神武東征の真実④ ~服属と反抗、その意味~ | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

日本のことばというのはつくづく面白いと思うことがよくあります。
この国に脈々と染み入っている精神というのでしょうか??

簡単にいうと、表裏が一体であり、また、善悪というものを固定しない。
こういう考え方が根本にあるのだから、基本的に争いが起こらないのだと思います。

では、どうして争いが興るのかというと、それは、多分、文化。
なんていうひとことでは表せないものではなく、もっとわかりやすい「利害」の違う者が現れたからなのだと思います。

冒頭に書いたことばの話でいえば、

「触らぬ神に 祟りなし」

といいます(余談ですが「障らぬ神」という表記を稀にみますが、これは誤記です)。
「神様とかかわりを持たなければ、神様の祟りを受けるはずもない」
ことから、
「かかわり合いさえしなければ余計な災いをこうむる心配もないという、主に逃げの処世」。ん??
 なんというか「逃げるは恥だが 役に立つ」みたいですね。
これ、実は、そう読むのではないのですね。

また、

「捨てる神あれば拾う神あり」

というのもあります。

面白いですね。日本って色々なことわざがあるのですね。
まさに八百万の神さまの国なんですね。
ところが、面白いことに、この言葉は、あまり一般に知られていませんし、常用するひとも前記の「触らぬ神~」に比べらたら圧倒的に少ないのですね。
寧ろこの言葉は

”When one door shuts,another is open.”

と、アメリカ人がよく使うのですね。

その和訳に当てはまられているのが、この諺なのです。
つまり、日本には「捨てる神」とか「拾う神」なんていう感覚が最初からないのです。
まさに、この言い方をされている神さまというのは、勝手に「輸入」されてきた神なんです。

日本は森羅万象、すべてをそもそもが神と同意義で解釈し、認知してきました。

なので、その認知の定義から外れているものはすべて「異国」の神なのです(ここでの「国」の定義は国家ではありません)。

で、ちょっと戻って「触らぬ神」もそうなのですが、基本的に神に祟りなんてないのです。
「祟り神」自体が、創作されたものです。
誰にかって??
それは、歴史が勝者の理屈であることと同じく、その「場所」において力を持とうとしたものたちです。

共存共栄を礎としているこの国の民はバランスを重んじて暮らしていますが、ごく稀に、そういう「力」が現れるのですが、これはとても恥ずかしいことなのですね。
したがって、それは自分の「力」ではなく、「祟り」という、「神」の領域に近いものを背景に匂わすようになったのですね。

この話は、また、別の機会にも話題にすると思いますが、ここで書かせていただいたのは、前回ご紹介したニギハヤヒという神の存在が、そうして急に記紀に現れてきたかということと関連があるので、補足の意味で書きました。

 

〇服属と反抗、その意味

 

さて、いよいよ神武東征のまとめに入ってこないといけないと思いはじめました。ここは、とても大切なところなのですが、神武天皇が、熊野から大和に入ってくる過程においては、ひとつの一貫性があります。

それは、
〇抵抗するものは罰する。
〇従うものは恵みを与える。
という二面性です。
これは、「いたずらに無意味な争いをしないと」いうことです。

ですが、これは実は神武天皇だけでなく、その後の日本国を造ってきたひとたちは一貫してこういう考えです。
必要のない争いはしない。
というか、争う余裕がない。
というのが日本人の本質なのです。
それは、勿論、日本が稲作国家であることに終始しています。

ところが、実際に、神武天皇の時代は、最新の研究では稲作が伝承されていると言われている(あくまでも皇紀を基準にしての算出において)時代であるものの一方で、神武天皇の実在と、もうひとつ「海洋人」という側面を考えると、それだけでは説明がしきれない不都合がたくさん出てきます。

この「服属と反抗」という単元で括ってみたのもそれが理由であります。
そして、この言い方はあくまでも、神武側からの言い方なんです。
これは、八俣の大蛇に於ける「スサノオとクシナダヒメ」、或いは、国譲りにおける「アマテラスとオオクニヌシ」という構図と全く同じなのです。
クシナダ側に取ってみれば、スサノオも大蛇も征服者という意味では一緒なんです。
オオクニヌシにしてみてもアマテラスも八十神も圧力という意味では同じなんです。
しかし、なぜかそこに「尊い神」という部分が見え隠れしているために、抵抗をせずに服属していることになっているのです。

そして、もうひとつ、ここに「記紀」の妙を感じるのは、その服属と反抗は、国津神からみても同じ構造であるのに、いや、もっと分かりやすくいえば、それぞれの地方にはその地域ごとに「風土記」に代表される伝承があったにも関わらず、記紀はそれをうまい具合に全部飲み込んだ形として編纂していったのですが、それが、簡単にいえば、この「神武東征」だったと言えるのであります。

このあとの時代を書いていくためにすべからくなにかで飲み込む必要があったのです。
 

そして、そういうキャラクターはここまで存在しませんでした。

つまり、神代から人代への変遷の最初の部分で、改めて、神代の総集編のような意識を交えながら、この明らかに「記紀」にしかない古代の伝承を付け加えた一大フィクションが、この神武東征と言われている部分なのです。

 

 


それにしても、太安万侶、恐るべし... 笑


つづく...




 

 

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