岩代一ノ宮 伊佐須美神社 | 神々の東雲

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わたくしたちの美しい国日本の成立を、記紀や神様のはなしを中心にまとめました。

このブログは神話を中心に書いておりますが、ここのところ神社参拝の話ばっかりで...
ですが、区切りもあるので、もう数回だけこの内容を書かせて頂きます。
筆者が、いま、この試みで初めてちょっと高めの壁に挑んでいるところなので。

今秋も全国的に参拝訪問させて頂いた神社がたくさんありました。
ここ数年、春と秋はどうしても多くなるようです。
そういう季節ですからね。

恒例の「神宮」はもとより、秋の前半は念願の大和へ。これは明確に淡路からの流れです。
 

 

でもなにか不思議ですね。
淡路から大和への流れというのは。

ただし、その前に分かったことが大きかったのです。


京都は「つくりものだ」っていうこと。


これは実は、何人かの尊敬する方々から伺っておりました(中には高名なかたもいらっしゃいます)。
ですが、まったく実感できなかったのですが、春の参拝でその理由がわかりました。

その流れからの淡路、そして大和。
沖縄はそうではなかったのですが、結果的に、日本神話と日本国民の真髄に触れる玄関口にたどりつくことができました。

そして今回の会津はこれまでに何度も訪問した場所。

小学校時代の自由研究で、中学の修学旅行で、そしてその後も先祖や恩師のご縁での交流、また、家内との縁も深まった(笑)有難いところでもありますが、正直、これまでは当り前のように鶴ケ城、飯盛山、栄螺堂、武家屋敷をみて東山温泉。または裏磐梯、五色沼、檜原湖、猪苗代湖など、そんなところしか行きませんでしたが...

今回は違いました。
それは大和からの流れだったからです。
大和において、正確にここをお示し頂きましたので、10月末に慶事で訪問する機会があり、その前日に参拝に行ってきました。

 


〇伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)

所在地 福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377
主祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命
社格等 式内社(名神大)、陸奥国二宮、旧国幣中社、別表神社
創建 (伝)第29代欽明天皇21年(560年)、(創祀は第10代崇神天皇10
        年)
札所等 会津六詣出
例祭 9月15日
主な神事 砂山祭(5月5日)、御田植祭(7月12日)


この神社に参拝しようと思った最初のきっかけは、まだ、淡路に行く前にこの10月末に10年ぶりに会津若松に行くことが決定し、折角だから今まで行ったことのないところに行きたいと。冒頭でも述べた様に、会津にはそれは何度も行っており、家内と付き合うきっかけになったのもこの会津で、でしたし、「岩代の国の一之宮」というのも興味がありました。

「岩代の国」というのは、余程歴史通なかたでないとご存じないと思います。

もっとも、筆者世代の祖父母の年代は熟知しておりました。
わたくしが会津に行くといったら、祖母が岩代にいくのかいって尋ねられたことがあります。
それには理由があります。

前者は奈良時代の話、後者は明治になってすぐの東北戦争の話です。
祖父母の年代は東北戦争時に誕生していませんが、よく知っていました。
明治人がとても偉大だと思うのは、新しい日本国建設のために多くの国民がとても勤勉だったことだと思います。
祖母は確かに学者と、その後は政治家の妻であり、かつ書生さんを何人も抱えていた寮母も兼ねていましたから、その勤勉さは人並み以上だったと思います。
書生さんの中に福島ご出身の方がいらしたらしいのですが、10人を越える書生さんの出身地のことはとてもよく研究していました。
わたくしは本家から少し離れたところに住んでおりましたが、祖母は茶道の師匠でもあり、またわたくしの実家を増改築した際の約2年間、丁度小学校高学年のときには本家のすぐ裏の借家しておりましたので、その時分は毎日祖母のお茶を頂きに伺ってました。

あ、また逸れました。

祖母を例にあげましたが、とにかく明治の方々の勤勉さと、国を思い国づくりへの志しは高いものでした。
それが近代国家日本をつくりあげたのだと思います。

「岩代の国」でした。

岩代の国の一之宮ということですが、前述したように、岩代は奈良時代に陸奥国から「岩背」と「岩城」に分断されましたが、このときはすぐにまた元に戻っております。
しかし、この岩城はおんが「いわしろ」ですが、字は「岩城」で「岩代」ではありません。「岩代」は明治時代になってから東北戦争終結直後に陸奥国より分立しました。

東北戦争とは、戊辰戦争の終盤に、政府軍と奥羽越列藩同盟(東北・北陸の31藩が同盟を結んだもの)との戦いです。
そして当社は陸奥の国の二ノ宮です(一之宮は都々古別神社ーつつこわけじんじゃ)が、戦後、全国一の宮会により「新一の宮」として岩代国一宮に認定されているそうです。

そして、そのくらいご由緒があり、また、大変古い神社なのであります。
 


〇大和からの流れ
ところで前述いたしました、大和からの流れというところですが、これは崇神天皇のことです。
大和では大神神社から、檜原神社大和神社と続けて参拝いたしました。

このいずれのお社にも崇神天皇は深く関わっておられます。

崇神天皇ご本人に関しては、この先、古事記の本編解説で詳しくお話しする(現在本編では神武天皇の途中ですので、このペースだと来年の夏ごろでしょうか??)予定ですので割愛しますが、そもそもこの会津という地名が、この伊佐須美神社に係りのあることんであります。

会津とは、そもそも「相津(あいづ)」です。

この出典は古事記にある、
「東の方より遣けつる建沼河別、其の父大毘古と共に相津に往き遇ひ給ひき故れ其地を相津と謂ふ」
であります。
これは、崇神天皇が支配領域を拡大するために全国に派遣した四道将軍のうち、北陸を侵攻した大彦命と、東海を侵攻した武渟川別命の親子が、この場所で出会ったことを記しております。

とても不思議なのは、大和へ巡礼する以前に、この伊佐須美神社への参拝を決めていたことです。
さらに正確に時系列でいえば、淡路の前です。
会津への訪問は、淡路に行く前、そして大和に行く前から決まってました。そして、ぼんやりとここは行ってみようかなぁと考えていたのがこのお社でした。なので、ここへの参拝はある課題を完結させました。

その課題とは、 崇神天皇に関してです。現段階で崇神天皇を研究対象にいれながら神話分析をしていくのは、結構、大変な作業なのですが、それも、丁度神武天皇に関して、このブログの本編でもご紹介している最中に...

やはり、ここは切り離せないのでしょうね。
 

 


〇伊佐須美神社のご利益
例によってレンタカーを会津若松駅前で借りまして、今回は前週の琉球八社よりは余裕を持って...
と、実は行く先を然程固定しておりませんでした。
しかも、この日、東京は雨がぱらついておりました。

 

立派な鳥居です。
 

ご由緒書き。
 
 

楼門です。

 

 

境内に入りました。
ですが、社殿がどこにあるのでしょうか??
正面にあるのが社殿のようですが、鳥居や楼門とはかなりイメージが違います。

 

 

聞くところによりますと、平成20年の火事により本殿・神楽殿・神饌所など消失してしまい、現在は仮社殿の状況です。

なるほど、それで理解できました。

そんなことをとても丁寧に教えてくださったのが、社務所とは別に仮社殿の前にテントを張って、休憩所兼お札を販売しているご婦人でした。
祈祷大麻(神棚用)を頂いて、四道将軍の話に花が咲いていたら、ここは「足腰の御守り」がご利益があるのだと??
基本、わたくしの神社参拝はご利益を希望祈願するものではありませんが、ふと、ここで脳裏に浮かんだのが義母のことでした。
丁度、整形外科に通い入院手術を予定しておりました。

あ、そうか、そのためにここに参拝に来たのだと、新たな使命を感じました。

したがって、再度、義母の代参でご祈祷させて頂きました。
 


〇大国魂が...
そしてもうひとつ、ご婦人から伺った話がさらに驚きでした。
なんとこの敷地内に末社があり、それは「大国魂神社」なのだということでした。
無論、四道将軍にご縁のあるお社ですから、そういう末社があることは期待をしておりましたが、事前情報では収集していなかったので、これには驚きでした。
まさに、淡路、大和、そしてこの会津の参拝がすべて繋がった瞬間でした。
大和から、四道将軍に導かれてこちらに来られたのだと、いや、その驚きは言葉では到底表現しきれません。

前述させて頂いた崇神天皇の課題??

いやいや、そうではなく、わたくし自身の大きな課題だったのでした。

 

その社がこちらです。]


伊佐須美神社の敷地内、木々が鬱蒼と茂っている中にぽつんと鎮座しております。
「会津大国魂神社」という名称です。

 

 

ふと思い出したのが、いわきにも大国魂神社があったのではという知識でしたが、それよりも、東京府中にある大国魂神社をすっとばして、先にここに来てしまいました。
(というか、前後しますが、この翌週に行くことも考えていたのですが、忙しなくなってしまいましたので。参拝に無理は禁物ですので... って、よくそんなこと言えるよなぁ...)

本年のテーマは国津神だと言われてもいました。

その通り、わたくし自身の課題だったのです。
それを、こちらでも思い出させていただき、やはり、この繋がりというのは不思議な、いや、必然で、必要だから繋がらせていただき、忘れても思い出させて頂いているのですね。

そんなことで、まさしく感謝の参拝になりました。

 

あ、なるほど、義母のことは、30年前に家内と繋がったことから決まっていたのでしょうか???


つづく...





 

 

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