立花孝志氏とマツコさんについて
NHKから国民を守る党の立花孝志氏については、3~4年ほど前に熱心にという程ではないが、個人的にユーチューブの動画で見ていた時期があったので、それなりの関心があった。過激というのか、怖いもの知らずとでもいうか、知名度が低かった当時とすれば(今もそうであろうが)世間一般的には、単に危険人物としか見られていなかったであろうに、動画で映し出される表情には暗さや屈託というものがまるでなく、いつも笑顔で意気軒昂に主張や解説をしている姿には、類まれな精神力やバイタリティ、行動力といったものが感じられて、お世辞を言うつもりはないが感服させられるものがあった。立花氏はNHKを退職してからパチプロをしていた時期もあったようであり、それも個人ではなくて打ち子を何人か雇って組織的に活動をしていたとのことで、その時の解説動画を見たこともあるが、ともかく全体的な印象とすれば危険であるにせよ、嘘がないというか、出色の存在感が感じられるものであった。その後、しばらく立花氏のユーチューブ動画を見ることから遠ざかっていたが、参議院議員に当選して国政政党の党首となり、随分と偉くなったものだなということが率直な感想である。批判や反感も多いであろうし、毀誉褒貶があるにせよ、色々な意味で立花氏のような人物こそが、本物の政治家であるというような気がする。はっきりと言えることは、立花氏には他の政治家が持ち得ていない信念というものがあって、個人的な私利私欲で政治活動をしているのではないということである。そして立花氏も動画の中で明言しているように、命懸けでやっているのだということが伝わってくる。実際に命を狙われてもおかしくはないような内容についても非常に説得力のある論理的な解説を動画配信しているものである。その覚悟や腹の据わりというものは凡百の政治家が比肩し得るものではないであろう。タレントのマツコさんが、立花氏のことを番組内で「気持ち悪い」と発言して騒動になっているようだがどうなのであろうか。私は言論の自由があるにせよ、命懸けで何か事にあたっている人に対して、公共の電波を通じて「気持ち悪い」などと言うことは道義的に間違っていると思う。気持ち悪いという言葉の中身を分析すれば、TV出演で多額の金を稼いでいるタレントの立場で言えば、目障りであるとか、邪魔だという意味合いになるのであろう。そうであれば、そうはっきりと主張して、立花氏と議論するなり、自分の立ち位置や考えというものを視聴者や国民に対して明確にすべきではないのか。それが出来ないで、単に一言で気持ち悪いと切り捨てるような言い方は単なる印象操作でしかない性質のものである。前回に述べた朝日新聞の「対話」という言葉の使われ方と同じで、TVや新聞などのマスコミは印象操作ばかりをしていることは否定できない事実であって、マツコさんはそういう全体的な流れに乗っかるように、立花氏のことを気持ち悪いと言っていたであろうことは明らかであろう。マツコさんはTV等で人を値踏みするように言葉を選んでいるようであり、個人的にはあまりいい気はしない。この相手には「気持ち悪い」という言葉を使っても許されるであろうというような打算や計算が感じられるのである。それに対して立花氏は動画を見ているとわかることであるが、相手の身分や社会的評価によって態度や言葉を変えるような人物ではない。言うなれば立花氏は過激であるかも知れないが、基本的に品位や品性の高さという資質が備わっている。それに対してマツコさんにはまるで品位、品格が感じられない。品位の低い者が高い者に向かって、気持ち悪いなどと言ってはいけないのである。そういうことがわからない人にタレントとしての価値はないと思う。一番組を降板するだけではなくて、タレントそのものを引退すべきであろう。
朝日新聞のレーゾン・デートル
あいちトリエンナーレの企画展が3日間で中止されたことに対して、8月10日の朝日新聞、朝刊11面のオピニオン&フォーラムでは、3人の識者の見解が掲載されているのであるが、その中で黒瀬陽平さんという美術批評家は、「対話を生み出すのが芸術」という見出しで、“芸術とは本来、作品を通じて様々な「対話」を生み出す力を持っています。テーマやモチーフがどのようなものであろうと最終的には観客が作品を通じて問題の内部に入り込み、感じ、考えるための仕掛けが必要です。”と述べている。
私はこの「対話」という言葉が気になって、看過、放置することが出来ずにこの記事を書いているのであるが、朝日新聞や、毎日新聞もそうであろうが、この対話というキーワードを紙面で多用したり、誰かのコメントから引き出させることで世論形成を図っていることが多い。それでは具体的に聞くが、そして一人でも多くの国民の皆さんに考えていただきたいことであるが、観客が昭和天皇の写真に火がつけられて燃えていく映像を見たり、「平和の象徴」であるかどうかはともかくも、慰安婦像と対峙することによって、そこにどのような「対話」が成り立つというのか。そこに本当に芸術作品とそれを見る者の心的な反応としての対話が生まれるであろうか。私にはとてもそうだとは思えない。そこにあるのは政治的な押し付けか、もっとはっきりと言えば、洗脳行為である。それを表現の自由や、対話という言葉で説明しようとすること自体が、さらに輪をかけるように純粋な芸術性から乖離した政治行為ではないのか。朝日新聞の論調はいつもそのような傾向性を有するものであるが、国民がむげに否定し難い言葉や感覚を利用して、その政治性なりイデオロギーを国民の日常的な感覚や良識の中に流し込もうとするものである。というよりも朝日新聞と言う報道機関は、いわゆる日本人の日本的な心や良心を組み替えるために日々、情報を発信していると言っても過言ではないとさえ私は考えている。と言っても何も私も、日本的な心や良心が必ずしも美しくて正しいなどとは思ってはいないから朝日新聞や毎日新聞がそれをより高度な倫理観で正しく世論を訓育したり、正そうとする姿勢そのものは、言論や表現の自由の範疇に属しているとは言えるであろう。ただし日本の新聞社やTV局は本当の競争原理に晒されていないから、その有り難くもご親切なイデオロギーが淘汰されることなく恒久的に世論の支配者として君臨し続けていることは日本の深刻な弊害であろうが、それはまた別の次元の問題である。報道姿勢としてどれほど偏向していようと、或いは反日であっても、朝日や毎日がその中核的な志向性を外部的にも内部的にも社としての土台、根幹のレーゾンデートルとしてはっきりと認めて主張を戦わせるのであれば、民主主義的な論点やテーマは明確になるもののはずなのである。誰にでもわかる説明で言えば、朝日や毎日は、我々は日本ではなく常に韓国の利益と立場で報道している新聞社ですとはっきりと認めることが出発点になるべきではないのか。そこを曖昧にしたり、誤魔化そうとするから、到底、対話が成り立たないことに対話を要求し続けるというような、世論誘導、操作などの洗脳をしているだけの報道内容以上のものには成り得ないのである。そこにあるのは国民の精神と認識能力を低下させる偽善、欺瞞が風呂場のカビのようにはびこっているだけである。というよりももっと本質的に言えば、戦後の日本の報道や情報とは朝日新聞だけでなくて、読売も産経もNHKもそうであるが基本的には全てが洗脳工作なのである。日本の報道機関ではあるが、日本人のために存在しているとは言えないものなのだ。それゆえにNHKや朝日が日本的な権威の象徴になったりもするのである。今の朝日新聞は落ちぶれてきてはいるが、それでも政治的に保護されているので途轍もない影響力を有していることに変わりはない。我々国民に何が出来るかと言えば、そのような朝日新聞的な一言一句の誘導、洗脳を暴き続けることで、社、自らが報道機関としての存在価値に疑問を生じるように仕向けていくことである。意識と認識上の戦いだ。私がしようとしていることは、そういう性質のことである。
愛知県知事は罷免されるべきだ
愛知県の知事は、かなり程度が低いようだな。こんな人間を知事に選んだことを愛知県民は心から恥じるべきだ。何が憲法21条の表現の自由だ。そんなことは小学生だって言えるぞ。そもそも憲法の条文だけで、機械的に社会の秩序や公序良俗が保たれるのであれば、政治などは不要の存在なのである。表現の自由であろうと、不自由であろうとそういう題目はどうでもいいが、我々国民やその代表である政治が警戒しなければならないことは、芸術や表現の自由の名のもとに、中立性や公共性を破壊するような政治運動、政治文脈が社会全体に浸潤してしまうことではないのか。そのような文化活動が公的に実施されることに対して、政治家がこれは良くて、これはだめなどと言うことは間違っているなどと主張することは、政治が表現の自由を守っているというよりも、その表現の政治性を擁護していることと同じである。もちろん全ての表現や芸術から政治性を排除することは不可能であるし、政治性が皆無の芸術と言うものも存在しないということは言えるであろう。歴史に残るような偉大な芸術作品であっても、たとえばピカソが描いた『ゲルニカ』のように色濃く政治性が感じられるものは多い。しかしその是非は主に後世の人間が、芸術性と政治性を天秤にかけて妥当性なり価値を評価するものであって、現下の政治が表現の自由という建前のもとに特定のイデオロギーの社会への浸潤、浸食を守る立場を取るのであれば、本来の政治は二次的、副次的なものに過ぎない状況を推進しているだけではないのか。そういうことがわからない人間が何の自覚も、問題意識もないままに知事を在任しているのでは、誰よりも哀れなのは自分自身ではないのか。言い過ぎでも何でもなく、これは明らかに辞職相当である。
その上で大村愛知県知事に問い質したいが、仮に「あいちトリエンナーレ2019」において大村氏自身や大村知事の家族の写真が燃やされる映像が芸術作品として展示されていたとしても、これは良くて、これはだめなどとは言えないという表現の自由の観点から黙って看過するのか。昭和天皇ではなくて徳仁今上天皇や雅子妃の写真が燃やされている作品でも芸術として認めるのか。昭和天皇であるならば許容範囲であるというのであれば、その政治性ではない芸術性の境界はどこにあるのか。天皇制に反対する人は認めないであろうし、私自身も天皇や皇室にさほど親しみを感じるものではないが、それでも天皇が、日本人全体の共通の家族として位置付けられていることは否定できないことであろう。国家や国民の道徳感覚、倫理観を激しく毀損する政治活動を芸術として、一政治家が認めるのであれば、一体何のための憲法であり、政治であるのか、そういうことを大村知事はよく考えるべきである。また愛知県民はこのような知事の責任を厳しく追及していくべきだ。