新島 | Viva '60s SurfStyle!!!

Viva '60s SurfStyle!!!

1960年代のカリフォルニアサーフスタイルに心を奪われた男の独り言。

子供の頃、親父が急に単身で放浪の旅に出てしまった。
時折は帰ってくるのだが、いつの間にかまた居なくなってしまう。
俺が小学校の時には、親父と一緒に暮らし記憶が殆ど無い。
その位、親父は家に居なかった。



そんな親父がある日を境に新島に住み着く様になった。
切欠は、職人だった親父の弟子が新島の出身で、里帰り後仕事が忙しくなり、親方であった親父に助っ人を依頼しての事だった。
ちょうど、俺が小学校の2年生位の話である。



親父の新島での生活が落ち着き始めてからは、毎年、夏は家族で新島に行っていた。
宿代は掛からなくて、船賃だけ、しかも、島民がチケットを買うと通常の半額近くだった事から、あの当時としては破格で海を渡っていた事になる。



最初の頃は家族全員で行くのが恒例だったのだが、兄弟たちは友人達との付き合いもあり、お袋も仕事を持っていた為、次第に俺一人で行く様になった。
竹芝桟橋までお袋に送ってもらい、一人で東海汽船に乗り、朝が来ると前浜に着いていたので、そこで親父と合流。
この夏休みのスタイルは中学2年まで続く事になる。



寂しい船内には、優しくてれた兄貴達が沢山居た。
最初は単身だった俺の行動に少々驚いていたが、トランプをしてくれたり、お菓子をくれたり、なんか、今の時代では有り得ない様な日本の平和を感じる。
今にして思うと彼等は皆サーファーだった。



あの時代の新島はまだ観光地というよりも、サーファーの島のイメージが強かったのだろうか?
親父に連れて行かれた羽伏の海岸の小屋には沢山のボードが重ねられていた。
親父の友人でサーフショップを営んでいたおじさんが、海岸を仕切っていたらしく?詳しく説明してくれた記憶が蘇る。



サーフショップのおじさんは、トラさんと呼ばれていて、確か店の名は「トラ小屋」だった様な気がする。
お店に行く度に「東京の友達あげなさい」って、ステッカーをくれた。
最初の頃は友達も喜んでくれたが、毎年「トラ小屋」のステッカーを土産に持ってくるもんだから、仕舞いには誰も貰ってくれなくなり、自分の部屋に溜まる一方であった。



昭和一桁生まれの親父がサーフィンなんてする筈も無いのだが、妙にそのおじさんとは息があった様で、牛乳煎餅屋のおじさんと3人で呑む時にはいつも連れて行かれ、3人が泥酔している姿を小学生の俺は横目で見ていた。
そして、いつも心に思ったのは「こんな大人になりたくない・・・」だった。



俺が中学を卒業する頃になると親父が急に帰って来てしまった。
理由は良く判らないが、きっと寂しかったのだろう。
荷物も、自宅も、そのままで帰って来てしまったもんだから、新島の友人に頼んで必要最低限の荷物だけ送ってもらっていた様な気がする。



そして、親父が帰って来てからは俺と新島は遠い関係になってしまった。



俺が10代後半の頃に新島が「ナンパ島」としてスポットを浴びる様になった。
子供頃から新島に行き来していた俺的には複雑な感じであったが、色々な新島があるのだと思った。
そして、サーフィンを始めて三度、新島の存在を強く意識した。
「鮫が出るから沖まで行くな!」と言われた事がトラウマになっている俺的には新島でサーフィンをしたいとは思わないが、懐かしい風景を見に足を運んでみたい気がする。



子供の頃に一緒に遊んだ友人達は元気だろうか?
他界した親父の写真を片手に近々海を渡ってみたいと思う。



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