遅かった登場 「潜水タンカー」伊号第三百五十一潜水艦 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は潜水艦です。

帝国海軍では、昭和11年に海軍大学校により真珠湾に在泊する米海軍艦艇に対する航空機攻撃について文書「対米作戦用兵ニ関スル研究」をまとめています。

後年の「真珠湾攻撃」に繋がる研究ですが、その中では「敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」として、襲攻撃には空母艦載機の他に航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用する計画であるとされています。

さらに、中艇および大艇はマーシャル諸島東端付近から出発、途中に配備した水上機母艦で補給を行う手段が必要であるとされています。

この研究内容に合わせて建造が計画されたのが、水上機母艦「秋津洲」と潜水艦「潜補型」でした。

 

水上機母艦「秋津洲」(出典:Wikipedia)

(不明 - 呉市海事歴史科学館所蔵品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3639075による)

 

今回は、潜水タンカーとも呼ばれる「潜補型」潜水艦について取り上げてみようと思います。

 

「潜補型」は、軍令部から昭和16年9月に要求が出されます(この時点で真珠湾攻撃には間に合いませんが)。この要求では、大型飛行艇への弾薬や燃料の補給をするとともに、必要により乗務員の交代を行うことも考慮され、飛行艇に対する「洋上基地」としての使用目的が明確化されていました。

このため、船体構造は複殻式を採用し、外殻と内殻の間のタンクを内・外2つに分割し、外側に危険な軽質油(ガソリン)を搭載し、配管類もすべて内殻より外に設置されるなど、漏洩対策に万全を期した設計とされました。

 

複殻式の例(乙型潜水艦の中央断面図)

(出典:「昭和造船史 第1巻」日本造船学会編、1977年10月、原書房、P608)

 

しかし、大東亜戦争の勃発からの戦況の推移から、航続力の増大、魚雷発射管の増備、備砲・機銃の増備などが要求され設計が変更され、1番艦は昭和18年5月に呉海軍工廠で起工されます。

ところが、再度戦況の変化により離島基地に対して航空燃料や消耗兵器等の補給任務にも使用されることとなり、水中充電装置(シュノーケル)の設置、備砲の撤去と機銃の増備、艦橋への電探防止構造の採用、迫撃砲の設置などの工事が追加されます。

様々な設計変更を経て、1番艦は「伊号第三百五十一」潜水艦と命名され、水上機を搭載しない潜水艦としては日本で最大の排水量を持つ艦として昭和20年1月になってようやく竣工します。

 

【要目】

 排水量:(水上)2,650トン/(水中)4,290トン、全長:111.00m、最大幅:10.15m、吃水:6.14m

 機関:艦本式22号10型ディーゼル×2、推進軸:2軸、安全潜航深度:90m

 出力:(水上)3,700馬力/(水中)1,200馬力、速力:(水上)15.8ノット/(水中)6.3ノット、乗員数:77名

 兵装:8cm連装迫撃砲×2、25mm3連装機銃×1、25mm連装機銃×2、53cm魚雷発射管×4

 貨物搭載量:ガソリン500kl

 ※出典:世界の艦船「日本海軍潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P78

 

「伊号第三百五十一」潜水艦(出典:Wikipedia)

(不明 - 『世界の艦船 増刊第37集 日本潜水艦史』海人社、1993年8月号増刊、第469集。ISBN 4-905551-44-7, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6864796による)

 

竣工後の「伊号第三百五十一」は、シンガポールからのガソリン及び航空要員の輸送任務に従事しますが、2回目の輸送の帰路において、昭和20年7月14日にボルネオ島沖で米海軍潜水艦「ブルーフィッシュ」の攻撃を受け撃沈され最期を迎えます。

 

2番艦の「伊号第三百五十二」は、昭和18年11月に呉海軍工廠で起工され、昭和19年4月に進水しますが、艤装工事中の昭和20年6月22日に米陸軍のB-29 爆撃機の爆撃を受け、工事進捗率90%の状態で沈没します。

 

解体のため播磨造船所呉船渠に入渠した「伊号第三百五十二」潜水艦(出典:Wikipedia)

(播磨造船所呉船渠(旧:日本海軍 呉海軍工廠) - 丸スペシャル 太平洋戦争海空戦シリーズ No.111 『終戦時の帝国艦艇』 81P, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5999906による)

 

「伊号第三百五十二」は戦後に引き揚げられ、昭和23年1月から3月にかけて旧呉海軍工廠である播磨造船所呉船渠で解体されます。

 

もう少し運用思想を早くまとめていれば南方への強硬輸送に力を発揮したと思われますが、帝国海軍の悪い癖で1隻の艦艇に多数の任務を持たせたいが為に、度重なる設計変更により活躍できる時期を逸した艦の一つだと思います。

 

今回は学研の「歴史群像シリーズ 日本の潜水艦パーフェクトガイド」を参考にしました。