日露戦争で捕獲された“汽船”が“軍艦”へ「松江」「姉川」 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

「世界の艦船」に以前連載されていた高須広一氏の著作「旧日本海軍・海上自衛隊 艦船名考」を検索しやすいようにEcelに起こしています。補遺を含めて計26回の連載で、この中には帝国海軍の雑役船なども含まれており、他の書籍等では取り上げられないような船名も記載されています。

 

中でも、それなりの数登場するのが「日露戦争捕獲船」です。追々取り上げてみたいと思いますが、今回はその中でも帝国海軍の「軍艦」に名を列した船があります。今回はそのうち「松江」を取り上げてみたいと思います。

 

「松江」の捕獲までの履歴は、英国のスコット造船所で明治31年6月に竣工した汽船で、ロシア東清鉄道会社が「スンガリー(Sungari)」の船名で運行していました。日露戦争では朝鮮半島・仁川で自沈しているところを帝国海軍が捕獲し三菱が浮揚を担当、明治37年6月に浮揚し長崎に回航、整備を行います。

明治38年6月には「松江丸(しょうこうまる)」と命名されます。なお、艦名の「松江」は露満国境を流れる松花江のロシア語名であることから採用されたようです。

明治39年3月に整備を完了し、三等海防艦「松江(まつえ)」と改名し軍艦「松江」が誕生します。

 

【要目(大正9年時点)】

 常備排水量:2,550トン、垂線間長72.24m、最大幅:9.50m、吃水:4.27m

 機関:直立式3気筒三段膨張レシプロ蒸気機関×1、主缶:円缶(石炭専焼)×2、推進軸:1軸

 出力:1,500馬力、速力:11.0ノット、乗員数:114名

 兵装:5cm保式単装砲×2

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P36

 

三等海防艦「松江」(出典:Wikipedia)

(不明 - 日本海軍艦艇写真集 巡洋艦p219, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5745276による)

 

「松江」は整備が完了すると、測量任務に投入されます。明治44年には海軍水路部と陸地測量部を乗船させ南硫黄島に来島上陸。北側中腹の標高45mに同島初の三角点設置の支援をしています。

大正元年8月には艦艇類別の変更により三等海防艦が廃止となったことから、二等海防艦に類別変更されます。

大正3年に勃発した第一次世界大戦では、第二艦隊付属として青島方面に出撃し青島攻略戦に参加しています。

大正7年2月に軍艦籍から除かれ、特務船に編入され、大正9年4月には特務艦(運送艦)に変更、さらに大正11年4月には測量艦に変更されます。この間も一貫して測量任務に当たっています。

 

測量任務では、大正12年6月5日にはパラオ諸島オーグルターゲル水道で座礁事故を起こすなど、南洋方面で計2回の座礁事故を起こしますが、いずれも処置が良く帰投を果たした幸運の艦でした。

そして、昭和4年4月に老巧化のため除籍され、和5年1月に横須賀海軍工廠長に引渡された後に売却されています。

 

もう一隻は、英国・クライドバンク社で明治31年9月に進水した汽船「モスクワ」で、就役後は黒海のオデッサからウラジオストクや旅順へ陸兵や軍需物資を輸送していました。

明治36年に15cm砲4門を装備し仮装巡洋艦に改装、「アンガラ」と改名され、同年末に旅順に来港します。日露戦争開戦後の明治37年3月には備砲を撤去し病院船に改装されていました。

しかし、露国海軍は大日本帝国に対してきちんと通告していなかったことから、旅順港内で自沈していた「アンガラ」を帝国海軍が浮揚に着手します。

 

旅順港で擱座した病院船「アンガラ」(出典:Wikipedia)

(Ernesto Burzagli (1873-1944). - Private Archive of Burzagli Family., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3920067による)

 

明治38年5月に浮揚し整備を行い、明治38年6月に汽船「姉川丸(あねかわまる)」と命名します。明治39年3月には軍艦籍に編入され通報艦「姉川」と改名されます。

 

【要目】

 排水量:11,700トン、長さ:140.1m、幅:17.4m、吃水:6.6m

 機関:直立式3気筒三段膨張レシプロ蒸気機関、推進軸:2軸

 出力:12,500馬力、速力:16.9ノット

 兵装:15cm単装砲×4ほか

 ※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第154集、No.890、2018年12月、海人社、P128

 

通報艦「姉川」(出典:Wikipedia)

(unknown. probably official. - 日本海軍艦艇写真集 航空母艦p202, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5768308による)

 

編入後の「姉川」は、大型の船体を生かして輸送や練習任務に当たります。

日露戦争終結後、露国から「アンガラ」は病院船であり拿捕は不当であるとの抗議を受け、明治天皇からロシア皇帝に贈与する形で返還することとなります。

「姉川」は明治44年8月除籍され宮内省に移管された後、9月2日呉を出港し6日にウラジオストクへ到着し、ロシアに引き渡されます。ロシア船として船名も旧名の「モスクワ」に戻されます。

その後、大正5年11月に「ペチェンガ(Pechenga)」と改名、工作艦へ改装され、大正11年までは機関不能の状態でウラジオストクにあったようです。その後も「セルプ・イモルト(Selp I Molto)」に改名された後昭和16年に戦没したと言われます。

 

このブログで頻繁に引用している「世界の艦船 増刊号」ですが、以前の増刊号では「通報艦」が取りあけられていませんでしたが、2018年に新装版として発刊された「日本海軍特務艦船史」では通報艦が取り上げられています。

 

 

 

 

「松江」「姉川」ともに、汽船として建造されていますので、「軍艦」としての防御装甲などはなく、本格的な戦闘には適さない艦でしたが、通商破壊作戦などには有用で、当時の仮装巡洋艦と同様な働きはできたと思います。

他にも日露戦争捕獲船として、帝国海軍の艦船として編入された船は多数ありますので、今後も機会を見て取り上げたいと思います。