神武東征の真実③ ~ニギハヤヒの正体~ | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

前回もちょっとだけ触れましたが、この段に入ってきましてから、予想はしていたものの、この「雑学」的な本文周辺の解説を書くことが、結構大変になってきました。

大変というのは「書く」という行為ではなく、その前の行為のことです。

書くことに関して言えば、一時期は著述で生業を立てていたこともありましたので、億劫なことはなにひとつありません。書くというのは表現の問題なので、大事なことはその題材をどうまとめているかということです。

ちょっと横道に逸れますが、筆者は「歴史小説家」というジャンルに分類される方を昔から好きでした。

吉川英治先生、司馬遼太郎先生は別格です。司馬遼太郎先生とは一度だけ雑誌の対談でお会いしました(あ、勿論、対談の相手はわたくしではありません 笑 わたくしは広告屋ー現在でもーでしたので対談のセッティング係です)。丁度、個人的に連載中の「街道をゆく」に填まっているときでしたので、対談の前後の時間に、幾つか先生の書かれたことに関してお尋ねさせて頂きました。

このお二方を別格と記述しましたが、いや、そうではなく、歴史小説家という方々が、作家としても、史学者としても、また表現者としても、あらゆる面で別格な存在なのです(時代劇作家とはちょっと違います...)。

というのも、この方々の創造力というものは計り知れない次元にあります。
そもそもが現在のことではありません。
現在のことだって、フィクションというのは、人物や場所の設定、物語の構成、更には作家ならではの提言というものが盛り込まれています。

歴史小説家というのはそれを過去、しかも参考になるものは記録だけです(近代史なら写真というものも出て参りますが...)が、それだけで創作してしまうのです。

創造力、さらにその創造して作り上げた世界に、今度は推論を持ち込むという作業をする訳です。
なので、昔からもっとも憧れていた世界でした。

そういう自分も、何篇かは歴史物を書きました。
しかし、残念ながら創造力が足りないかったので、全く面白くもなんともありませんでした。笑

さて、この古事記、さらには参考にしている日本書紀を、この段になって苦戦し始めたときに前述のことを思い出しました。
思い出したというよりは、正しくは「八方塞がり」になった感覚でした。

若い頃、「八方が塞がっても天はあいている」っていう話を教わったことがあります。
どなたにだったかは忘れました。
参禅会に通っていたので僧正さまだったか、祖母のあとに一時期教わっていたお茶の先生だったか、確か、おひとりではなく、何人かからそんなお話を聞きました。
実感はありませんが、それは真実だと思いました。

ただ、自分がそんな四面楚歌の状況になったら嫌だろうなって、そんな風に思いました。

でも、実際にはじめて、そんなことが起こったのが仕事でもなんでもない、この作業に関してだったことも、また、自分っておかしな人間だなぁって笑いました。

そして、わたくしが今年になって始めたことは....

「太安万侶の気持ちになって考えること」

なんです。

太安万侶は、多分、日本で最初の歴史小説家でしょう。
と申しますか、実際問題として、「古事記」は筆者が小・中学校のころは、こんなにヒットしておりませんでした。
図書館や大きな書店でも一番奥の棚に半ば忘れられていたように寂しそうに置かれていました。

それもこれも、「日本書紀」に比べると、妙に作り話じみていて、信憑性に劣っていたからなんでしょうね。

しかし、筆者が高校を卒業しようとするころ、この太安万侶の墓が発見されたのですね。
で、この人物が実在していたことが証明できた途端に、古事記は、脚光を浴びることになったのです。

つまり、古事記の実存も証明した。
古事記そのものなんですね、太安万侶というおかたは。

そこで、筆者も、太安万侶になって考えることにしたのです。
そして導きだしたのが、前2回の「いいわけ」です。

今後も詰まるまでは、このスタンスで行こうと思います。
 

 

〇ニギハヤヒの正体とは

さて、そんな皆に忘れ去られて図書館の片隅にあった古事記を引っ張り出したのが中学校の高学年のころです。

確か、関連した本が3冊ありまして、全部読みましたが、ちょっと驚いたのはわたくしの以前に、いすれも3回の貸し出し記録があったこと。
へぇー、結構、読まれているんだなぁって。
と、申しますか、中学時代には古文は普通に学科として現代国語と別れておりましたので、わたくしは「興味で...」でしたが、勉強家のかたは借りたのかなぁって。
しかしその後は長いこと忘れておりました。

ただ、流石に、伊勢神宮とか、そういう機会が少しずつ増えてきてからは、天津神系の正統的なところは、実際、どんなように書かれているのかは知識として持っていないとと思い、ただ、前述のように古事記と日本書紀の違いはとても多くて、そこまで研究する気には当時はなれませんでしたので...

しかし、このニギハヤヒについて、中学生以来、わたくしにその存在を思い出させてくれたのは、なにを隠そう、ジブリの「千と千尋の神隠し」でした。
白竜の姿をしたハクが、千尋を乗せていたときに思い出した自分の名前「ニギハヤミコハクヌシ」って名前。
で、作品では千尋が「琥珀川」って川の名前からそれを思い出したので「コハクヌシ」の方に興味を引くレトリックを使っていますが、作者の本音を「神さまみたい」って、千尋のセリフに余韻を持たせましたね。巧妙な、さすがに宮崎駿氏。

そこで筆者も忘れていた中学の記憶に繋がったのですね。
それがニギハヤヒさま。
 

正直、ニギハヤヒさまの記紀での取り扱いは至って軽いものです。
筆者は不服だし、恐らく宮崎氏も不服なんだと感じました。それが、あの映画で、実は一番印象に残ったことです。
そういう意味で、宮崎氏は素晴らしい創作者だと思いますし、そういう理由で、あの作品はジブリ作品では群を抜いているとも思っています。

 

ニギハヤヒはニニギさまとは別に降臨された神様だと記紀には明記されています。

ではどういう系統なのでしょうか??
実は、記紀にはその辺りの系統的なことは全く表記がないので厄介なのです。
但し、古事記にはイワレヒコたちが大和を侵攻している最中に突然現れ、天津神であることを主張しますが、日本書紀では、そもそもウガヤフキアエズの皇子たちが東に向かうきっかけになるような一文が入っています。

それには、
「『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。
(中略)その飛び降りた者とは饒速日(ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか」
と書かれています。

つまり、これが正しいとするならば、イワレヒコたち皇子は、ニギハヤヒの存在を知っていた、しかも、同じ天津神だと知っていたということになります。

しかも、『先代旧事本紀』では天火明命(アメノホアカリ)と同一人物だと伝わっています(『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)とは、日本の史書であり、神道における神典です。序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが偽書とされ、現在で延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられています)。

天火明命とは、父がアメノオシホミミ、母がヨロヅハタトヨアキツシヒメ、つまり、これはニニギさまのご兄弟、というか兄神さまに当たります。

え?? ということは、この神さまも天孫ということになりますね。

しかも、天孫ということになると、イワレヒコさまは天孫ニニギさまの曾孫ですから、それよりも系図の上では皇祖神であるアマテラスさまに近いことになります。

そういうかたが既に大和に降臨されていたのです。
しかもそれをイワレヒコたちは知っていたことになります。

ここで疑問が生まれます。

なぜ、古事記においてこの一節は語られなかったのでしょうか??

ここがポイントです。


で、ここでは「太安万侶になって考えてみる」ことをしないとその謎は分かりません。

なので、なってみました。
そうしたら、分かりました。

ニギハヤヒは結果的に「降臨したものだった」ことでよかったからです。
そしてこれは「出雲族」と理由が一緒なのです。
太安万侶が一番悩んだのは神話と史実の狭間でしょう。

既に、この地を天孫が治めていたのです。
いや実際に治めていたのはナガスネヒコ(トミビコ)です。そのナガスネヒコの妹を妻に娶っていましたが、それは、ニニギやホヲリと理由が一緒でその国(族)の娘を娶ることで、その地の神力を取り入れていったのです。

実は出雲も一緒なのです。出雲に降臨したのはスサノオさまです(こちらは天孫でなく天弟です)。
そのスサノオの娘を娶ったのがオオクニヌシさまです。ここは構図は逆ですが、それでオオクニヌシさまは葦原中つ国を平定されたことになっております。

どちらも一緒なのです。

太安万侶は出雲族に関しては、「国譲り」という美談によって天孫族の正統性を主張できました。

しかし、この神武東征が難しかったのは、同じ天孫なのだとしたらなぜそこに争いが起きるのか、そしてそれはイワレヒコが単なる侵略者になってしまうという危険性を検証し、ここに物語を作る必要があったのです。

それが、ニギハヤヒとの「交渉」だったのです。ニギハヤヒとお互いが天孫系同士であり、その証拠を提示することで、天孫の正統性を示しあった上で、ニギハヤヒがイワレヒコに委譲したかたちを取りました。
なので、ニギハヤヒはナガスネヒコを説得し、応じなかったナガスネヒコを成敗した形を取りました。

これは「調略」です。

つまり、イワレヒコはここでも無益な戦は極力さけて、大和を平定したという流れになってきます。


しかし、ひとつだけ疑問が残ります。

もしそうだとしたら、なぜ、最初にトミビコとの戦になったときに、ニギハヤヒが現れなかったのか??

なぜでしょうか??
実はこのときにはイワレヒコがなにものだか分らなかったんです。
そうなのです。
それが、分からせたのが実はフツノミタマの役割なのです。
フツノミタマが天から授けられ、その神力にはじめてニギハヤヒが天孫の存在に気づくのですね。

なので、ここでフツノミタマが如何に重要なのかも分かります。


そして、これらすべての種証しが「石上神宮」です。
フツノミタマはこちらのご神体であり、そして石上神宮は物部氏の祀り宮。
ニギハヤヒは物部の祖という位置付けになっている訳です。

太安万侶はこのロジックを用いて、そもそも大和にあった大きな豪族を、降臨の縁者ということで一本化することに成功しました。
だから、日本書紀にはあった一文を消すことで、天孫の正統性と、さらにイワレヒコがその中でも最も後継する者に相応しいことを、この九州から大和に来るまでの間に多くの国津神と出会い(豪族を従え)、その土地の力を得ることで国を平定する本物の力を取り入れ、正真正銘の支配者であることを記さらなければいけなかったのです。

やはり、前述しましたが、このあたり、神話と史実の、ある種、不条理と整合性を調整していったところは素晴らしい創造力だと思います。


神武天皇の関連は、もう少しつづきます...





 

 

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