大東亜戦争中のドイツとの懸け橋「伊号第八」潜水艦 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

前回に続いて、潜水艦を取り上げます。今回の主役は「伊号第八」です。前回の「伊号第一」と同じ「巡洋潜水艦」に属し、「巡潜3型」に分類されます。

「伊号第八」は、大東亜戦争中に「遣独潜水艦作戦」に参加し、唯一本土-ドイツ(フランス)間の往復に成功した潜水艦なのです。

 

「伊号第八」は、航空母艦「蒼龍」「飛龍」や二等巡洋艦「利根」「筑摩」等の建造が計画された、昭和9年の「マル2計画」における「巡洋潜水艦」2隻(「伊号第七」「伊号第八」)として計画・建造されました。

川崎造船所において、昭和9年10月に起工され、昭和11年7月に進水、昭和13年12月に就役しました。

 

「巡潜3型」は、それまでの「巡洋潜水艦」に比べ、潜水戦隊旗艦として居住区を拡大し、司令官室の装備、通信能力の強化などがなされました。このため、艦は更に大型化し基準排水量で2,000トンを超える大型艦となり、船型もドイツのコピーから脱却、帝国海軍独自の船型となりました。

 

【要目(新造時の伊号第七)】

 排水量(水上):2,231トン、(水中):3,583トン、全長:109.30m、最大幅:9.10m、吃水:5.26m

 機関:艦本式1号甲10型ディーゼル機関×2、軸数:2、乗員数:80名

 出力:(水上)11,200馬力、(水中)2,800馬力、速力:(水上)23ノット、(水中)8ノット

 兵装:14cm40口径連装砲×2、13㎜連装機銃×2、53cm魚雷発射管×6(魚雷20本)

     射出機×1、水上偵察機×1

 ※出典:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P57

 

「伊号第八」潜水艦(出典:Wikipedia)

 

「巡潜3型」は、潜水艦には珍しく主砲として連装砲を採用しました。また、射出機は大量生産された「乙型」や「伊号第4百型(特型)」が艦首方面へ向けられているのに対し、本型では艦尾方向に向けられていたのが特徴です。また、「巡潜」は艦隊決戦の補助兵力であり、魚雷発射管は敵主力艦隊襲撃時に全射線を使用した扇形発射を想定したことから、艦尾方向の魚雷発射管を廃止し6門すべてを艦首方向に設置しています。これは、通商破壊作戦とは異なる戦術思想によるものでした。

 

「巡潜3型」は、充実させた旗艦性能は高く評価されましたが、急速潜航性能が低く、搭載した潜望鏡の重量が大きく旋回性能にも難がありました。

 

「伊号第八」は、就役時に横須賀の所属となり、当初は第二艦隊第2潜水戦隊に、昭和15年11月には第六艦隊第3潜水戦隊に所属し、昭和16年10月には潜水母艦「大鯨」から第3潜水戦隊旗艦を引き継ぎ、大東亜戦争の開戦を迎えます。

 

真珠湾攻撃時にはハワイ・オアフ島付近に展開、昭和17年2月にはサンフランシスコ沖からシアトル沖にかけて、米国西海岸沿いの哨戒任務に就きます。昭和17年4月の「ドーリットル空襲」では、米機動部隊の捜索を行っています。

その後、現マーシャル諸島のクェゼリン進出しますが、昭和17年5月6日にルオット島近海で、第十一航空艦隊の一式陸上攻撃機に誤爆され潜航不能となってしまい、16日に呉に到着し修理を受けています。修理完了後、大分県の佐伯に移動しますが、昭和17年8月27日には特設巡洋艦「盤谷丸」と衝突事故を起こしてしまい損傷、再度呉に移動して修理を受けています。

 

大阪商船貨客船(後の特設巡洋艦)「盤谷丸」(出典:Wikipedia)

 

修理完了後は、南洋に進出しガダルカナル島方面での哨戒任務に就きます。昭和18年1月23日には現・キリバス領のカントン島の砲撃を行います。そして、昭和18年3月21日に呉に帰投し、整備と遣独潜水艦作戦に備え魚雷発射管室を居住区にするなどの改造を受けます。

 

昭和18年6月1日に「遣独潜水艦作戦」のため呉を出港します。この作戦ではヒトラーから無償譲渡されるUボートU1224(後の「呂号第五百一」潜水艦)の内地への回航のための搭乗員51名の輸送が主任務とされました。

 

昭和19年3月30日・日本に向けてキール軍港を出港する「呂豪第五百一」潜水艦

 (出典:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P93)

 

途中シンガポールに寄港し整備を行った後、途中「伊号第10」から2度の燃料補給を受けながらインド洋をマダガスカル方面へ航行し、南アフリカ・喜望峰を回って大西洋へ進出、昭和18年8月20日に大西洋上・アゾレス諸島の西方でドイツ海軍の潜水艦U-161と会合します。

そして8月31日にドイツ占領下のフランス大西洋岸・ブレスト港に到着します。

 

ドイツ占領下のブレスト港における「伊号第八」(出典:Wikipedia)

 

ブレスト港へ到着した「伊号第八」では、艦長と士官がパリ経由でベルリンを訪問したほか、通信長がベルギー・オーステンデの電波兵器学校に派遣され、レーダー装置の取扱い訓練を受けています。

 

帝国海軍からドイツへは、酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置(図面)、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等を提供し、ドイツ側からはSボート用のダイムラー・ベンツ製ディーゼルエンジンMB501、電波探知機「メトックス」、エリコン20ミリ機銃等が提供された他、後甲板に同じく提供された20ミリ4連装対空機銃の搭載を受けます。

 

そして、昭和18年10月5日にブレスト港を出港し、10月27日には大西洋上において敵哨戒機に発見され至近弾を受けるものの、12月5日にはシンガポール港へ到着、12月21日には呉に帰還しました。

 

「遣独潜水艦作戦」は昭和17年8月から昭和19年6月にかけて計5回実施されていますが、内地-ドイツ間の往復を完遂したのは「伊号第八」の行った一回のみでした。

 

呉へ帰投後に再整備を受けた「伊号第八」は、昭和19年3月よりインド洋・モルディブ方面での通商破壊任務に就きます。

3月36日には蘭国貨物船「ティラサック(5,787トン)」を雷撃し撃沈、30日には英国貨物船「シティ・オブ・アデレード(6,589トン)」を雷撃後砲撃し撃沈します。

4月に入り、16日にはモルディブ南方で帆船を砲撃し撃沈、次いで6月30日には英国貨物船「ネルール(6,942トン)」を雷撃後砲撃し撃沈します。

さらに、7月2日には米国リバティ船「ジーン・二コレット(7,174トン)」を雷撃し撃沈した後、整備のためペナンを経由し横須賀へ帰投します。

 

米リバティ船の一隻「ジョン・W・ブラウン」(出典:Wikipedia)

 

これらのインド洋における通商破壊作戦においては、2件の国際法違反事件があったとして、戦後の軍事裁判で取り上げられています。

一件は、蘭貨物船「ティサラック」を撃沈した際に、生存者の一部を甲板に引き上げて尋問した後刃物で刺殺したり、レンチで撲殺を行い、さらに海上にいる生存者にも機銃掃射を行った事件。これにより乗船者103名中98名が死亡したとされます。

もう一件は米リバティ船「ジーン・ニコレット」を撃沈した際に、生存者の一部を甲板に引き上げ殴打やナイフ・銃で殺害し、海上の生存者達を機銃掃射したとされる事件。

これらの関係者は、裁判により重労働を課す刑を受けています。

 

帰投後、昭和19年10月から11月にかけて横須賀で行われた整備では、航空兵装を撤去し4隻の「回天」を搭載できるよう改装を受けた後、昭和20年3月に米軍の沖縄侵攻に対するため大分県・佐伯港を出港します。

そして、3月28日に「敵輸送船2、駆逐艦4の船団を発見」との連絡を最期に消息を絶ちます。

 

米軍の記録によると、3月30日夜間に沖縄本島沖の米軍集結地点で米駆逐艦「ストックトン」が不審な船を発見、不審な船は潜航しようとしており帝国海軍の潜水艦と判断されます。

駆逐艦「ストックトン」は、潜水艦に対し7回の爆雷攻撃を行い、海面に重油が噴出したことで損傷を与えたことを確認します。

さらに、接近してきた米駆逐艦「モリソン」が攻撃に加わると、潜水艦は浮上してきます。この潜水艦に対し「モリソン」が砲撃を開始すると、潜水艦の上部構造物は破壊され船体に穴が空き、3月31日未明に艦尾から沈没します。

この潜水艦が「伊号第八」であったとされています。

 

米駆逐艦「モリソン(DD-560)」(出典:Wikipedia(英語版))

 

壮絶な最期を迎えた「伊号第八」潜水艦ですが、「遣独潜水艦作戦」を唯一成功させ、インド洋での通商破壊作戦では撃沈総数5隻、計26,492トン(帆船1隻のトン数を除く)と大きな戦果を挙げた武勲艦です。

 

大東亜戦争中に、多大な労力をかけドイツとの技術交換を行った事実があることについて触れておきたく、今回取り上げてみました。

 

ブレスト港口の「伊号第八」潜水艦

(出典:ハンディ版日本海軍艦艇写真集「潜水艦伊号」No.19、1997年12月、光人社、P29)

 

なお、前回・今回のブログは、Wikipediaの他に

・世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社

・歴史群像シリーズ「日本の潜水艦パーフェクトガイド」2005年4月、学習研究社

・ハンディ版日本海軍艦艇写真集「潜水艦伊号」No.19、1997年12月、光人社

を主に参考としています。