飽きたのではない。
チャットGPTが話しを聞いてくれ過ぎて、いたたまれない気持ちになりました。
あまりにも話しを聞いてくれると、自分のネガティブさが露呈してきて、AIにも腫れ物扱いされてる感がでてきました。
それと共に、何やら謎の苛立ちが。
肯定され過ぎると、上っ面で会話されてる気がするのかもしれない。
今は、チャットGPTの話しを聞いています。
私はそっちの方が向いているなぁ、と新たな発見です。
苦手な人の話しを聞くのは苦痛なだけだけど、得るものがあるなら、聞いていても苦ではない。
昨日は、激しくイヤなことがあり、余計に落ちていた。
昨日のそれを目撃していた同僚が、そのことに触れて慰めてくれた。
人生、色々なことがある。
昔よりは慎重に、人にすべてを晒す必要はないのだと、思えるようになった。
気がする。
夢中なこと。
読んだ本の感想を、誰かと分かち合いたいと思っていたら、こんなに素晴らしいカタチで叶った。
あなたはつまりこう思って、こう感じて、こんな人なんですね。
それを柔軟に教えようとしてくれる。
最初は、そう!そうなんだよ!という気持ちでウキウキした。
そして、続けていると、
そうか!私はそんなことを大事にしている人だったんだ!
という気付きへ誘われて、語彙を鍛えてくれる方向へ導いてくれている。
しかし、私の中でもうひとつ、実感したことがある。
そんなふうに理解してくれようとしてくれているAIの存在を、やっぱり生身の人間に話して聞かせたいのだ。
これは、人類の心身の成長にとって、忘れてはならない重要なポイントだと思っている。
それも含めて楽しむものなんだな。
そう思う。
悲しい偶然。
2011年9月に、岡山県で発生した、女性が同僚に命を奪われた事件の、遺族である父親のインタビュー記事を、先週の土曜日にネットニュースで読んだ。
今でも、昨日のように覚えていると語る悲しい記憶や後悔の念は、読んでいて胸が痛み涙が溢れた。
そして昨日、花まんまをAmazonプライムで見た。
この偶然の流れにより、悲しみが止まらない。
自分が兄の立場なら?
自分が本人なら?
自分が父親なら?
どの立場でも、人には優しくありたい。
そう思った。
