初霜」は日華事変の上海上陸作戦・杭州湾上陸作戦に参加し、その後は北部仏印への進駐作戦に参加しています。

 

大東亜戦争開戦時には、「初春」型4隻で編成された第1水雷戦隊の第21駆逐隊に所属しており、瀬戸内海西部での対戦掃蕩に従事し、その後昭和17年1月には輸送船団を護衛しフィリピンへ進出、スラウェシ島・ケンダリ(現・インドネシア)の攻略作戦に参加します。

さらに、マカッサル(現・インドネシア)およびバリ島攻略作戦に参加した後、一旦内地へ帰投します。

次の出撃は一転して北方への転戦で、アリューシャン作戦などに参加、昭和18年3月に行われたアッツ島沖海戦にも参加しています。その後も内地と千島間の船団護衛に従事するなど北方での行動が続きます。

 

千島列島・幌筵水道を航行中の一等駆逐艦「初霜」

(引用:「写真 太平洋戦争 第2巻」1989年3月、光人社、P.223)

 

昭和18年7月のキスカ島撤退作戦にも参加しますが、作戦従事中の7月26日に濃霧の中で海防艦「国後」、二等巡洋艦「阿武隈」、一等駆逐艦駆逐艦「初霜」「若葉」「長波」が関係する重衝突事故が発生、「初霜」は損傷し速力が低下したことから、キスカ島での陸兵救出作業から外れ油槽船「日本丸」の護衛に回っています。

損傷した「初霜」は、千島列島・幌筵で応急修理を行い千島方面の船団護衛に従事しています。

 

昭和19年1月には航空母艦「雲鷹」「千歳」「瑞鳳」「龍鳳」などの護衛に従事するようになります。

昭和19年6月18日から20日にかけて行われたマリアナ沖海戦では、油槽船で構成する第一補給部隊の護衛として参加しています。ちなみに、この時「雪風」は第二補給部隊の護衛を行っています。

「初霜」は海戦終了後に内地へ帰投し、内海西部を拠点として船団護衛の任務に従事します。

 

昭和19年 10月中旬には「台湾沖航空戦」の大勝利という誤報により、「初霜」は残敵掃蕩の作戦に参加しますが、ほぼ無傷であった米海軍機動部隊の返り討ちに遭い台湾に退避します。

その後「捷一号作戦」に参加するため、僚艦「若葉」とともにフィリピン・マニラを経て志摩艦隊本隊へ合流するために南下しますが、途中で米艦載機の攻撃を受け「若葉」が沈没、「初霜」も二番砲塔左舷に小型爆弾が命中して損傷し、マニラへ撤退したため「捷一号作戦」には参加できませんでした。

 

昭和19年11月には「レイテ沖海戦」で損傷し、さらにシンガポールで座礁したことで18ノットの速力しか出せなくなった戦艦「榛名」を護衛して台湾へ移動、さらに12月18日には米潜水艦の雷撃で航行不能となった一等巡洋艦「妙高」が、一等巡洋艦「羽黒」に曳航されシンガポールへ回航する際に護衛しています。

昭和20年2月には戦艦「伊勢」「日向」、二等巡洋艦「大淀」を中核とした艦隊で重要物資の内地への輸送作戦である「北号作戦」に参加し内地へ帰投します。

 

昭和20年4月6日には沖縄特攻作戦に参加し、前述の通り「初霜」は「雪風」とともにほぼ無傷で佐世保へ帰投します。そして、昭和20年5月15日に「雪風」「初霜」は佐世保から舞鶴へ移動、ともに宮津湾で砲術学校練習艦として使用されます。

昭和20年7月末には米軍のB-29 により宮津湾にも機雷が投下され、湾口が封鎖され「初霜」と「雪風」は湾内から出ることができなくなります。

 

運命の昭和20年7月30日、米軍機が舞鶴方面に空襲を行い、「初霜」は急降下爆撃と機銃掃射を受けて指揮所が破壊され多数の負傷者が出ます。さらに。至近弾により浸水し艦が傾き始めます。

「初霜」は対空防御を行いつつ出港、湾外に出ようとしますが、艦中部付近で機雷が爆発し機関室付近に甚大な被害を受け右舷に30度傾斜します。

「初霜」は沈没を避けるため、獅子崎付近に向けて前進し擱座させます。この時「初霜」は艦体は中央から折れ、後半は海中・前半は砂浜に横壁を埋め、艦首を斜めに高く上げた形で停止します。さらに艦尾付近で爆雷が誘爆し大爆発が発生、艦尾は粉砕されてしまいます。

 

そして、擱座した前半部が海面上にある状態で終戦を迎えます。

 

宮津湾で擱座した一等駆逐艦「初霜」(引用:Wikipedia)

(舞鶴地方復員局 - 福井静夫(著)『終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24923620による)

 

同じ終戦直前の宮津湾にあって、空襲を潜り抜けた「雪風」は「幸運艦」となり、終戦直前に爆撃により大破・擱座した「初霜」はその称号を得ることができませんでした。

 

この「初霜」を偲ぶものが現存しています。東京都墨田区にある「山田記念病院」に展示されているのが「初霜」の錨です。この病院は、かつて「初霜」で軍医をしされていた軍医少佐・山田正明氏によって開業された病院で、「初霜」の解体後に山田少佐の手に渡り展示されているそうです。

 

「山田記念病院」で展示されている「初霜」の錨(引用:Wikipedia)

(C2revenge - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42061957による)

 

幸運艦である「雪風」は有名ですが、終戦直前まで北方・南方と縦横無尽に活躍し、無念の擱座で生涯を閉じた「初霜」は忘れ去られているようで、寂しく思い取り上げてみました。