大和の巡礼(5)石上神宮(いそのかみじんぐう) | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

 

そういえば、前回、蛙のエピソードがありましたが...
書き忘れてしまったのですが、あの際に不思議と頭によぎったものがありました。


ククリヒメさまです。


9月9日、重陽の節句の日でしたが、アメブロでわたくしが拝読させて頂いている方々のこの日のお話は、ククリヒメさまのお話が多かったのです。
(「大神神社~後編~」でもそんなことに触れましたが...)


別にわたくしがイザナキさまという訳ではなく(だって、横にイザナミさまをお連れしている訳ではありませんから...)、
やはりなにか伝えてくださったのだと思います。

あのお社は、猿田彦さま、天鈿女命さまの夫婦神を祀ってある摂社でしたので...
夫婦のことなのでしょうか...


蛙??


ん、でも、実はもしかして、市磯長尾市(いちしのながおち)もご祭神でしたが、こちらでしょうか??

 

そこでちょっと思い出したのが、前日の夢に、久しくお会いしていない素敵なひとが出てこられたのですね。
大和神社で市磯長尾市だから、「夢」の方に関係するのかなぁって...


で、蛙!!!


多分、今後のお示しだったことは間違いありません。
それは、またどこかで解明するでしょう。

人生は必然ですから、わたくしはきちんとやるべきことをやる。

 

9月9日、ククリヒメさまにお会いできた気分を味わえたなーっと思いながら、このときは次の参拝にクルマを走らせておりました。


さて、大和の巡礼も最後の参拝になりました。


石上神宮(いそのかみじんぐう)です。


ここへの参拝を決めたのは、大和神社と略同時期です。


と、申しますか、折角奈良まで行くのに、大和神社だけでは勿体ないと思ったこと、また、大和神社から比較的近いこと、そしてなんと申しましても、ご神体。
丁度、ブログの本編で「神武東征」を書きますのに、こちらは外せないということ、などなどでしょうか??

結果、今回の巡礼ツアーからは少し意図が変わってしまった感じな致しますが...

ですが、行ってみなければどうなるかは分かりませんもので...
 

 

 

石上神宮(いそのかみじんぐう)
所在地  奈良県天理市布留町384
主祭神  布都御魂大神
神体  布都御魂剣
社格等  式内社(名神大)
            二十二社(中七社)
            旧官幣大社
            別表神社
創建  (伝)崇神天皇7年
本殿の様式  流造
札所等  神仏霊場巡拝の道19番(奈良6番)
例祭  10月15日

 

ご神体の布都御魂大神とは、このブログの本編で出てきたばかりですね。

「初代 神武天皇 5.熊野の災難」で、高倉下が神武天皇の下に持参した剣でしたが、もとはといえば、建御雷神が葦原中国を平定したした際に用いた刀です。刀がご神体といえば、なんといっても覚えが高いのは草薙神剣をご神体としている熱田神宮が有名ですね。この剣も色々なところに出て参りますし、ご神体ということは神さまなんですね。

 

日本には八百万の神がいらっしゃいますが、それは、刀もそうなんですね。そのあたりが日本の神、というか、神という概念の素晴らしいところなのですね。
 

実は昨年の丁度この時期に、和歌山の「日前神宮・國懸神宮」に参拝させていただきましたが、こちらもご神体は、日像鏡、 日矛鏡で、これは、「天の岩屋戸」の際に「八咫鏡に先立って鋳造された鏡」、言ってみれば試作品なのでしょうか?? それをお祀りしている神社なのでした。その神社に参拝していた頃から、近々、奈良に行くことがあったらこのお社をお訪ねしてみようと。

なので、大和神社に行くことを淡路で決めた際に、ここには行くことが決まっていたのですね。

ですが、まさか、丁度、神武天皇のところを書いているときに、ここに行くことになるなんて、なんという偶然なのでしょう。

あ、失礼しました。偶然はありません。これも、こういうことになっていたのです(事実、一時期、まったく筆が進みませんでしたから...)

 

 

思えば、朝、大阪あべのハルカスから出発して、ここに着いたときはそろそろ夕刻近くなっておりましからでしょうか、わたくしが到着したときはすごく大勢の方々がいらっしゃいました。観光バス(そんなツアーに入る神社なのですね???)や、外国人客もたくさん来られてました。
しかし、駐車場にクルマを停めていたら、その大勢の方々はどこかへ行ってしまい、とても穏やかに参拝ができました。


 

 

手水所

 

 
これが有名な楼門です。
 

 

 

拝殿にて参拝。

 

白河法皇がこのお社には信仰が厚かったと聞いたことがあります。
この拝殿の中はとても重厚な造りであることを書物で読んだこともあります。


 

ところで、石上神宮といえば、物部氏です。


 

物部といえば、祖先は、大和を古くから本拠地にしている豪族、神部氏です。
神部氏はニギハヤヒさまの系統です。

 

 

そうなのです。
実は、神武天皇にも関わってくるニギハヤヒさまにご縁のあるお社なのです。
なんというか、やはり、このタイミングなんですね。
ニギハヤヒさまのことは、また色々なところで書くと思いますが、物部氏の方はちょっとまだわからないので(勿論、これからしょっちゅう登場なさいますが...)、折角ですので触れておきます。


物部氏はそもそも、兵器の製造・管理を主に管掌していましたが、そのお陰で大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長いたしました。
5世紀代の皇位継承争いでは、軍事的な活躍を見せ、ついに雄略朝で最高執政官を輩出しました。

528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱を鎮圧、欽明天皇の時代になると物部尾輿が大連になりました。

しかし、欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争い、その後、蘇我馬子、物部守屋の時代に大臣・蘇我馬子は廃仏派である敏達天皇に奏上し、仏法を信奉する許可を取り付けたましたが、そのころから疫病が流行しだし、物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたとして、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、挙句の果てには3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして群衆の目前で鞭打つ暴挙に出ました。

それでも、一向に疫病は収まらず、その後に即位した用明天皇は蘇我氏と縁があり崇仏派であったが、即位してわずか2年後天然痘での587年5月崩御してしまい、こうした中ついに物部氏と蘇我氏は全面戦争となり、結果蘇我氏が物部氏を滅ぼしました。

わたくしは幼い頃から、この丁未の乱のことは知っており、蘇我軍には若き厩戸皇子も仏さまのために戦うと加わって物部を倒し、さすがだ!なんて思っておりましたが、いま思えば、無論これは有力豪族の争いの火種ではあったものの、蓄神を信仰するなど以ての外だと、いまさらながら物部氏は正しかったと思います。

 

随分勝手な言い分でしょうが...

 

珍しく、そんなお詫びの意が入った祓詞だった気がいたします。

 

 

 

このお社は、摂社も興味深いものが...
 

 

これは、出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)、そしてその境内に末社の猿田彦神社。こちらにもサルタヒコさまです。

 

 

さらに、摂社 天神社と、摂社 七座社。
天神社は、高皇産霊神と神皇産霊神が祀られています。
ちょっと珍しいですね。


お、そして、石上神宮の人気者といえば、この鶏たち。
 

 

鶏は「暁に時を告げる鳥」として、神聖視され神様のお使いとされています。

 

 

 

ところで、これはどうでもよいことなのですが、少しだけ書いておきたいかな...

以前、寺院参拝をしていたときに結果的には「巡礼」でなかったことを薬師寺において気づき、唐招提寺に於いて、寺院巡礼をこれ以上続かけないと決めたことに関しては何度か書きましたが...

ようするに、寺院というより寺院建築を見ておりました。

建築家でもないのに...

かと言って、あんまり城郭は好きではないのですね。
多分壮大過ぎて...??

参拝のあとで知ったことなのですが、この神社には国宝がふたつもあったのですね..??

以前なら、かなり飛び付くところ(というか、一眼で大撮影大会... 笑)ですが、今回はまったく失念しておりました。

だって、参拝に訪問したのですから...

ひとつは拝殿です。
そしてもうひとつが、先ほどの出雲建雄神社の手前に建てられた「出雲建雄神社拝殿」なのです。
こちらは前述のとおり、まったく見落としておりましたので参拝すらいてしませんでした。

 

 

(石上神宮のウェブサイトから画像をお借りしました。ありがとうございました)

ちなみに楼門は重要文化財だそうです。

以前の自分なら飛びついた、いや、仏閣だったらという言い方が正しいのかもしれません。なぜかというと仏閣ではそんなに真面目に祈祷しておりませんでしたから...

いまは違います。
基本は、五穀豊穣、収穫感謝ですので。


それにしても、予想以上に色々なことが交錯した、有難い大和の参拝になりました。

もう一度、きちんと総括する必要がありますね...


つづく...



 

 

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