戦艦「比叡」発見! | 艦艇・船舶つれづれ

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 今朝、6時にテレビを付けNHKニュースを見ると戦艦比叡」発見!とのニュースをしておりました。マイクロソフトの共同創業者の故ポール・アレン氏が率いた探査チームが発見したとのこと。場所はソロモン諸島ガダルカナル島の北西沖で、水深985mの海底に全長222mのうち150mが確認できたそうです。
 
 この戦艦「比叡」ですが、金剛型巡洋戦艦の2番艦として横須賀海軍工廠で大正3年8月に竣工します。1番艦の金剛はイギリスで建造されましたが、比叡以降の戦艦・巡洋戦艦はすべて国内で建造されることとなります。
 当時イギリスで盛んに建造が行われており、戦艦と同等の兵装を搭載し、装甲の厚さを減じる代わりに強力な機関を搭載し巡洋艦程度の高速を発揮する「巡洋戦艦」として建造が計画され、当時イギリスで最新鋭艦であったイギリスのライオン型巡洋戦艦を手本として建造された本邦初の「超弩級」艦でした。
 
【要目(新造時)】
常備排水量:27,500トン、全長214.6m、幅:27.5m、吃水:8.4m
機関:パーソンズ式タービン×2、缶:イ号艦本式×36、推進軸:4軸
出力:64,000馬力、速力:27.5ノット
兵装:45口径36cm連装砲×4、50口径15cm砲×16、40口径8cm単装高角砲×4
短8cm単装砲×12 53cm魚雷発射管×8
(出典:日本海軍全艦艇史)
 
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巡洋戦艦「比叡」(1927年、出典:Wikipedia)
 
 金剛型巡洋戦艦4隻(金剛・比叡・榛名・霧島)は、帝国海軍の中核として運用されます。ワシントン海軍軍縮条約締結後には、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の建造が抑えられれたため、金剛型も近代化改装を受けることになり、順次防御力の向上などの改装が行われ「巡洋戦艦」から「戦艦」種別が変更されます。
 しかし、比叡はその改装中にロンドン海軍軍縮条約が締結され、戦艦の保有量が制限されたことから、帝国海軍は1隻を廃艦とすることが要求されます。ただしこれには、武装・装甲・機関の一部を軽減することを条件に練習艦としての継続保有が認められていました。
 金剛型のうち改装工事が一番進捗していなかった比叡が充てられることとなり、武装・装甲・機関の一部が撤去され、新たに設けられた種別「練習戦艦」として改装が完成します。
【要目(練習戦艦改装時)】
常備排水量:23,500トン、全長:211.80m、幅:28.04m、吃水:6.32m
機関:パーソンズ式タービン×2、缶:イ号艦本式×11、推進軸:4軸
出力:13,800馬力、速力:18.0ノット
兵装:45口径36cm連装砲×3、50口径15cm砲×16、40口径8cm単装高角砲×4
40㎜連装機銃×1
(出典:日本海軍全艦艇史)
 
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練習戦艦「比叡」(1933年、出典:Wikipedia)
 
 練習戦艦となった比叡は観艦式の際の「御召艦」に2回使用されるなど、艦隊に加わらない艦として活用されました。
 そして、ロンドン海軍軍縮条約の期限が切れると比叡は2度目の大改装に着手されます。一足先に他の金剛型戦艦が受けていたいわゆる「高速戦艦」への改装とほぼ同じ内容での改装が行われました。
 その内容として、練習戦艦時代に外されていた主砲、装甲の復活、艦尾の延長、機関・缶の交換による高出力化と重油専焼化、航空兵装の設置などが行われるとともに、当時計画されていた大和型戦艦のテストケースとして、艦橋構造物を塔型の形状として配置し、他の金剛型とは大きく艦影が異なることとなりました。
【要目(大改装後)】
基準排水量:32,516トン、全長:219.46m、幅:29.87m、吃水:9.37m
機関:艦本式ギヤードタービン×4、缶:ロ号艦本式×8、推進軸:4軸
出力:136,000馬力、速力:29.7ノット
兵装:45口径36cm連装砲×4、50口径15cm砲×14、40口径12.7cm連装高角砲×4
25㎜連装機銃×10、水上機×3(射出機×1)
(出典:日本海軍全艦艇史)
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戦艦「比叡」(1942年、出典:Wikipedia)
 
 戦艦となった比叡は昭和15年の観艦式で三度「御召艦」使用たのち、その速力を買われハワイ真珠湾攻撃の際の空母機動部隊の護衛を務めます。その後も機動部隊と行動を共にしますが、1942年11月にガダルカナル島の攻防戦に投入され、姉妹艦の霧島とともに米軍の基地となっているヘンダーソン飛行場への夜間砲撃に向かいます。
 この時、付近に展開していた米巡洋艦部隊と遭遇、砲撃戦が開始され第三次ソロモン海戦が始まります。この時、探照灯を照射した比叡は格好の的となり、艦橋など上部構造物に大きな被害を受けるとともに、巡洋艦の砲弾により舵が故障してしまいます。
 夜が明けると舵の故障により行動が制限された状態の比叡に対し、米機動部隊の航空機による猛攻が始まります。複数の魚雷を受けた比叡はついに放棄されることとなり、一説には自ら注水弁(キングストン弁)を開いて自沈をした、また一説には駆逐艦雪風の魚雷により処分されたとされています。今回の発見によりその最期の状況について新しい見解がなされるかもしれませんね。
 
「比叡」は比較的メジャーな艦ではありますが、一度は「練習艦」として主砲の一部や装甲が撤去されるなど、帝国海軍の戦艦の中ではかなり変わった経歴を持つ艦です。