今回は、これまであまり取り上げなかった潜水艦を取り上げようと思います。番号の艦名を持つ艦艇は、なかなかイメージが広がりませんし、現代に引き継がれていませんから。
今回取り上げるのは、大東亜戦争の行方に少なからず影響を与えたともいえる事件の舞台となった「伊号第一」潜水艦です。
第一次大戦以前に帝国海軍が建造した潜水艦は、艦形も小さく外洋での作戦には不十分な沿岸警備型の潜水艦でした。一方で、第一次世界大戦では、大型の船体と長大な航続力を持ったドイツ海軍の「Uボート」が、外洋において通商破壊作戦により戦果を挙げていました。
そこで帝国海軍でも外洋型の大型潜水艦の建造を計画します。
これには第一次世界大戦の戦利艦として入手した機雷敷設潜水艦である「○一」は常備排水量が1,160トンと大型の潜水艦で、当時のドイツにおける技術を吸収することができたほか、ドイツの潜水艦設計技師や、ドイツ潜水艦の元乗組員を高給で引き抜き、大型潜水艦に対する知識・技能を吸収していきます。
戦利潜水艦「○一」(出典:Wikipedia)
また、帝国海軍では当時最大最新の巡洋潜水艦として計画された「U-142」型の図面の入手に成功します。これには、川崎造船所(現・川崎重工業)の当時社長であったの松方氏の働き掛けにより実現した、とも言われています。
【要目(U-142)】
排水量(水上):2,124トン、(水中):2,785トン、長さ:97.50m、幅:9.06m、吃水:5.38m
機関:ディーゼル機関×2、軸数:2
出力:(水上)6,000馬力、(水中)2,600馬力、速力:(水上)17.5ノット、(水中)8.5ノット
兵装:6cm45口径砲×2、8.8cm30口径高角砲×2、50cm魚雷発射管×6(魚雷24本)
※出典:Wikipedia(英語版)
ドイツ潜水艦「U-142」(出典:Wikipedia(英語版))
そして、大正12年度の艦艇建造新計画により、4隻の潜水艦の建造が計画されます。帝国海軍では、これらの潜水艦を外洋での艦隊決戦の補助艦艇と位置付け、「巡洋潜水艦」の呼称を受け、「伊一型」潜水艦は「巡洋潜水艦」の最初の型という事で「巡潜一型」と呼ばれました。
この計画で建造された第一艦が「伊号第一」潜水艦で、大正12年3月に川崎造船所で起工され、大正13年10月に進水、大正15年3月に竣工します。
なお、当初は「第七十四潜水艦」と命名されていましたが、進水直後に潜水艦の命名基準が、等級一等・艦型名巡潜型にそれぞれ改正されたことから「伊号第一」潜水艦に改められました。
【要目(伊号第一)】
排水量(水上):1,970トン、(水中):2,791トン、全長:97.50m、最大幅:9.22m、吃水:4.94m
機関:ラウシェンバッハ式2号ディーゼル機関×2、軸数:2、乗員数:60名
出力:(水上)6,000馬力、(水中)2,600馬力、速力:(水上)18.8ノット、(水中)8.1ノット
兵装:14cm40口径砲×2、7.7㎜単装機銃×1、53cm魚雷発射管×6(魚雷22本)
※出典:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P41
「伊号第一」潜水艦(出典:Wikipedia)
ドイツ潜水艦「U-142」と要目を比較すると、よく似ていると思います。「伊号第一」潜水艦は「U-142」の図面を踏襲し、主機、電動機、電池、潜望鏡、防水測距儀などの主要部品はドイツから輸入されています。兵装のみは帝国海軍式に改められているものの、「和製Uボート」でした。
「伊号第一」潜水艦は、竣工した際に横須賀に配置され、艦隊型潜水艦として第二艦隊、後に第一艦隊に所属し主力艦隊に列せられます。
昭和7年頃に電池交換など能力改善工事実施しましたが、昭和12年には第一線で新造時能力を発揮できるとされる「第1期艦齢」の12年を過ぎたため、昭和12年度から実施された「マル3計画」では代艦が建造されることとなり、昭和16年度の計画終了時には退役予定でした。
しかし、世界情勢が緊迫化するに伴い第一線に留まることになり、昭和15~16年に装備品の更新、性能低下の改善および司令塔部分の改正が行われます。
大東亜戦争開戦時にはハワイ方面へ進出し、真珠湾攻撃の際にはカウアイ島東方の沖合で紹介任務に就いています。昭和16年12月31日にはハワイ島のヒロ湾を砲撃、米海軍の水上機母艦「ハルバート」に砲弾1発を命中させています。
駆逐艦時代の米水上機母艦「ハルバート」(出典:Wikipedia(英語版))
昭和17年2月からはオーストラリア西岸での通商破壊作戦にあたり、6月からは北方に移動しアリューシャン方面の哨戒にあたります。さらに昭和17年9月からは再度南方へ進出し、ニューギニア方面への物資輸送などを行います。
そして、昭和18年1月29日夕刻に、ガダルカナル島カミンボ岬付近で半浮上して揚陸準備中に、ニュージーランド掃海艇「モア」と「キーウィ」の爆雷攻撃を受けて損傷し、浮上しての交戦となります。
その後、「伊号第一」は左舷後部に「キーウィ」の体当たり攻撃を受け、さらに「モア」と「キーウィ」の砲撃により艦長が戦死し、水雷長の指揮でのカミンボ沖合に座礁しますが、浸水で右舷側に大きく傾斜して放棄され、その後沈没します。
ニュージーランド海軍掃海艇「モア」
※出典:HP「NATIONAL MUSEUM OF THE ROYAL NEW ZEALAND NAVY」
http://navymuseum.co.nz/hmnzs-kiwi-moa-bird-class-corvettes/
艦長以下乗員27名が戦死し、艦内の機密書類の一部は回収され、海岸で焼却されました。しかし、艦内の暗号書等の機密書類のほとんどは処分がしきれず、その連絡を受けた帝国海軍では「伊号第一」の処分を計画します。
昭和18年2月2日の夜には「伊号第一」の生存者が陸軍第一船舶団の協力を受け、大発で現場海域に向かい爆雷2発を使用して艦体を爆破しますが、うまくいかず同月10日には、ラバウル航空隊の99式艦爆爆撃を行いますが、1発を命中させたのみで、処分は不完全なままになってしまいます。
2月11日にはとうどう米軍が進出し、米魚雷艇の「PT-65」が「伊号第一」の艦体の調査を行い、同月13日にはニュージーランド特設敷設艇「マタイ」と米潜水艦救難艦「オルトラン」により、艦内水没部を米軍の潜水夫に捜索され、20万ページに及ぶ日本海軍の暗号書や機密書類が引き揚げられてしまいます。
沈没した「伊号第一」潜水艦を捜索するアメリカ海軍の魚雷艇「PT-65」」(出典:Wikipedia)
この「伊号第一」から引き揚げられた暗号書は、米軍による帝国陸海軍の暗号解読活用され、暗号内容が解読されるようになるという大打撃を受けるという、痛恨の出来事となってしまいます。
「伊号第一」には二代目に引き継がれます。
二代目「伊号第一」は、昭和17年9月に策定された「改マル5計画」で建造予定の潜水艦(甲)、仮称艦名第5093号艦として計画されます。
昭和18年6月に川崎重工業泉州工場で起工され、当初は「伊号第十二」潜水艦と同型となる予定でしたが、建造中の昭和18年後期に建造隻数が削減された「伊四百型」潜水艦を補うため、「伊号第十三」潜水艦と同型の水上攻撃機2機搭載の艦型に変更され建造が進められます。
昭和19年6月に進水すると、神戸の川崎重工業艦船工場へ移されますが、艦船工場での艤装工事は未着手で、主電動機2台と軸系装置の設置が完了していたに留まり、工程70%の状態で以降の工事は中止され、未成のまま終戦を迎えます。
【要目(同型の伊号第十三)】
排水量(水上):2,620トン、(水中):4,762トン、全長:113.70m、最大幅:11.70m、吃水:5.89m
機関:艦本式22号10型ディーゼル機関×2、軸数:2、乗員数:108名
出力:(水上)4,400馬力、(水中)600馬力、速力:(水上)16.7ノット、(水中)5.5ノット
兵装:14cm40口径砲×1、25㎜3連装機銃×2、25mm単装機銃×1、
53cm魚雷発射管×6(魚雷12本)、射出機×1、水上攻撃機×2
※出典:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P62
川崎重工業艦船工場に係留中の「伊号第一」潜水艦(二代目)
(出典:Wikipedia:赤○で囲んだのが同艦)
未成に終わった「伊号第一」潜水艦は、昭和20年9月18日に枕崎台風により神戸市敏馬沖で沈没してしまいます。その後昭和22年年4月に浮揚解体されました。
初代の「伊号第一」は、最期において痛恨の出来事があったものの、安全潜行深度が64mに制限されるなど、老巧化した船体に鞭打ちながらも、撃沈した船舶1隻(8,667トン)、撃破した船舶1隻(1,190トン)の戦果を挙げています。
そして、昭和47年にオーストラリアのトレジャーハンターにより「伊号第一」の船体が発見され、艦首部分は浮揚された後に解体されますが、それ以外の部分は2つに分断され、艦首側は水深13m、艦尾側は水深27mの地点にそれぞれ沈んだ状態で今に至っています。